豊川市内

 姫街道は豊川市では中心部を横断している主要道で、交通量が多く市街地では昔の面影があまり残っていない。国府−豊川間は名鉄豊川線が近くを走っているので便利である。それより東の部分はバス路線があるが朝と夕方しか利用できない。

★御油の追分
 東海道から姫街道への分岐点。常夜灯と道標がある。「左ほうらいじ道」「砥鹿神社道」「秋葉山三尺坊大権現道」の文字が見える。姫街道は信仰の道でもあった。古代には二見の道といわれ、万葉歌人の高市黒人は「妹もわれも一つなれかも 三河なる二見の道ゆ 別れかねつる」と愛する人との別れを歌っている。

写真
・左手前から奥の道路が旧東海道
・手前側が上り、奥が下り方面
・右に曲がると姫街道に入る
・画面中央やや右よりに常夜灯がある

★芭蕉句碑「陽炎の 我が肩にたつ 紙衣かな」
 追分から姫街道に入って500mほど行くと左手に西明寺の案内碑があり、傍らに小さな句碑が立っている。これは芭蕉の没後50年たった寛保3年(1743)に建てられた東三河地方で最古の芭蕉の句碑。

★船山古墳
 芭蕉句碑から東へ10mほど行くと左手に東三河最大の船山古墳が見える。全長93m、高さ7.6mの前方後円墳。前方部の一部が道路で切り取られているが、道路をはさんだ信用金庫の駐車場の隅に円筒埴輪の出土状況が見られる展示ケースがある。

★三河国府跡
 奈良時代には統一国家の制度が整い、地方には国府が置かれ、国司を派遣して治めさせた。三河の国の国府は今の国府駅の北にある白鳥台地に置かれたようである。姫街道の南にある三河総社から西側一帯にかけて大型の列柱穴が発見されている。

★国分寺
 筋違橋から北側に見える八幡台地にある。東西南北180mの土塀に囲まれた寺域を持ち、金堂、講堂、塔などよく遺構をとどめている。重要文化財の鐘、現在の本堂の西50mに塔の礎石がある。

★国分尼寺
 国分寺の東北350mにある。地名の忍地は尼寺から。

★八幡宮
 本殿は文明9年(1477)建立。重要文化財となっている。

★諏訪神社
 かつて神社の西隣に江戸から七十六里の「諏訪の一里塚」があったが今は跡形もない。

★豊川稲荷

 日本三大稲荷の一つ。豊川稲荷は妙厳寺の守護仏ダキニ真天を祀ったものである。嘉吉元年(1441)創建。総門の次にある山門は今川義元が寄進したもの。

★三明寺
三明寺三重の塔

 大宝年間(694〜703)に文武天皇の詔を受けて建立された。重要文化財の三重の塔は室町時代末期(1531)の建造である。1層と2層が和風、3層が唐様の折衷様式である。

★豊川市郷土資料館
 午前9時半〜午後4時半 休館日・月曜日
 小振りだが古代から現代までの豊川市の歴史展示が良く工夫してある。御油の旅籠屋も復元してある。

★豊川海軍工廠跡
 豊川市発展の契機は昭和14年から始まった東洋一の海軍工廠の建設であった。昭和20年には職員4百、工員1万、徴用工員4万、動員学徒6千人が勤務した。広島に原爆が投下された翌日の8月7日、124機のB-29爆撃機の空襲を受け死者3千、負傷者1万人の犠牲者を出した。跡地にある名大空電研究所には火薬庫跡が残っている。

★寿命院
 国道151号線を越えて東へ少し行くと右手の真言宗寿命院の先に1本の榎(えのき)が見える。地元では「一里塚の榎」と言われている。

★当古の渡し
 姫街道と豊川(とよがわ)が交差する当古は昭和9年に当古橋ができるまで渡船場があった。豊川には舟運が盛んで上流の新城から吉田(豊橋)までは舟で1日行程、逆の上りは当古で1泊2日行程であり、当古村には常宿としての舟宿が並んでいた。川の増水時には姫街道の旅人が足止めされて宿場としてもにぎわった。

★旧家・中山家の跡
 徳川家康の船渡しを助けた功により渡船の特権を与えられたのが中山家の祖先であった。代々庄屋を勤めた旧家である。
 
中山家と当古の渡し

 中山家は、八名郡西郷(現豊橋市石巻町)に居城した西郷弾正左衛門尉の子孫にあたる家柄で、家伝によると、先祖は西郷八城の一つ、五本松城の代官となり姓を中山と改めました。
 当家二代目中山是非之助道半は姉川の合戦(1570)での軍功が認められ、信長、家康両公より感状を授けられています。
 天正八年(1580)に中山吉次宗秋がこの地に居を構え、貞享年中(1684〜1687)から代々当古村庄屋を務めました。また、徳川家康が浜松城主の頃、本坂道を通って浜松と岡崎を往復する途中、豊川の増水で立往生していたところ、中山家の先祖が当古の船渡しをした功績により、慶長年中(1596〜1614)から渡船の御用を任ぜられ、以来、安政六年(1858)に村に権利が移るまでの間、当古の渡しの運営にあたりました。
 当古の渡しは昭和九年(1934)に旧当古橋が完成されたのを期に、三百数十年に及ぶ長い歴史に幕を閉じました。

写真の場所は広い公園になっており、園内に碑が建てられている。
上の文はこの碑より引用した。


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