OSTRACISM CO.
恐れ多いことにここのタイトルは

楽典

である
作曲の前に

 学生の頃、音楽サークルで新入生だけで構成された初心者だらけのコピーバンドの音を聴いたことがある。基本的にハチャメチャなのだが、なんというか、ちゃんとバンドの音になっていた。誰がやってもちゃんと音楽に聞こえるように楽曲ができてるんだなぁと妙な感心をした。
 当時の私の作品はなかなかバンドの音とのなじみがなかった。入りやすいイントロも、ノリの良いリフも、拍手しやすいエンディングもなかった。このあたりは現在もさほど違いはない。むしろ遠ざかってる分、より一層バンドの音とのなじみは悪くなってるのではないかと思う。

 形から入るのはバンドも同じ。プロが用意した形をトレースすればバンドのような音は素直に出る。問題はそこに留まるか否かだ。ロックはそもそも素人がやってナンボの音楽だ。

 少なくとも私はコピーに全く興味がなかった。当時のサークル仲間の一人(リーダー格だった)は私と正反対の意見を持っており、「既に素晴らしい曲が沢山あるのだから、ボクらみたいな素人が曲を書くなんてことしても意味がない」というようなことを常々言っていた。彼の好きだったチューリップが素晴らしいかどうかは置いておくとして、面白い考え方ではある。もちろん私は「ロックなんざ自分で作ることに意義があるもんじゃろ」という意見だった。
 ロックやフォークはそもそも素人が楽しむための音楽であり、ロックスターの大部分は音楽の技術にはあまり長けていない。良いロックバンドと巧いロックバンドは全然違う。
 技巧を凝らしたロックはそもそものロックの意義を否定してしまうことになる。大部分のいわゆるプログレがゴミなのはそのためだ。実は「巧いね」は誉め言葉にはならない。

 私は嫌いな音楽が多いのだが、ある日はたと気が付いた。流暢なリズムが嫌いなのだ。
 流暢なサンバのリズム、ノリノリのジャズのリズム、正確なフュージョンのリズム、ファンキーなブラックのリズム。どれも体が受け付けない。
 ぎこちなさと言葉にしてしまうと嘘が多分に含まれるが、他に表現が思い当たらない。私はぎこちなさを持ったリズムが好きだ。
 ブラッフォードのリズムは、たぶん正確なのだろうが、どこかがぎこちない。リンゴスターのリズムは実にドタバタしている。ユキヒロのリズムも何かが違う。クラフトワークは計算の上かもしれないがリズムが怪しい。ボンゾの重さは流暢とは別のものだ。森高千里のバタバタしたリズムは独特だ。リズムボックスのリズムは正確すぎてとてつもなくぎこちない。

 与えられたものをただ享受するという態度はロックには似合わない。享受するならばもっと質の良いものを求めるべきだ。商業ロックは存在意義との矛盾なくして存在しえない。

 さて、音楽を作りましょうか。

1997.12.17
作曲の方法

 より良い音楽制作のために行うべきことは単純で、基本的には内省を促すことである。
 現代はあまりにも大量の情報が流布されており、それを消費するだけで手一杯で、作品を制作しようという意識が希薄となりやすい。便利だったり他に面白いことが多い状況では、何かを作るなんてことはなかなか思わないものだ。人が何かを作るという行為はやはり欠乏の充足なのだ。

 休暇等でまとまった時間を取れたら、まずテレビを消す。新聞も読まない。ラジオも聞かない。通信のログもメールも読まない。本も閉じる。オーディオも消す。ゲームなんてもってのほか。電話はかかってきたらしかたがないがなるべく要件のみで済ます。ようは情報の徹底的な遮断をする。

 1日ほど漫然と過ごす。紙と鉛筆でひたすら落書きをする。食事は外で簡単に済ませば良い。何かモチーフがでてきてもまだ楽器を触ってはいけない。頭の中でイメージを何度もトレースすべきだ。

 翌日に楽器の電源を入れる。どれか一つ選んで適当に触る。音作りをしてもよい。気持ち良い音がでるまでやはり漫然と過ごす。まだ録音をしてはいけない。

 さらに翌日の時点で音のモチーフが出てなければもうそれはあきらめたほうが良い。

 頭の中でトレースしていた音を実際の音に変換する。イメージの音に近づける行為も良いが、意外な音で刺激するのも悪くない。たいてい最後には最初の音に落ち着くので、ここでは試行錯誤を楽しむのが本筋。サウンドに触発されるのは悪いことではない。正のフィードバックは歓迎すべきことだ。
 イメージに近かろうが遠かろうがともかく録音する。録音はテープでもシーケンサでもどちらでも良い。この段階がデモである。
 パターンがひとつできたらそれを発展させても良いし、今回はこれで終っても良い。

 パターンは一つのままでも複数あっても良いが、それを完成形にするのはただただルーチンワークに近い。創造的で楽しい仕事の8割は既に終っている。ただし、作品を完成させる作業は音楽的能力に依存する。
 音楽の創造における本質部分は音楽的能力を必要としない。音楽の創造に技能はいらない。世に高度な音楽理論を用いて作られた作品は多いが、音楽理論は完成させるための作業に必要なのであって、モチーフの創出の役には立たない。

 ここから先はちまたに多くあるDTMの解説でも読むと良い。

1997.12.16
作曲の後で

 「音楽は作る側と聴く側の間にある」という言葉のままではないが、バーンスタインが生前(死んだら言えないね)こういった内容の発言をしたと聞いた。
 せっかく作った作品を誰にも聴かせないというのは、確かに作品の存在理由の否定につながる。創作活動は創作物の他人との共有を前提とする。
 しかし、アマチュアの作品を好んで聴く聴衆は多くはいない。また、アマチュア作品を流通させる良い手段がない。漫画におけるコミック・マーケットのようなものは音楽にはない。
 インディーズは既に半分メジャー化している。ライブハウスでの演奏はそれこそライブハウスで演奏可能な形態が必要だ。制作した音楽そのものが流通するわけではない。
 音楽の流通はほぼ完全に大手レコード会社に握られている。著作権管理もレコード会社以外は無関係だ。DAT等のメディアから補償金を徴収するのは憲法的に問題がありそうだが、現在アマチュアは取られ損になっている。ま、キナ臭いハナシは止めておこう。

 「音楽は作る側と聴く側の間にある」という言葉は、内的には作品のポピュラリティの問題に行き着く。プロは多くの聴衆を獲得するため、俗受けする音楽を作るよう求められる。求めるのは直接にはディレクターなりプロデューサなりだが、その背景には音楽の購買層がいる。より強力に購買層の欲するものを素早く提示することが、儲かることにつながる。「お客さんの欲しがるものを提供する」という意味で、過度な商業主義を招いた。少なくともバーンスタインは、こんな過激な金儲けを好ましいとは思わないだろう。「お客さんの欲しがるもの」は「聴く側」にのみ存在し、「作る側と聴く側の間」にはない。それはもはや音楽ではない。また、そういったものからは「聴く側」も離れ、市場そのものの収縮を招く(市場が荒れる)。
 音楽には適度なポピュラリティが必要なのは、難解なセリーを用いた12音音楽の商業的失敗を見れば明らかだ。ミニマルは調性を持っており、音楽の新しい気持ち良さを提示したため、聴衆から一定の支持を得た。ミニマルにはポピュラリティがあるものが多い。作る側が意図しなかったとしてもだ。ナイマンは「20年前にはこんなにグラスやライヒが売れるようになるとは考えられなかった」と話している。
 が、しかし、アマチュアの作品は「音楽は作る側と聴く側の間にある」に従う必要はあるのだろうか。とりあえずは「ない」と断言しておく。そもそも流通しない音楽には「聴く側」という存在がない。手渡しで音楽を聴いてもらう相手は「一般的な聴衆」とは違う。衆(マス)ではなく個人(パーソナル)である。
 ポピュラリティが必要ないのではなく、少なくとも過度に俗受けする作品をいやいや作る必然性はないということだ。単純に作りたい音楽・自分の聴きたい音楽を作るべきだ。俗受けする作品を作るのが好きならばそれはそれで問題ない(本当にウケるかどうかはどのみち未知だ)。

 宮崎駿は「もののけ姫」を「完全にエンタテインメントとして作った」としているが、「観る側」の要望に応えただけではあそこまでヒットするものではない。やはりどこか「間」にあった作品なのではないかと思う。

 アマチュア作品はポピュラリティを指向することはない。他人の評は聞き流すものだ。信念に基づく作品を作ることが重要。ま、報われることはほとんどない。

 それでも音楽を作りますか?

1997.12.18

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OSTRA / Takeshi Yoneki