木目1

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大道棋の歴史(5)  藤倉満 表紙に戻る
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◆大道棋の発生 千葉市 仁神金兵衛
(詰将棋パラダイス昭和三十五年五月三十日発行第53号)

(前略)主幹は「大道棋の発生は昭和の初期であり云々・・・」と書いている。

これは、主幹が住んでいた街での話ならそうかも知れないが、全国的に見ると、その発生はもう少し早いようである。

小生の記憶に誤りがなければ、それは大正八、九年頃から街頭で出題されるようになったと思う。

小生が十六、七才の頃である。 (これから逆算すると、私の方が主幹より五つ六つ年長のようだ)

当時、東京の新宿には毎日夜店が出ており、あのなつかしいアセチレンのランプをともして店を張っていたものだ。 その雑多な夜店にまじって「大道棋屋」が店を張っていた。

今と違って、世相もそれ程トゲトゲしくない頃で、詰めると将棋の駒を呉れたものである。 私も詰めて貰った事がある。

出していたのは「香歩問題や銀問題(54馬、63銀合型)」などであった。 客寄せ用としては

 玉方 73玉、72歩、63歩、83歩、
 攻方 93竜、99香、71角、65金
 持駒 歩
(詰手順 82竜、84玉、73竜、同玉、74歩、84玉、93角成以下)

というようなものを出し、ジン(客)がシマル(集まる)と、香歩問題などを出すのである。 物珍らしさもあって結構商売になっていたようだ

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右は詰パラと併行して発行されていた「詰棋通信」に分割連載されていた 「秘手五百番」が完結し、再録版として刊行されたとき、 その序文の中に書かれた主幹の大道棋との出合いについての文章に関連して、 仁神氏も少年時代を回顧して書かれたものである。 主幹はそれに対して同じ53号の詰パラで次のように述べられている。

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◆昭和の初期 編集主幹

仁神氏の御示教により、東京ではすでに、大正八、九年ころから大道棋がお目見得していることが分った。 大変参考になり、又興味深い。

私は、関東大震災の翌年の夏、つまり大正十三年(中学一年生)に、父に連れられて上京した。 浅草の仲見世で映画の映写機を買ってもらった。 浅草を歩き回ったので、或は大道棋の店をのぞき見たような記憶もない事はないが、どうもハッキリしない。 映写機を買ってもらったのと、 かえりの汽車の中でアイスクリームを食べすぎて腹をこわした事が強く記憶に残っているだけである。 その頃、すでに詰棋には興味を持っていたが、大道棋なんてものは夢にも知らなかったわけである。

私の生れたのは五万石の岡崎城下で市の繁華街康生町(家康が生れた町という意味)の十字路で、 そこには大抵の日に将棋屋と五目屋が店を張っていた。 中には旅から旅の渡り者のギショウ屋やモク屋も居り、 将棋では主に香歩問題、五目では二目で四三勝の法則問題を出していた。

現代でもそうだが、流行は国の中心たる東京で発生して漸次地方に波及するのであって、 現在は通信の発達でその伝播速度が早いが、大正の頃は世の中もノンビリしているので、 大正七、八年に発生した大道棋が、私の町に伝わるまでに五、六年もかかっている事になる。 思えばなつかしきよき時代ではあったようだ。

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将棋好きの中学一年生であった主幹が、 歩き回った浅草で、大道棋の店を見たか見なかったか、 残念ながらその記憶はサダカではないようである。 これが「浅草で見た大道棋のことは今でも強く印象に残っている」とでも書いてくれたら、 目出たく一件落着となるところだが物ごとは仲々うまくゆかないものである。 将棋好きの少年だからもし大道詰将棋が出ていたら当然憶えていてもよいとも考えられるし、 少年の関心は、モッパラ買ってもらった映写機に集中していて、 浅草の街頭風景の記憶まで期待するのは無理のようにも思えてくる。

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