木目1

次ヘ
次ヘ
大道棋の歴史(6)  藤倉満 表紙に戻る
表紙に戻る

それでは大道棋発生に関する覆面子説と、倉島、仁神説はどちらが真実であろうか、 覆面子が根拠とするように大道棋用の棋書が初めて製造された年と、大道棋屋の誕生の年とは一致しなければならないものだろうか、 必ずしもその必要は無いとも考えられる。 現に仁神氏が「詰めると将棋の駒を呉れたものである。 私も詰めて貰った事がある」と言われている通り、 棋書が無くとも商売は出来るのである。 といって、倉島氏・仁神氏にも記憶以外に客観的な根拠があるわけではない。 それも仁神氏が「私の記憶に誤りが無ければ・・・」 と言われている通り確実なものとも言い切れないのである。 従って初期の街頭講義と、大正十五年以降の大道棋出題の二つの光景が両氏の記憶の中で混線している可能性も考えられるのである。

然し私は、どちらかといえば、大正十五年以前に、もしかすると、 仁神氏が言われるように大正八、九年頃から大道棋は店を張っていたのではないかと思う。 その理由は前記した通り、棋書が初めて作られた年に、それほどこだわることはないと考えるのが一つと、 もう一つは、その大正十五年に作られた棋書に収められた詰将棋の一局からそのように考えるのである。

B図

B図は、定跡破早指奇襲、将棋必勝法−可章馬百番斬(七縦七檎鬼殺) と題する大道販売用の棋書中に収められた詰将棋二十局中の第十番である。 同書の奥付には、大正十五年十一月五日発行、著作兼編輯者、野田圭甫、 東京市下谷区金杉下町七十九番地、発行者野田健次郎、東京府三河島町字二ノ坪二六五八番地とある。

大道棋としては、形が広がり過ぎて実戦局としての価値は殆ど無いが、 それにしても、よくこんな問題を収録したものである。 これを見たら大抵の客は尻り込みしてしまうだろう。 然し詰手順の内容は仲々高度である。 大正十五年の時点で初期の七変化将棋が、既にこれだけ発展していたとすれば、 その間に幾許の年数の経過、を考えてもよいのではないか。 この局を収録したのは、悪形で実戦では使えないからだと思うが、 そうとすれば実戦局の好形作品も相当数作られていたのではないだろうか。 但しこの問題は不完全作で不詰である。 二十八手目7二桂合のところ銀合とされると、以下7四角、9三玉、8三角成、同銀となり、 次8二飛成や8三金などの手があるがいづれも詰まないようである。 野田圭甫の見落しであろう。

LINE

加藤注:7二桂合でも7四角に9一玉で不詰。 ただし、十三手目9二香成以下の早詰がある。 ほかにも早詰がいくつかあり、分岐棋譜で示した。

木目1