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大道棋の歴史(1)  藤倉満 表紙に戻る
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「大道棋 奇策縦横(形幅清 昭和53年9月)」より

「奇策縦横」の序として主幹が執筆される予定であった「大道棋の歴史」が、 主幹の病気入院のため、急にそのお鉢が私の方に廻って来た。

大道棋の発生は普通大正十二年の関東大震災前後だと言われているが、 私が初めてこれにお目に掛ったのはそれよりずっと遅く、昭和十年頃のことである。 それも東京や大阪、名古屋などの大都市ではなく、郷里土佐中村市(当時は町)の、 しかも年に一度の一条神社の例祭の賑いの中であった。 その頃私は旧制の中学生で、将棋は好きであった。 そのとき出題していた香歩問題を数日がかりでやっと解いて、その巧妙な詰手順に驚嘆した記憶がある。 然し祭と共に去って行った大道棋に、それ以上特別の関心をもつことは無かった。 というより田舎に居ては関心の持ち様も無かったのであろう。

そんな私に経験に基づいた大道棋の歴史など書けるわけもないので、 雑誌などに書かれた諸先輩の文章を紹介させていただきながら大道棋のルーツを辿ってみたいと思う。

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◆大道詰将棋・五目並べはインチキか 山田正雄
(文芸朝日昭和三十九年八月号)

大道詰将棋の歴史は比較的新しい。 大正の末期、忽然として街頭に進出した。 はじめは棋書を売るのが目的であった。

大震災の復興なった帝都の各所−−浅草観音堂の横手や神楽坂毘沙門天の縁日に将棋の講釈師が店を出すことが多くなった。 野田圭甫といって玉の井在住の老人である。 この人は長い美しいひげをたくわえ、黒五ツ紋の羽織に小倉袴といういかめしい出立で <<可章馬>> という奇襲戦法を講義し、薄っぺらな定跡パンフレットを一冊二十銭で売った。 地面に盤面を書いた三尺四方ばかりの白布をおき、ボール紙ではり固めた大きな駒を並べ、 右手に竹製のハサミようの道具を持ち、美声を張上げて講釈をつづけた。

圭甫はアマチュアながら棋級六段を唱え、自宅に <<可章馬研究会>> を設け、パンフレットを発行した。 将棋ファンには <<可章馬>> というよりも <<鬼殺し>> といったほうが通りがよい。 ▲7六歩 △3四歩 ▲7七桂 △8四歩 ▲6五桂 △6二銀 ▲7五歩 △8五歩 ▲7八飛 と桂馬が真先に踊り出て敵陣を破る例の奇襲戦法である。 大正十五年発行の <<可章馬奇襲全書>> を見ると <<新変・鞍馬八流>> という大時代がかった副題がつき、小型本十四ページで定価は一円。 さらに面白いことには、この本は当時の農商務省に登録番号第135709号で登録し、 類似の出版を禁ずる法的措置をとっている。

この圭甫は将棋を街頭に進出させた最初の人であるが、 同じく麻布の人荻野浩吉(竜石)は東京将棋速成会を結び、露店販売用の棋書を刊行した。 棋級は初段、連珠をもよくし、露店で定跡や詰将棋の講釈をして出版物を売った。 仲間に堀内宗善という人がいた。 棋級は五段、定跡の路上講義は天下一品という評判であった。 この人も定跡を講義するかたわら棋書を売ったが、あるとき、 棋書を買った客に余興で詰将棋を出題して見せたところ、思いがけなくも好評を浴びた。 そこで、こんどは詰将棋で人を集めて棋書を売る新手を考えた。 定跡講義では準備も大変だし深い知識が要求されるが、詰将棋なら解答を覚えておくだけでよい。 ねらいは的中し、黒山のように客が集った。 評判をきいて、同業者が続々と名乗りをあげた。 なにしろ、詰手順を暗記すれば商売ができるのだから、にわか仕立ての大道棋屋が全国を巡業した。

宗善は真剣(賭将棋)で鍛えた人だけに、なかなか鋭いものを持っていた。 最初に出題したのは七変化(ばけ)という <<香歩問題>> の原図式であった。 多分、A図のようなものではなかったか。(後略)

A図

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この記事によると、大道詰将棋の前身ともいうべき、野田圭甫の街頭棋書販売は、 大震災以後の如くであるが、一方これに対して、大震災以前既に行われていたとする意見もあるので、次にそれ等を御紹介したい。 なおA図は元禄十六年刊行初代宗桂作品集と伝えられる「象戯力草」の第九十番と同一図で、 香歩問題の原図と思われているものである。 堀内宗善も多分この図を出題したことではあろうが、然しこれは七変化将棋(後出)ではない。

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加藤注:野田圭甫と荻野竜石の写真は原文にはなく、昭和詰将棋秀局懐古録下巻に収録されている「草創期の大道棋」(篠原のぼる)より転載したものである。

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