木目1

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大道棋の歴史(4)  藤倉満 表紙に戻る
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◆南海の巨匠(十三) 銀座の大道棋 倉島竹二郎
(将棋世界昭和四十六年一月号)

関根新名人が誕生した翌年−−大正十一年の暮れのことである。

その日は、大崎七段が将棋師範をしている交詢社の稽古日であったが、暮れで忙しいのか常連もいつもより少なく、 大崎七段は交詢社の将棋部の世話役石山賢吉氏と一緒に早目に西銀座の交詢社ビルを出た。 石山氏が夕食がわりに大崎七段を京橋の「幸寿司」に誘ったのだった。(中略)

銀座の表通りでは、街路樹の柳の黄ろく細い葉が一面に散り敷き、その上に夜店の仕度がボツボツ始められていたであろう。 が、二人は裏通りを京橋の方に向って歩を運んだ。 二人がとある町角に差しかかった時、そこにちょっとした人だかりがあった。 銀座辺にはめずらしい大道棋が出ていたのだ。 石山氏は目ざとくその人だかりの中に知人らしい人物の後姿を見つけた。 その知人らしい人物はどうやら詰将棋をやっている様子だった。 石山氏は大崎七段に合図をすると、大道将棋の方に近寄っていった。

その頃の大道詰将棋は普通一回五十銭で、詰ませば敷島というタバコ二箱と、詰将棋の本を賞品としてくれることになっていた。 傍に寄って覗き込むと、当節流行の派手なホームスパンの背広にこれも派手なハンチングを被り、 顔を真赤にして詰将棋をやっている人物は、案の定石山氏や大崎八段がよく知っている万朝報記者の三木愛花氏であった。 三木氏はすでに数回やって取られっぱなしのようだったが、 大崎七段は一目見てその詰将棋が三木氏の棋力では何回やっても解けそうにない難物であることが分った。 で、大崎七段は 「三木先生、詰物はそれ位にして、一緒に幸寿司に行きませんか?」 と声をかけた。

詰将棋屋はムッとした表情で大崎七段をにらんだが、年輩者だけに顔を知っていた様子で表情を柔げ
「大崎先生でしたね。 こちらは三木愛花先生でしたか? 存じないもので−−−」 と愛想笑いをし
「またこの次ごゆっくりお遊びを」 と云うと、置いてあった敷島を一ト箱三木氏に手渡そうとした。

当時のこういう連中は、なかなか仁義を心得たものであった。 三木氏は苦笑しながらタバコを受取ったが、その代り細かくたたんだ一円札をソッと皆に分らぬように詰将棋屋に握らせた。

LINE

この小説は田代邦夫氏の「大道棋辞典」の序文にも引用されているが、 その後続いて田代氏は次のように書かれている。 「以上の倉島氏稿に接し、早速この間の事情につき問合わせを出した処意外にも、この文章はフィクションであるとのことであった。 しかし、氏が大正11年頃の学生時代に実見した街頭将棋により作られたフィクションということで、 大正11年頃にはすでに大道将棋が存在していたようである。」

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