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大道棋の歴史(7)  藤倉満 表紙に戻る
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いろいろの雑誌から大道棋の起源に関する記事や文章を御紹介したが、その他で重要と思われるものを左に挙げておく。

◆大道棋の沿革 近藤二桂
 (将棋月報の昭和十八年十月号)

◆趣味の詰将棋、序文 塚田正夫
 (昭和二十四年六月十五日発行、香歩問題単行本)

◆異色座談会・大道棋よもやま話
  語る人・内山龍馬、杉浦一郎、大川義郎
  聞く人・坂口八段、村山隆治、永井永明、石田武男
 (近代将棋昭和二十五年八月号)

◆詰将棋パラダイスの諸記事

これらの諸文献を総括してみると、大道棋の発生は凡そ次のようなことになろうか。

大正五年頃、浅草公園其他の盛り場で、将棋の講義をする八字ヒゲの五十年輩の男を見掛けるようになった。 向島玉の井の住人で、棋力六段と自称する野田圭甫である。 黒紋付の羽織りに小倉袴という出立で、白布に盤面を書いた三尺四方の白布を地面に張り、 その前に座って右手に竹製二尺程の鋏を持ち、ボール紙を張り固めた大きな駒を操りながら、 懸河の弁を振って奇襲戦法、可章馬(鬼殺し)の講義をしている。 聞きに集った客に、半紙大の木版刷の定跡パンフレットを十五銭か二十銭で売るのが目的である。

同じ頃か、やや遅れて、もう一人街頭講義で棋書を売った人があった。 年の頃は三十過ぎか、麻布算町の住人荻野竜石(本名浩吉)である。 講義には大盤は使用せず、三寸と称する組台の上に普通の将棋盤が置いてあった。 この人が講義のあと詰将棋を出題して客集めをすることを考えついた。 これが香歩問題のはしり、七変化である。 圭甫と竜石の街頭講義風景は、先に重複を厭わず引用した諸氏の記述によって眼前彷彿たるものがあると思う。

竜石に続いて定跡の街頭講義をしたのが堀内宗善である。 やはり人集めに詰将棋を出題していたが、彼は七変化や古図式に手を入れて改作図を作り、相当数の手持問題があったようである。 宗善はそれを余興としてではなく、商品として出題することを思いついた。 即ち詰めれば賞品として無料で、詰まなければ研究料として有料で引き取らせるという商法である。 これが大正何年頃のことかは分らない。 宗善の仲間の内山竜馬も大道詰将棋を作った。 この二人は香具師であると共に真剣(賭将棋)師でもあり棋力があった。 この二人の作品が香具師仲間に提供されたことにより、大道詰将棋屋は俄にその数を増やすことになった。 これに拍車を掛けたのが、例の竜石、圭甫の活版刷り大道棋棋書の発売であろう。 私の見た大正十五年発行の棋書には、定跡と詰将棋の両方が収められていたが、昭和三年発行のものには定跡は姿を消していた。 既にその必要は無かったのであろう。

以上簡単にまとめてみたが、これは仮説の域を出るものではない。 宗善が大道棋の元祖であるかも断定は出来ない。 仁神氏の記憶にある大正八九年頃の大道棋屋は、これとは別系統かもしれない。 大正時代の大道棋について何か御存じの方は是非詰パラ誌に寄稿していただきたいものである。

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