木目1

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大道棋の歴史(2)  藤倉満 表紙に戻る
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◆さんざんの銀は私の義兄 永沢勝雄
(将棋世界昭和四十四年六月号)

建部さんが四月号に”将棋用語雑記”という標題で、発音の濁りについて、いろいろと面白いことを書いておられた。

その中に荻野竜石という名が出てきて「大道で将棋の講義をするとき同氏は3三銀に対して「さんざんのぎん」 というように発音したのをきいたことがある。 三を”ざん”と濁って発音し、その下に調子をつけるためか”の”の字を入れる。 この方があとの言葉がすらすらでてくるということらしい。」 とあった。

私の気付かないことを建部さんはよく観察しておられる。 この荻野竜石というのは私の義兄である。 本名を浩吉という。

建部さんが大道で義兄の講義をきかれたのは大正五、六年ではないだろうか。 はじめ義兄は絵草子屋の番頭をしていたが、カケ将棋に凝ってお店を失敗してしまい、 これが動機となって大道で将棋の講義をし、生活の資をかせぐようになったのだと姉から聞いたことがある。

講義をして売ったのは、タテ五寸幅三寸ばかりのザラ紙に、大きな活字で刷った定跡手順である。 いま現物は残ってないから確かなことはいえないが”将棋精選”の抜き写しではなかったかと思う。 一枚の紙ペラの表裏に一定跡がおさまっていた。 義兄は昼間このタネを作り、夕刻になると方々にでて行った。 生活は相当に苦しかったようである。

ふだんは無口だったが、縁日に三寸という台の店を張って講義を始めると、まるで別人のように口が達者だった。 さあ皆さん、ここでどうしますか。 といって立ち合い(符丁でジンキャクという)の表情をゆっくり見まわして、間をおく呼吸が実に巧かった。

コマセといってこれが大事なのである。 今にも続きをやるように見せてナカナカやらない。 みせてしまっては紙ペラなど誰も買わないだろう。

知りたいと思う人は、これを見ればいい。 みんな書いてあるといって、底のない封筒に、これが中飛車、これが石田流、これが筋違い角と、 何枚もの紙ペラを入れて二十銭で売っていた、これを落としまえという。

二十銭といっても今の若い方にはわからないだろう。 当時は一人前の大工の手間が一時間十銭が相場だったから、これだけ物価が安かったわけ。 こうして二十銭の商いを一講義に幾つするかが義兄の勝負だった。

ひとくさり講義が終って売るものを売ってしまうと、三寸の前にたかっていた人客は散る。 再び人よせするにはしゃべらなければならない。

そこで義兄が考えついたのが詰将棋の出題である。

(七変化) 大道詰将棋の原図

「詰むといえば詰まない。 詰まないといえば詰む。 これが七変化将棋(ナナバケ将棋)どっちにゆきますか」 一人二人、立ちどまった人客にそういって義兄はあとのしゃべりを節約する。

この七変化将棋が、後に隆盛をきわめた大道詰将棋の原図である。 ひょんなことからテキ屋の手に渡っていじくりまわされ「詰んだらこれをやる、詰まなかったら幾らだせ・・・」 というトバクみたいなことになり、当然に警察の目が光って、所によっては店が出せないまでに大道詰将棋は零落した。

義兄が七変化を出したのは、あくまでも講義の継ぎ穂であり、詰まなかったら、うんぬんなどではない。 講義して定跡の紙ペラを売るのが主眼であった。

元祖ではない。 義兄より先に野田圭甫という人が、東京の四ツ谷塩町の(いま何と変わったか知らない) あたりを根城にして大道で講義していたのを覚えている。 この人は四尺四方もある大盤を、地べたに毛布をしいておき、自分は紋付の羽織を着て盤の前に座り、 コマを動かすのに、バタ屋が使うようなハサミを使用していた。

講義の内容はもっぱら可章馬(いまでいう鬼殺し)だった。 いうことが大きい。 「関根、土居のやからでも、これにかかったら一たまりもない。 関西の坂田三吉は、はだしで逃げた」

紋付の肩ひじ怒らして・・・そうだった。 この人は立派な八字ヒゲを生やしていた。 おくめんもなく述べ立てる。 こう受けたらこう、こう受けたらこう、と相手に受けさせてばかりいる。

服装は大先生ぜんとしていても、義兄と同じ紙ペラを売るのが商売である。 義兄の講義に誇張がなかったとはいわないが、野田氏のような度胸のいいハッタリはなかった。 大道将棋の正統派と思うゆえんである。

建部さんにお礼申上げる。 今のプロ棋界からすれば全く無である荻野竜石の名を四月の文中に書いて下さったことを。 あれを読んで一気に書いた。

LINE

永沢勝雄六段によると、荻野竜石の街頭講義は大正五、六年ではないかという。 野田圭甫は更にこれより先だということである。 なお将棋世界の七変化の図は玉方9六歩が9五歩と誤っていたので訂正しておいた。

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