姫街道の歴史

 姫街道は愛知県御油宿から静岡県見付宿の間を浜名湖の北岸経由で結ぶ東海道の脇街道である。
 正式には本坂通と呼んだ。愛知県と静岡県の境にある本坂峠はこの間の難所である。本坂の名の由来は古代において愛知県側の国名が「穂の国」(三河の国・宝飯郡)であり、「穂の坂」または「穂の境」がなまったものと言われる。
 中世末期から近世初期にかけて栄えたが、江戸幕府により東海道が整備されると険しい山越えのある本坂通はさびれ、「ひね」た脇街道に転落した。そこで本街道である東海道を男、脇街道の本坂通を女に見立てこれを「姫街道」とも呼ぶようになったという。一説には東海道の新居の関所を「今切関所」ともいい、新居・舞阪間を「今切の渡」と呼んだため女性にとって縁起が悪い言葉として嫌われ、また船の危険を避けるため女性はこのルートを避け、本坂通を通ったからともいう。
 明応8年(1499)この地を襲った津波により、浜名湖と遠州灘が大きく切られてから舟で渡るようになった。
 ところが宝永4年(1707)東海地方を襲った大地震のため今切渡船場が破壊され通行不能となって俄然交通は本坂通に集中した。翌年東海道は復旧し幕府は本坂通の通行を禁止したが、危険を感じた旅人の多くは本坂通を利用した。明和元年(1764)幕府は本坂通を東海道の別道として認め道中奉行の支配下においた。ただしその管轄地は御油−気賀−浜松ルートになっている。これ以前には今も一里塚が残っている気賀−市野−安間ルートが本道であったが、このころ浜松宿が大いに発展し、逆に市野宿は定期市が他の村へ移り宿場が衰退していたためらしい。
 明治2年新政府は諸道の関所を廃止し、古い街道の時代は終った。
三浦繁著「姫街道ガイドブック」より引用


江戸時代の姫街道略図


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