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大道棋の歴史(9)  藤倉満 表紙に戻る
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戦後の大道棋を語る場合、避けて通ることが出来ない「紳棋会」について、鶴田氏自身に語っていただくことにしよう。

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◆紳棋会二十年 編集主幹
(詰将棋パラダイス昭和三十六年五月号)

◇紳棋会とは−−−

命名者は誰であったか、いまとなってはしかとは分らないが、紳士の集りの棋会(グループ)という意味から名付けられた。 そして「シンギ」即ち「神技」でもあり、神技に一歩でも近付こうとの念もこめられてある。

昭和二十一年四月、私は昭和警察署(名古屋市)に勤務していた。 署のすぐ近くに帝国酸素名古屋工場があり、そこの技師長が樋口国雄氏であった。

そのころは、終戦直後でナイナイづくしのころであり、紙などもまだ統制化にあった。

名古屋に住む唯一の専門家は板谷八段(まだ六段か七段)で、我々は板谷道場(昭和区川名町)によく行っていた。 そこで前記の樋口氏を知り、その他のメンバーも知った。 そして一つ会を作ろうということになり、紳棋会を作ったのである。

参加したのは私、樋口氏、中川清氏(名大教授)北川寛一氏(名工大職員)柴田龍彦氏(名古屋中央郵便局員) 尾崎和夫氏(洋品店主)などで、臨時に参加した人もあった。

二ヶ月に一回くらいの割で各人の宅を持参り会場として集り総当り戦を行った。 そして将棋が終ると一杯ということになる。 まことに楽しい会である。

◇紳棋会報

この会の対戦成績などを記録するために、私がガリ版の原紙を切り印刷したのが「紳棋会報」である。 この会報には当時大へんはやっていた大道棋や大道五目の研究を載せた。 これが大いに受けて、他の都府県からも申込みがあり、30〜50部を全国各地に発送していた。

実は詰パラは、この紳棋会報に載せたものを主体として私が編著した「秘手五百番」の発行に伴って 必然的に生まれた月刊誌であるから、母体はこの紳棋会報と申してよいのである。

この会報の用紙を樋口さんに大量に寄付して頂いた。 いまだにその恩を忘れることが出来ない。

昭和二十五年四月、紳棋会を発展的に解消して詰将棋パラダイス(いわゆる旧パラ)が発行されたのである。

◇その後の会

爾来二十余年、この会はずっと続いている。 メンバーに成田忠雄氏や原広路氏石井武氏らを加えて、二ヶ月に一回技をみがき酒を飲んでいる。 全くその名の通り”紳士”の棋会である。 こうしたイキの長い会は珍しいのではあるまいか−−−。

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紳棋会報をとりだしてからは、私の大道棋収集もグンと能率的になったわけであるが、 当時出題していたのは香歩問題が主流で、 次いで銀問題9三玉型、銀問題8一玉型、金問題、持駒なしの問題、歩問題などであったが、 双玉問題は未だ姿を見せてなかった。

双玉問題が街頭に現れたのは昭和二十年代も半ばを過ぎてからであろう。 パラ誌上に初めて双玉問題が載ったのは二十六年の十一月号である。”複式詰将棋”と題して次の二局が紹介されている。

D図

E図

D図は千葉市で、E図は浦和市で出題されていたものだそうである。 そして次のような紹介記事が書かれている。

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複式詰将棋に就ては既に本誌で触れたが、最近大道に於てボツボツこれが現れた。 察するに在来の大道棋ではファンの方で一応マスターしたので新型として登場させたものと思われる。 とまれ本誌としてはこの方面にも紹介の手を拡げる事とします。

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そして同じ号の研究科(大道棋を出題)にも初めて双玉ものが出題された。 F図がそれである。

F図

双玉問題はその後も続々と登場してくるのであるが、これより数ヶ月前の詰パラ誌に、 双玉もの創作のキッカケになったのではないかと思われる文と作品が寄せられている。

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