ちえこの「夢のホノルルマラソン出場日記!!」
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ちえこさんは2002年12月8日の第30回メモリアル大会にも出場して2年連続完走しました!



◆ ホノマラ出場までの経緯

ホノルルマラソンに出場するのは小さい頃からの漠然とした夢であった。
だから、今回「ハワイに行ってホノルルマラソンに出場するの!」と周囲に漏らすと、いつ決めたの?
なんでまた?といった反応が返ってきた。いや、そうじゃなくって人生において達成しなければならない
目標みたいなもんなんだよねぇと語ったりした。そして今年、その夢が実現しようとしていた。

そろそろ走っておきますかとどちらからともなく姉と話題にのぼったのは今年の猛暑の最中であった。
姉もわたしと同じように、いつの日かと夢みていた一人である。
やはり、こういうイベントはツアーにのってしまうのが楽だよね、よしお互い何か捜しておこうと言っていたのは8月の初め。
8月の下旬に、たまたま仕事の関係で東京に出張に来ていた台湾で知り合った旅行会社のトモダチと会うことができ、今年はホノルルマラソンにしようと思うのと伝えてみた。
蛇足だが、日本で彼と会うのは初めてで台湾以来であるから驚きだ。彼の彼女も去年走ったと言っており、なんか良いツアーがあったら請け負うから遠慮なくねと言ってくれたので甘えることにした。

◆ ホノマラツアー決定!

ホノルルマラソン開催日は毎年12月の第二日曜日と決まっていた。いくつかある旅行会社主催のホノルルマラソンツアーの中から、最も条件が良かったLOOK JTBのツアーに決め、出発日は金曜日、ホテルはワイキキ周辺、飛行機はJAL指定のコースを選択した。
ここでちょっとだけ問題が。姉は今回あまり仕事が休めない為6日間にし、わたしはたっぷり休みたかったので8日間にしてもらいたかった。そこらへんの事情をふまえ、そうすることによって旅行代金が値上がることを抑え、しかも行きと帰りはなるべく遅い便で出発したい旨を伝えた。
わたしが8日間にすると、一人部屋追加代金がかかるというのは言うまでもないが、JTBではホノルルマラソンの時はこういったケースを認めていないので、本来二人とも一人部屋を取らなければいけないらしい。しかし、二人とも8日間ということにして、姉だけ飛行機のみ2日早くするということでJTBと話しがついたと教えてくれた。6日間が8日間になった時に発生する差額は12,000円、一人部屋追加代金はそれより高くなるので姉の了承を得て、そのようにすることにした。

【2001年ホノルルマラソン 8日間 2001/12/7(金)〜12/14(金)
アウトリガー・アイランダー・ワイキキ(部屋指定なし) 日本航空確約 12/7(金)出発】

基本代金:    ¥142,000
JAL指定代:  ¥  5,000
マラソン登録料: ¥ 11,800
成田空港施設使用料¥  2,040
アメリカ出入国税:¥  4,900
旅行代金:    ¥165,740
総旅行代金:   ¥331,480
値引き:    −¥ 11,480
―――――――――――――――――――
合計:      ¥320,000

ということで、旅行代金は一人160,000円。いろいろとわがままを言ったのであまり高いとも感じず、むしろかなりの手間をとってくれたので本当に助かった!改めてありがとう。

=日程=
12月7日(金):成田 18:20発 JL1080便(所要:約7時間)
         ホノルル 05:45着
12月8日(土):終日自由行動
12月9日(日):★ホノルルマラソン当日
         早朝;前夜受け取ったおにぎりの朝食 その後、専用バスにてホノルルマラソンの
            スタート地点のアラモアナ公園へ
         5:00;JALホノルルマラソン2001スタート その後、メイヤーズ・ウォークスタート
         午後;カピオラニ公園にてJALホノルルマラソン表彰式
12月10日(月):終日自由行動
12月11日(火):終日自由行動
12月12日(水):終日自由行動
12月13日(木):ホノルル 12:30発 JL079便(所要:約8時間30分)
12月14日(金):成田 16:20着

◆ ホノマラに向けての練習

さて、肝心のホノルルマラソンに向けての練習である。8月後半の時点で、練習は9月からにしよう!ということになり、(おいおい言ってるその日から練習しろよというツッコミは無用)まず手始めにいつも通っているスポーツジムのルームランナーで3キロ走ってみた。正直、つらかった。むむむっ、これは非常にまずいぞ、こんな調子で42キロも走れるのか?と改めて真剣に考え、その日から週2回多い時には3回、5キロの距離を時速8キロ前後で走り始めた。9月の時点では5キロ。10月以降は6キロ、7キロと距離を延ばすようにした。
ルームランナーでのトレーニングは非常につらかった。なぜなら、走らされているといった感覚が抜けず、景色もまったく変わらないので、ついつい前にある走行距離と時間の表示板を見ながらになってしまうという苦痛以外の何ものでもなかった。おまけに中学からの古傷の右膝と普段の腰痛も発生し、病院通いにまでなってしまった。長距離用の運動靴も新たに買い、なんだかマラソンってお金がかかるのねとつくづく思ってしまった。

9月にはNYでテロ事件も起き、もしかしてホノルルマラソンが中止になったらどうしようと心から心配した。周囲からはこんな時期に海外、しかもハワイになんてというわたしとはまるっきり違う心配事を言われた。わたしは全くそんな不安な気持ちはなかった。こんな時だからこそ海外に行くのではないか!こんな時だからこそ牛肉を食べるのではないか!?

9月の半ばにわたしと同じように体を動かすことが大好きな会社の先輩から横浜マラソンに一緒に出ないかと誘われた。10キロのコースがあったので、ホノマラ前にはちょうどいいなと思い、姉と3人で出場することにした。
横浜マラソンが開催されたのは11月11日(日)。練習を始めてから外で走るのは初めてである。書いているのも恥ずかしい話しだ。前日には接骨院で右膝にテーピングを巻いてもらいながら、先生に「今回はやめたほうがいいよー」と何度も言われたりした。晴天の空の10キロは大変気持ち良くもあったが、苦しくて死ぬかとも思った。もしかしたら真剣に10キロも走ったのは初めてかもしれない。タイムは59分。ゴールが見えた時は、これがホノルルのゴールだったらいいのに〜と本気で思ってしまった。

そういうわけで、外で走る気持ち良さを体得したので、以後外でのトレーニングとなる。家の周辺7〜8キロを休日の早朝、または会社帰りの夜に走る。といっても、本番まで残り半月ほどだったので、正味数回しか走れなかったのだが。

あいかわらず右膝も痛く、腰痛も激しかったので、いつもお世話になっているカイロプラクティック(整体)にも行った。かなり症状が悪かったらしく、本番2〜3週間前には、3日おきくらいに通わざるをえなくなった。ここの先生にもやはり無謀だと言われ、しかしどうしても走りたいんですという旨を伝えるとできる限りの治療やアドバイスをしてくれた。
本番一週間前は疲れを残すので走らないほうがいいということ、本番一週間前の最初の3日間は炭水化物を抜いた食事をして、それ以後は炭水化物を思いきり摂取することを勧められた。そしてそのように実践もした。

ホノルルマラソンに出場したことのあるヒトからの情報も集めようと、HPで検索して参考にもした。
一番参考になったのは、ププさんの「気分はホノルルマラソン」の中にある「ホノマラ完走テクニック」で、そのものずばりのHPであった。シューズ、ウェア、前日・当日の食事、持参するもの、ペース配分等様々な情報が載っていてとても参考になった。

◆ ハワイに向けての準備

さて、長かった前置きはここら辺までにして、いよいよハワイに向けて出発である。旅の準備が大嫌いのわたしだが、今回はいつもの旅とは勝手が違う。一週間も前から準備をし、マラソンに必要な栄養ドリンク(ヴァーム)、補助食(カロリーメイト)、湿布、ワセリン、エアーサロンパス、バンドエイド、テーピングなどなど必要なものを揃え、荷造りを済ませておいた。また、友人との予定も避け、お酒もあまり飲まないようにして、早寝を心がけるようにした。本当にこんなに楽しみにしていた旅行は久しぶりで、一週間前から緊張やら興奮やらであまり寝付けなかった気がした。出発前日、会社を出るときに「じゃぁ、あとは一つよろしくお願いします」と周囲に言うと、「がんばって!」「無理しないでね!」と本当にビックリするくらいのヒトに言われ、気後れした。わたしとしては数人にしか直接言っていなかったのに、いつのまにやらこんなに広まっていたのだという感じである。その時の心境は、“やばい絶対完走しなきゃ”の一言に尽きた。


第1日目 2001年12月7日(金) 日本:晴れ,ハワイ(オアフ島):晴れ Yahoo! Weather Honolulu

◆ いざ成田へ

夕方の便だったが、今朝は早起きして洗濯、掃除、アイロンかけなど地味に家のことこなし、お昼前には接骨院に行き、右膝にしっかりテーピングを巻いてもらう。いつものお姉さんにがんばってねとエールを送られる。
テレビでは、雅子さまのお子さまのお名前が愛子さまと決まったことを伝えていて、なんてかわいらしいお名前なんだろうと思った。
昼過ぎには午前中仕事だった姉が帰宅し、15時前には我が家を出発。16時半には成田に到着する。空港はあまり混んでいず、スムーズにチェックインを済ませる。日本円をドルに両替すべく両替所に行った。80,000円(正確には79,911円)が627ドルになって戻ってきた時には驚いた。ふざけるな、円安。(1ドル=127.45円)
出国ゲートに行き、出入国カードを記入しようとすると不要になっていたことを知りまたまた驚いた。なんて便利になったんだ。前回行った6月から半年の間にこんなに変わるとは思わなかった。少なからず、感動である。
搭乗まで時間があったので、さっそく免税店でお買い物。成田なんかで買ったことはなかったが、今回は目当てがあった。しかし、目当てのエスティーローダーの新作のマスカラはどの店でも完売していた。ないとなると余計欲しくなる。結局、なぜだかシャネルのマニキュアを2,000円で購入した。
搭乗待ちのベンチでは、明らかにホノルルマラソンに出場するであろうヒトたちでごった返していた。中でもエグザスチームは一番目立っており、みんなでお揃いのTシャツを着て、エグザスと書いてあるのぼりまでかかげていた。なんだか、同じ目的であることが恥ずかしかった。

◆ 機内〜

18時前にはJALのリゾッチャ便の機内に乗りこみ、ほぼ定刻通り18時半過ぎには離陸した。わたしたちの席は大きなスクリーンの前の席だったので、少しだけ広々とした感がありよかった。
しばらくすると、飲み物が配られたのでビールを頼み、食事は和食と洋食が選べたので和食にした。
鶏の竜田揚げ、野菜あんかけ、石垣玉子、カニかまぼこ、肉団子、大根の煮付、里芋そぼろあんかけ、キンピラ、黒糖ゼリーだった。味はまぁまぁおいしかった。
今回の飛行機には、一人専用の画面がついていたので、好きな映画を選択して見ることができた。常に放送されているので、全部を最初から見るということができなかったのは残念であった。わたしは、その中でも山本周五郎原作の「かあちゃん」を見た。本の内容とほとんど遜色はなく、楽しめた。他には、日本未公開(2002年の2月公開予定)の「キューティー・ブロンド」を見ていたが、あと少しというところで着陸体制に入り、終了してしまった。続きが非常に気になる。機内ではほとんど眠ることができず、ヒマだったので非常識にも買ったマニキュアを塗っていたりした。隣の姉に露骨にイヤな顔をされた。当たり前だ。
着陸前にはアップルデニッシュとアップルジュースが配られ、約7時間弱の飛行を終え、ハワイ時間の6時前(まだ金曜日が始まったばかりだ!)に到着した。途中ひどく揺れて、このまま落ちるかもしれないと飛行機に乗っていて初めてそんなことを思ってしまった。これは最近の飛行機事故の影響かしらと思わずにはいられない。恐かった。(日本とハワイの時差マイナス19時間)

◆ アロハ・タワーで説明&コース下見ツアー

ハワイの空はまだ暗く、時折雨がパラついていた。入国手続きを済ませたら、手荷物検査である。成田でも手荷物検査が厳しかった。スーツケースは既に出てきており、自分のを捜し出口へ。JTBのヒトが迎えに来ていたので、荷物を預け大型バスに乗りこむ。バスに揺られていると空がだんだん明るくなり、ダウンタウンにあるアロハ・タワーに着いた頃には完全に青空が広がっていた。アロハ・タワーでは滞在中のオリエンテーションが行なわれた。主にマラソン前夜や当日の説明であった。30分くらいで説明も終わり、わたしは5日目に行こうと思っているカウアイ島へのオプショナルツアーの申し込みをした。オプショナルツアー代168ドル(=約21,504円)を現金で支払う。
その後は、外人のスポーツインストラクターがホノルルマラソンの心得を説明しているのを聞いたりしてとても参考になった。8時半には自由の身となっており、ホテルに荷物を預けて自由行動をするも良しといった感じだったが、10時からホノルルマラソン下見バスツアーが出るので、それまでアロハ・タワー周辺をぶらぶらしていた。タワーの周りは朝早いせいかどこも開いておらず、腹ペコなのに適当なお店すらなかった。1時間以上もまだあったので、仕方なく一軒だけ開いているベーグルやさんで、食べたくもないベーグルとコーヒーを頼み、空腹を満たした。(4.52ドル=約578円)
10時前にバスが出発するところに行くと、長蛇の列ができていた。みんな下見をしてからホテルに行くようだ。大型バス2台で、10時の下見ツアーが出発。最初はビデオ説明とかもあり起きていたが、ビデオが終わってしまうとモーレツな睡魔に襲われ格闘した。睡魔には敗れた。アラモアナから出発し、ダウンタウン、ワイキキ、ダイヤモンドヘッド辺りまではかろうじて起きていたが、気づいたらすっかり折り返してカハラまで来てしまっていた。そしてカピオラニパークのゴール地点。最後にワイキキの中心にあるDFSに到着して、解散となった。静まり返る車内ではたぶん9割方寝ていたと思う。せめて、運転手が今は何マイル地点とか、地名とかを言わなければまずいと思った。これじゃぁ、寝るためだけにバスに乗りこんだようなものだ。しかし、ただ一つだけ思ったことがあった。42キロって意外と長いのかも。

◆ ゼッケンをもらう

せっかくDFSに来たのでお買い物をした。なかなか良いものがあったので、トモダチのお土産用にたくさんまとめ買いをした。これで半分以上終了したことになったので、後は安心だった。化粧品売り場では、成田で買えなかったマスカラがあったので購入。成田と比べると200円くらい高い計算になるが仕方がない。
他にもStillaで口紅が欲しかったが、思考カイロが完全にストップしていてこれ以上の買い物は危険だと思い、後日にすることにした。
13時からDFS内でゼッケンが配布されるので、そのまま取りに行きDFSを出た。ゼッケン番号はわたしが26307で姉が26308である。全くもって憶えにくい数字である。

◆ アランチーノでランチ

13時をまわっていたので、またまたお腹が空いていた。ホテルのチェックインは15時だったので、そのままお昼を食べに行く。“今回の旅ではここで食べよう!”リストの中からDFSから最も近い、ワイキキ・ロイヤル・スイーツにある、アランチーノというイタリアンのお店に行った。店内は日本人が多かった。
わたし達はえびとトマトのジェノバ風自家製フェトチーネと生ハムときのこのピッツァを頼みシェアした。リゾットがおいしいとガイドブックには書かれてあったが、リゾットは夜のみと言われたので食べられなかった。ガイドブックやインターネットの書き込みや知り合いからの情報ですごくおいしい!と評判が高かったので期待したのだが、本当にごくごく普通のイタリアンだった。正直残念である。なぜみんながあんなにおいしいおいしいと言うのか不思議なくらいだった。お会計をして店を出る。(28.45ドル=約3,641円)
朝のベーグルでも思ったのだが、この国の物価は高い気がする。たかだかお昼のパスタで1人1,800円もかかるのは異常だ。何度も言うが、それほどおいしいと思わなかったのに。しかも飲み物は頼まなかったのに。

◆ かわいいホテル

14時半を少しまわったので、そろそろチェックインできると思いホテルへ。アランチーノからは5分もかからないところに、わたし達が泊まるホノルルマラソン公式ホテル「アウトリガー・アイランダー・ワイキキ/Outrigger Hotels & Resorts」はある。DFSにも近いし、立地条件は抜群である。
チェックインの前に隣のABCストアでジュースやら牛乳やらを買う。会社の後輩の男の子に頼まれた日本未発売のマルボロも売っていたので、陳列されてある8個全てを忘れないうちに購入する。金額を言われてビックリした。タバコ8個で38.96ドル(=約4,986円)もするのである。お金を払った後、改めて1つの値段を訊いたら4.63ドル(=約592円)と言われた。タバコを吸うのがかなりアホらしく思えた。1カートンと頼まれたが、あまりの高さに驚いてそれ以上買うのはよそうと思った。ホントいちいち高いんだよ、バカにするなよと毒づきたくなった(ちなみにガソリン1ガロン/3.8リットルの値段は、アトランタの38セントに対してホノルルは1.56ドルもする。12/25時点)。

ホテルへは問題なくチェックインができわたし達の泊まる508号室へ。窓からはさすがに海は見えないが、ホテルにはプールもあり、部屋もとてもキレイで温かみのある感じだった。ただ一つ問題なのは、バスタブがないことだった。マラソン後には、ゆっくり湯船につかろうと日本から入浴剤も持ってきたのに!まぁしょうがない。
しばらく部屋でのんびりとくつろぎ、なぜかわたしは着いてまだ数時間しか経っていないのに親友にエアメールを書いたりもした。

◆ アラモアナショッピングセンターへ

16時前にホテルを出てDFS前の‘OLI‘OLIトロリー乗り場まで行く。‘OLI‘OLIトロリーとは、JTBツアーのお客さんが無料で乗車できるプライベートトロリーで、東はカハラモール西はダウンタウンまで運行している優れものの乗り物なのだ。なんとなく来たトロリーに乗りこんだら、アラモアナとは逆方面であったが、トロリーのドライブを楽しんだ。ダイヤモンドヘッドの所ではちょっと降りて、写真を撮ったりした。長いこと乗っているので運転手(外人さん)にキャンディーをもらったりした。その後はうつらうつらしてしまい、17時前にやっとアラモアナに到着した。
アラモアナショッピングセンターでは、前回(99年2月にハワイに来たことがあるのだ!今回で2回目)お気に入りだった、bebeに行きお洋服を物色。何着か試着したが、なかなか良いのがなかったので買わなかった。姉は1着購入していた。後は、トモダチお勧めのオールドネイビィで部屋着用のフリース地のズボンを1着。ゴディバでは半額になっているクッキーを購入した。
他はさーっと見渡して終わりにした。アラモアナショッピングセンターも大好きなヒトはたくさんいるが、わたしはそうは思っていなかった。今回来なくても良かったが、まぁ時間があるし今日は他に行くところもないし、行きますかといった感じで、姉とは「ここってそんな魅力的な場所なのかね〜」と言っていたくらいだ。
18時をまわって、そんなにお腹は空いていなかったが夕食を食べに外へ出た。

◆ フォーサイゴンで夕食

今日はアラモアナショッピングセンターから近い、ベトナム料理のフォーサイゴンに行くことにする。歩いて10分くらいで到着。
地元のヒトがけっこういて、食堂っぽい雰囲気だ。サマーロールと野菜フォーとスプリングロールがのった冷やしフォーを頼む。姉が頼んだ冷やしフォーは見た目以上においしく、わたしの野菜フォーは普通だった。けっこう残したら、なぜそんなに残すのか?それはまずいのか?と隣のヒトに訊かれた。おいしかったけど、あまりお腹が空いていなかったのだと無難に答えておいた。お会計(18ドル=約2,304円)をして再びアラモアナショッピングセンターからトロリーに乗り、ホテルへと帰った。隣のABCストアでハーゲンのアイス(2.07ドル=約264円)を買い部屋で食べ、シャワーを浴びて22時過ぎには寝た。ひどく長い一日だった。


第2日目 12月8日(土) ハワイ(オアフ島):晴れ

◆朝の定番エッグスンシングスン

時差ボケのせいか夜中に何度か起き、あまりよく眠れなかった。今朝は6時半に起き、朝食を食べに7時過ぎにホテルを出た。今日の朝食は、エッグスンシングスンである。ハワイに来たことのあるヒトだったら、誰でも知っている有名なパンケーキやさんである。歩いて10分くらいで到着。本当にどこに行くにも近くて便利なホテルである。
前回も来たことがあり、勝手知ったる感じであった。名前を言い、店の外のベンチで待つ。15分くらいで名前を呼ばれ店内へ。前回はホイップクリームがたっぷりのったパンケーキで失敗したので、今回はポルトガルソーセージ入りオムレツとパンケーキ3枚のセットにした。姉はいちごのクレープである。お互いなんとなくシェアして食べた。朝からとてもおいしい朝食をとることができた。大満足!(22ドル=約2,816円)
8時過ぎに店を出ると店の前はすごいヒトで溢れていた。この調子だと30分以上は待ちそうだ。早起きして得をしたぞ。

◆ ドキドキレンタカー

一端ホテルに戻り、9時前には出発。本日は海外初のレンタカーを試みるのだ。日本からあらかじめ予約しておいた、バジェットレンタカーへ。バジェットレンタカーはハイアット・リージェンシーホテルに入っており、そこまでは10分くらいの距離なので、てくてくと歩いて行く。
異国の地で運転するのはとても不安だったので、日本で予約しておいた保険にさらに違う保険もつけてもらった。これで心なしか気分も軽くなった。クルマがあるところまでは、ここからクルマに乗って連れていかれる。わたし達のクルマは濃紺のスバルのForesterだ。理想的なRV車でかっこよかった。
最初はわたしが運転で、姉がナビ。ノースショアの方に向かいたかったので、ハイウェイのH1を目指す。左ハンドルで右車線を走るのは本当に走りにくい。最初は心臓がバクバクしていた。
なんとかハイウェイにも乗れ、最初の目的地ドール・パイナップル・プランテーションへ。

ハイウェイからはキレイな虹が見えサイコーだった。時折雨がパラパラと降ったりもした。外車を運転していて、ウィンカーとワイパーを何回か間違えるくらいははっきりいってどうでもいいが、ハイウェイを降りて左車線を走っている自分に気づいた時は心臓が止まるかと思った。あれ?向かいからクルマが!やっべぇ、間違えた!!といった具合だ。
ドール・パイナップル・プランテーションには10時半くらいには着き、中でお土産を買ったり、老若男女みんなが食べてるパイナップルソフトを食べた。(3.5ドル=約448円)写真を撮ったりして11時過ぎには後にした。

◆ ハレイワの街

次はハレイワの街へ。ハレイワマーケットプレイスでクルマを止め、何軒もショップが連ねてあったので、気になる店を覗きフラフラしていた。マーケットプレイスのちょっと先にクア・アイナがあったので、少し早いがお昼にする。アラモアナにあるクア・アイナよりもおいしいと聞いていたのでワクワクする。アボガドバーガー(画像右)とポテトとコーラを1つ買い2人でシェアする。(8.28ドル=約1,059円)
わたしが買っているあいだ、姉は外の席をとり座って待っていた。近くで、北海道テレビが取材に来ていたらしく、そのヒトたちは日本にクア・アイナがあることも知らなかったみたいで、取材に来たわりには不勉強すぎると姉が言っていた。アボガドバーガーはとてもおいしかった。12時過ぎにはハレイワの街を後にした。


...◆ノースショアのドライブ

またまたクルマを走らせ、海岸沿いをドライブ。ワイメア・ベイビーチでクルマを止め、浜辺へ出る。とてもキレイな波があり、ボディーボードにはもってこいだ。すごくやりたくなってしまう。近くで見ると、思ったよりもサイズが大きく感じた。でも沖へは簡単に出られそうな本当に良い波(画像下)であった。うーやりたい!!


後ろ髪ひかれる思いで、再びクルマに乗りこむ。今度は姉が運転をしてくれる。すぐ近くのワイメア渓谷へ。
古代ハワイアンが住んでいた渓谷に造成された自然歴史公園で、園内にはクリフ・ジャンプやアドベンチャー・ツアー等さまざまなアトラクションがあった。ちょっと中に入ってみたかったが、入場料だけで24ドル(=約3,072円)もしたので、外から写真を撮って出ることにした。
その後は、ノースショアから東の方へぐるっと廻り、ワイマナロの方まで2時間近くかけてドライブをした。
ワイメア渓谷から運転を替わってもらった安心からかしばらく寝てしまう。最北端のカフク岬を見渡し、ずーっと左手に海を見ながらドライブをした。とても良い気分転換になった。また、海の色が走っていると違ってくることにも気づいた。ワイマナロに抜けるまでなぜかものすごく迷ってしまい、同じところを何度も廻っていた。なんとか抜け出せ、シーライフパークを過ぎ、ハロナ潮吹穴でクルマを止め潮が吹き上がるのを見た


◆ ハナウマ、カハラへ

その後はわたしが運転を替わり、隣のハナウマ湾へ。写真を撮ったら、突然雨が降り出したのでしばらく雨宿りをしてクルマに戻る。次はカハラモールへ。ショッピングではなく、シナボンでミニボンとシナモンスティックを買って食べてからクルマに戻った。
その後、カパフル通り沿いのガススタで初めての給油をした。やり方が判らなくモタモタしていたら、おばちゃんが来てくれてほとんど全部やってもらえて助かった。7.06GAL/12.02ドル(=約1,538円)その後ハイアット・リージェンシーに戻るべく再びクルマを走らせるが、たくさんの一方通行にことごとく捕まって時間がかかった。二度とたどり着けないと思い、途中で地図を見ることも諦め、なんとなく勘をたよりに行ったら到着した。一瞬自分が天才かと思った。
そういうわけで、初のレンタカーはいろいろとあったが、特別大きな事故もせず終了して本当に良かった。17時過ぎにはクルマを返し、18時くらいにはホテルへ戻った。なんとなく精神的に疲れた一日だった。


◆早く寝よう

ホノルルマラソンの朝食は前夜つまり今日、斜向かいのシェラトン・ワイキキに19時〜20時の間に取りに行くことになっている。19時前にはホテルを出て、朝食券と引き換えた。おにぎり3個とバナナとお茶。なぜかわたし達のところには朝食券が3枚入っていたので、3つもらってしまった。
ホテルに戻り、余った朝食1つを夕飯代わりに食べた。姉はお腹が空いていないらしく早々とシャワーを浴び、しっかり準備をして20時前には床についていた。わたしも後を追うように20時半過ぎには急いでベッドに潜り込んだ。
しかし、緊張のあまり全く眠れなかった。目をぎゅっとつぶっていても睡魔は訪れなかった。一度トイレに行った時に時計を見るとまだ21時40分だった。ホノマラ完走テクニックのHPに緊張のあまりに眠れなくても、人間は一日くらい寝なくたって死にはしないから大丈夫です。と書かれてあったのを思い出し、無理に眠るのを諦めた。そしたら自然に眠りにつけていたみたいだった。


第3日目 12月9日(日) ハワイ(オアフ島):晴れ

◆スタートまでの長い時間

ホノルルマラソン当日の未明、スタート地点のアラモアナパークまではバスで移動することになっていた。
交通規制をかける関係で、シェラトン・ワイキキを2時45分の1回だけバスが出ると言っていた。これに絶対乗り遅れないでくださいと初日に念を押されていたので、1時半には目を覚まし朝食を頬張り、身支度をした。あまりお腹が空いていなかったが、おにぎり3個とバナナ全てを完食した。無理矢理といってもいいくらいだ。
ウェアはナイキで購入した姉と色違いのモノを着用。ウェアにはゼッケン、靴にはタイムを測定するチップがちゃんとつけられているか何度も確認し、足やウェアの袖口にはワセリンを塗り、ウェストポーチには補助食、飲み物、カメラ、エアーサロンパス、マイル換算表等を入れた。
2時半にシェラトン・ワイキキに行ったら既に大勢のヒトがバスに乗りこんでいた。バスは何台も止まっていて、満席になったら出発していた。わたし達はたぶん早い組だったのだろう、3時前にはあっという間にアラモアナに到着してしまった。JTBからあらかじめ支給されていた袋には、着てきたモノや着替えを入れて、係りのヒトに預ける。まだ寒かったので、捨ててもいい服をわたし達は着ていた。
5時のスタートまでたっぷり2時間もあるので、とりあえずスタート地点を確認して写真を撮ったりしていた。しかしあっという間にやることはなくなってしまう。しかも、30分単位でスコールのような雨がサーッと降ってくる。その都度近くのテントに雨宿りを余儀なくされ、止んだら出て、また降ったら入っての繰り返しを何度かした。雨が降ることが判っていたヒトたち、または何度も出場しているヒトたちはゴミ袋を頭からかぶりレインコート代わりにしていた。次回への参考になる。それでもまだ1時間しか経っていない。だんだん緊張の糸が解けてわたしはついつい眠くなってしまった。
わたし達が来だした頃から地元のラジオでは、男性のDJと女性のDJが代わる代わる同じ言葉を言っていた。「アローハ!メレカリキマカ!!」言う度にわたしも復唱してあげていたが、すっかり飽きてしまっていた。ん〜も〜早くスタート時間になれーーー!!

ちなみに、
第29回ホノルルマラソンの参加ランナーの数は約23,500人。ランナーの4%(9,160人)が日本からの参加だったそうです。


◆ いよいよスタート!!

スタートの場所は自分の目標ゴールタイムで決まってくる。わたし達は4〜5時間くらいのところに立っていた。4時過ぎにはトイレにも行き、集まってきたヒトから写真を頼まれて撮ったりしていた。雨がまだ降ったり止んだりする。身体が冷えるのが一番心配だ。ラジオのDJはシアトル・マリナーズの佐々木投手が来ているとさかんに言っていたので、佐々木も走るのか〜と思っていたが、ただの応援であった。
スタート15分前にはスタート位置につき、今か今かと待っていた。わたし達の近くにわたしの胸の高さくらいの男の子がいて驚いた。「えっ、すっごい小さいんだけど、えっ、まじ、走るの?」といった感じに姉に言うと姉も同じように驚いていた。わたしの隣の外人さんも驚いていた。その声が聞こえたのか、そのグループのおばさん(その子の母親ではない)が「この子10歳なのよー。小さいうちからこうして鍛えないとねぇ」と教えてくれた。す、すごい。しかもめちゃくちゃこの男の子かわいいー!
そうこうしているうちにスタートの花火が打ち上がった。12月の花火はとてもキレイで感動的だった。スタート地点までは5分くらいかかり、高台にのぼってわたし達に声援を送ってくれる佐々木に手を振りフルマラソンへのスタートが花火と共に幕を開けた。

◆ ハワイのイルミネーション☆

スタートしてからは、周りのペースに巻き込まれないようにマイペースを維持しながら走った。真っ暗な街を何万人も走っているかと思うと異様な光景である。さっきの男の子も途中で発見する。医者と看護婦のコスチュームの奇妙な中年カップルも見かけランナーズウォッチングもおもしろい(この時点でトップを走っていたのはシドニーオリンピック日本代表=21位の川嶋伸次。川島選手はこのホノルルマラソンを引退の場に選んだ。結果は日本人歴代1位の2時間19分で5位でゴール)。
アラモアナからダウンタウンの方へ行き、折り返してワイキキ方面へ行く道はクリスマスのイルミネーションが輝いていてとてもとてもキレイだった。3キロほど走ったところでさっそく給水所があったので、ちょっと歩いて水を飲む。そのままさっきのペースで引き続き走る。寒くて軍手をしていたが、暑くなってきたので路上に投げ捨てる。
ワイキキにさしかかるところで再び給水所。この時点で4マイル(=6.2キロ)くらいだ。ワイキキのホテルが林立するカラカウア通りにさしかかると沿道にたくさんのヒトが応援に出てきていて自分が走っていることがとても気分良く感じられた。わたしが応援の立場だったら、どんなにランナーが羨ましく思ったことか。本当に出場して良かったと思った瞬間である。カラカウア通りを過ぎると5マイルの看板を発見。既に8キロも走ったのかと思うと嬉しかった。ホノルルマラソンでは1マイルごとにマイル表示の看板が出ており、5キロ単位でメートル表示の看板が出ていた。10キロの通過タイムはわたしの時計で1時間17分くらいだ。(公式ラップタイム:01:17:38)
ちょっと時間がかかりすぎているけど、まぁいいや。姉と歩調をあわせ走り続ける。ここら辺から給水所の水に加え、アミノバイタルというホノルルマラソン公式スポンサーが提供しているスポーツドリンクも出てくる。これは、アミノ酸が含まれたスポーツドリンクだ。飲んでも不思議とその後にくるスポーツドリンク特有のイヤなのどの渇きがない。

◆ 素晴らしい朝陽との出合い

そろそろダイヤモンドヘッドに差しかかる。その前に簡易トイレを発見。けっこうヒトが並んでいる。トイレはぜひ時間をかけずに入りたいものだと思う。ダイヤモンドヘッドは、折り返しのヒトともすれ違うため、半分に仕切られていた。ちょっと狭くて走りづらい。
わたし達の5分前にスタートした車椅子ランナーの先頭集団何人かとすれ違う、みんなは拍手で声援を送る。すごく気持ちがいい。みんなとがんばって走っているという一体感が生まれる。ダイヤモンドヘッドROADを上った頃はまだ薄暗く海は見えなかった。しばらくするとカハラ地区に入り下りである。下り坂に差しかかるとたくさんのランナーが見える。あまりの人数に身の毛がよだつ感じだった。ずっとずっと先の先までヒトで溢れかえっている、なんていう光景なんだろうと。
下り坂を走っているとだんだんと朝陽が昇ってくる。“What a beautiful !!”本当にその言葉が浮かんできたくらい美しい朝陽のおとずれだった。その光景のあまりの眩しさに胸が詰まる思いがした。長い長いフルマラソンの中でこの時の光景が今でも一番焼き付いている。一生この瞬間は忘れられないだろうという素晴らしい一瞬の出来事だった。幸せだった。

◆ 辛いハイウェイ

11マイル(=17.6キロ)を過ぎたあたりからは、ハイウェイにのることになる。ここからは7キロも続く道が待っている。長い長いハイウェイは折り返してくるランナーとすれ違う場所だ。わたし達がハイウェイに入るとすぐに先頭のランナーがやってくる。なんという速さだ。早くそっち側に行きたいと切望する。
12マイル(=19.2キロ)付近でわたしは突如古傷の右膝に激痛が走る。それは激痛というレベルのものではなかった。あまりの痛みに顔をしかめ、姉に悪いとは思いつつ歩いてもらう。ハイウェイのちょっとした上りとよく舗装されていないガタガタの道のせいだろうか。まぁ10キロしか走ったことがないのに出場したせいもある。いや、それが一番大きな原因だ。20キロは走っておけばよかったと今更ながら後悔する。
しばらく歩いているが姉に申し訳ないので走ってみる。しかし、激痛はまだおさまっていない。少し走っただけでまた歩いてしまう。エアーサロンパスを吹きかけるが、気が遠くなる痛みが襲い断念する。この痛みが心から憎いと思った。もしかして本当にこのまま走ることは不可能なのかと思うと、悔しくて悔しくてたまらなかった。
しかし、リタイアしようとは一瞬たりともよぎらなかった。ただただ早くゴールしなければ、このままじゃ精神的にまいってしまうと強く思った。がんばらなければ、なんとしてでもゴールに近づかなければ。この痛みに負けたくなかった。ただそれだけだった。
これ以上姉に付き合わせるのは悪いと思い、先に走ってもらうことにした。すれ違うヒトの中には女性も混じってくる。早くそっち側に行かなければと気持ちばかりが焦っていた。ハーフにあたる13マイル(=20.8キロ)を通過したタイムは02:55:08だった。通過タイムのことは既に全く憶えてられなくなっていた。
13マイルを過ぎたあたりのカワイクイビーチ公園にトイレがあったので入ることにする。ここは今まで見てきた中で一番空いていたのでロスタイムは5分もしなかったと思う。ラッキーである。姉とばったりここで会い、やはり先に行ってもらう。
わたしはまだ足の痛みをひきずっていたので、ひたすら歩くことにする。しかしたらたら歩いていたら進まない。ジムのルームランナーでだいたいの走行速度、歩行速度を身に付けていたので、時速6キロくらいの速さで歩いた。往路のハイウェイランナーは既に歩いているヒトが大半だったので、どんどん抜かすようにがんばって歩いた。なんとなくメンツも決まってくるから不思議だ。
今回のホノルルマラソンで一番インパクトがあるランナーを発見。それは赤いふんどしの3人組で一人一人の背中に“有頂天”と一文字ずつ書いてあるのだ(画像左)。最初なんて書いてあるのか判らず、なんだこりゃといった感じだった。“有頂天”これは一体どういう意味でつけたのだろうか?既に彼らも足が痛そうだった。しかし、3人組は一時も並び順を乱すことはなかった。
他には携帯電話で話している外人もいて、今ここらへんでもうちょっとだからそこで待っててよー的に話しているヒトたちが何人もいた。

◆ 折り返し〜

長い長いハイウェイもやっと折り返し地点に差しかかろうとしている。下見ツアーではここら辺の記憶が皆無のため、どのくらい行けば折り返せるのかすら判らなくなっていた。早く向こう側のヒトになりたい。その思いしかなかった。
折り返しは住宅街を一周するコースになっていた。グルーッと一周、まさかあんな遠くの方まで走るわけじゃないよなと思ったところまで実際行かなければならなかった。5キロ近い距離の一周である。もうたまらない。このころにはだましだまし走ることができていた。早歩きと軽い走行が功を奏したのか、姉をとらえることができた。嬉しかった。もう一緒に走ることはないので、わたしが抜かしたり姉が抜かしたりしていた。
スタート地点から最も遠く離れている折り返しのハワイ・カイ・ドライブでは、住民がたくさん出てきて応援をしてくれていた。わたしはオレンジをもらって食べた。おいしかった。
沿道のヒトからの声援は本当に励みになった。「God Job !! 」「Great Job !! 」「Keep smiley !! 」たくさんの声援を投げかけてくれて元気が出た。
琵琶湖を一周したかと思うような長い折り返しも終了して、やっとこっち側のヒトになれた。往路のランナーはまだまだたくさんいた。彼らにはこれからこの一周が待っているかと思うと心底かわいそうだった。
折り返してきた時、沿道のからの演奏はわたしの大好きな映画『リアリティ・バイツ』の挿入歌が流れていた。気分が高まった。でも、どうしても映画のどこで流れていたか思い出せなかった。そのことを考えることができ、気分転換になった。
わたしは常にタイムのことを頭の中でグルグルと計算していたからだ。1マイルを15〜20分くらいで走ったり、歩いたりしている。ゴールまでにあと何マイルだから、きっとこのくらい時間がかかるだろうということを。わたしは飽きもせずずっとずっとそのことばかり考えていた。
完走できればいいやと口には出していたが、実は満足のいくタイムを出したいのだということに気づいた。いや、最初からそのつもりだったのかもしれない。
映画のことを考えていたら、急に『CUBE』のことを思い出した。あの映画を観たわたしの好きな作家さんはどこかの媒体に以下のような感想を残していた。「ものすごい苦労しないと「外」には出られなくて、「外」には何があるか判らないんだけど、でも一生懸命苦労して「外」に出なくてはならなくて・・・で、結局「外」に出てみても自分の望んでいたものがそこにはあるのだろうか、もしなかったとしたら、そんなにまでして「外」に出るだけの意味があるんだろうか」といった感じの内容だった。
あー、わたしのゴールの先には何があるんだろう、こんなに苦しくて死にそうなのにきっとなーんもないのかもしれない。それはそれでいいのかなぁ。でもきっと何か感じたり得たりできることがあるのかなぁ、あったらいいなぁなどと思いながら足だけは動かしていた。
きっとがんばったヒトには“褒美”は特に用意されてなくて、がんばったっていう達成感が用意されてるんだろうなー。わたしは胸を張ってがんばったってヒトに言えるだけのその達成感を得たいと思っていた。

◆20マイルからのしんどさ

なんとか20マイル(=32キロ)を超えた。あと6マイルである。“有頂天”は脇でストレッチしたりしている。外人さんの超大型チームもがんばっている。彼らは仲間を見つけると「Oh〜,your Team !!」とお互いたたえ合い、抱き合う。“Team”という名のチームなのだ。他には“You are Heroes”チームとかいろいろな外人さんチームがいておもしろかった。日本人は“エグザス”チームや“セントラル”チーム。彼らの応援団は太鼓をドコドコ叩いて例ののぼりを振り応援してくれる。
自分の通過タイムは憶えていられなくなったので、写真を撮ることにした。節目節目で、電工掲示板が出ているから判りやすい。ちなみに30キロの公式ラップタイムは04:16:59。
20マイルを超えてからは本当にキツかった。次の21マイルが遠目で23マイルに見えた。1マイル1マイルを見逃すなんてことはもう絶対ありえないのに、本当に23マイルに見えた。あれが23マイルだったらよかったのにと切望した。あと5マイルか。朝はあっという間に5マイルも走っていたのに、5マイルになるまでマイル表示なんか気にならなかったのに。
ハワイに来てから見慣れたスピード表示の看板の“SPEED LIMIT 25”という表示でさえ、おっもう25マイルか!?と何度思ったことか。そのくらい疲れ切っていた。しかし、姉を抜かしていたので絶対に負けたくなかった。追い付かれないように走ったり早歩きしたりの繰り返しをしていた。
給水所でアミノバイタルと水の両方を飲んで、スポンジをワキの下に挟む行為は何回したんだろう、朦朧とする頭の中で考えては途中でやめたりしていた。途中で持ってきたチョコレートも食べた。カロリーメイトも食べようとしたが、力が入らず開けられなかったので諦めた。何もかもどうでもよくなってきた。ただただ前に進まないとならなかった。“前に進まなきゃ帰れない!”と背中に掲げたTシャツを着てるランナーを見る度にそのことを思っていた。みんな疲れている、みんな足が痛い。誰かに対してではなく自分に対して負けたくなかった。
右膝に激痛が走った12マイル地点より足の具合は好転していた。あの時は7時間以上かかるかもしれないと計算していたが、なんとか6時間台で行けそうだ。できれば6時間前半で行きたいと思った。やっと本当の23マイル(=36.8キロ)が見えてきた。カメラマンが陸橋から写真を撮ってくれるところだ。笑顔で上を向き写真を撮ってもらう。沿道のヒトからは「Almost there !!」「So closer !!」という声が聞こえ始める。ホントにもうちょっとなの、あとどのくらいなの?と訊きたくなってしまう。日本の我が家からどのくらいだろう、あそこの駅までかな?と真剣に考えていた。
でも声援が「Almost there !!」に変わったのは嬉しかった。カハラの閑静な住宅街は非常に美しかった。こんな場所に住みたい!人々も気のせいか上品に見える。ここでは、キャンディーをもらってなめたりした。お腹が空いているのだろうか、そこらへんもよく判らなくなっていた。ノースリーブの袖口がヒリヒリしてきたので、ワセリンをもらった。手がベトベトになって泣きたくなった。一生懸命ウェアで拭っても不快なままだった。しかしワキの痛みはなくなって助かった。24マイル(=38.4キロ)を過ぎるとダイヤモンドヘッドの最後の上り坂である。ここは、無理せず歩いて上る。

◆ ラスト2キロ!!

ダイヤモンドヘッドを上り切ったら爽快な海が一面に広がっていた。心がなごみ思わず写真を撮る。40キロの看板が出てくる、電工掲示板のタイムは05:55:33。スタートまで5分かかっているので、05:50かと思う。あと10分で残りの2キロは無理だと判ったが、6時間ちょっとでゴールできることになる。ここら辺からは再び走り始める。40キロからの2.195キロは憎らしいくらい長く感じた。
既にゴールしたヒト達が仲間を捜しに戻ってきているのを見るといよいよゴールが近づいているのを実感する。しかし、ゴールしてからもこんなところまで戻ってくる元気があるとはさすがだ。最後のカピオラニパークにさしかかる。大勢のヒトがいてビックリする。最後の最後まで給水所で水を飲む。最後の26マイル(=41.6キロ)の看板が見える。自然と涙がこみ上げてきたが、堪える。
最後の直線、足の痛みは不思議なくらい今はなく、走り続けた。“夢みたゴールまであと少し”という垂れ幕がかかっている。その先に本物の“FINISH”の垂れ幕が。手前の垂れ幕がゴールでいいのに、と最後までそんなことを思ってしまう。あーやっと終わるんだ、やっと足を止めていいんだ!とそんなことを思いながらゴールを切った。自分の時計を止めて見ると06:05:59だった。(公式タイム:06:05:58)涙が再びこみ上げてきたけど、やはり泣かなかった。なんとなくこのタイムで泣いてはいけないと思った。
でも、わたしは純粋に誰かに褒めて欲しかった、「よくがんばった、いい子、いい子」と頭をなでて欲しかった。本当にそんな幼稚なことを考えていた。愛するヒトとゴールを迎え、幸せそうに抱き合うカップルが心底羨ましく思えた。わたしもいつか愛するヒトとこのゴールを迎えられたらどんなに幸せだろうと頭をよぎった。
ゴールをした後はゼッケンにマジックを入れてもらいシェルレイをかけてもらった。その先にシャワーが出ていたのでちょっと浴びた。空が青くとても良いお天気だなと改めて実感した(女子優勝はロシアのリュボフ・モルノグワでタイムは2時間29分で大会2連覇。男子優勝はケニアのムバラク・フセインでタイムは2時間15分。大会の記録はこちら)。

◆姉もゴール!

ゴール付近で姉を待つことにした。6時間20分ころ“有頂天”がゴールしてきた。隣に座っていたヒトが「あっ、“有頂天”がきた!」と言っていたので相当目立っていたのだろう。無事にゴールができて良かった。他のランナー達も涙ぐみながらゴールしたり、お互いに抱き合って喜んだり、男のヒトでも泣いているのを見るとこっちも胸が熱くなる思いだった。
姉を待っている間に写真を頼まれた。「あっ、いいですよ」と立とうとすると立てなかったのでビックリした。自分の足じゃないみたいだ。姉が来る前に水を持ってきておこうと取りに行く。しばらくすると姉の姿を発見した。「お疲れさま」と声をかけ水を手渡し、近くにいたヒトに記念に写真を撮ってもらった。姉の公式タイムは06:30:16。二人とも無事にゴールができて本当に良かった。

◆暴食

ゴールした後はヒトで溢れかえるカピオラニパークの中を進み、わたし達のJTBのテントがある敷地まで重たい足をひきずった。JTBのエリアにはいろいろな食べ物が待っていた。わたしは一番近くにあったリンゴを1つとクッキーを2枚もらい食べた。初めてお腹が空いていることに気づいた。すぐに食べ終わってしまった。姉はハーゲンのアイスを食べていた。無料でマッサージが受けられるので、並んでマッサージをしてもらうことにする。100人くらいの現地スタッフが待機していて次々にこなしていた。わたしも台にあがり、マッサージを受ける。つかの間の睡魔に襲われ、本当に気持ちが良かった。
その後は食べ物を取りに行く。肉まんとドーナツとバナナの1セットをもらう。水と相変わらずあるアミノバイタルのペットボトルも受け取り、無心でガツガツ食べる。好きなだけ食べて良いのだ。
靴を脱ぐと姉にくつ下に穴が空いていることを指摘される。まだ何回かしか履いていない新しいくつ下に穴が空くとは、恐るべき42キロである。その後アイスをもらいに行き、フィニッシャーズTシャツを受け取りに行く。かなりかわいい黒のTシャツで大満足だ。Tシャツといっしょにメダルのキーホルダーももらった。
パークの中央には、10位までの成績が大きく表示されている。谷川真理が5位で浅井えり子が8位だったと知ることができる。風の噂で長谷川理恵が3時間30分台で走ったと小耳に挟んだ。みんな驚異的な速さである。アイスをもう1本もらい、荷物を受け取る。表彰式まで待つ気力もなかったので、13時にはカピオラニパークを後にしてバスに乗りこんでホテルに帰った。バスでは曝睡だった。

◆がんばってプール

ホテルの部屋に戻ってベッドにばたんと倒れこむ。しばらく何もすることができなかった。マラソン後は無理をしてでもワイキキビーチに行って、一暴れしなければならなかった。そうしなければ、次の日が大変なことになると以前聞いたことがあったのだ。しかし、ワイキキビーチまで歩く気力が皆無である。絶対歩けない。
なので、ホテルのプールで暴れることに変更する。重い身体をやっとの思いでひきずり、プールへ行く。ホテルのプールは驚くべき小ささで、ふたかきで向こうの壁にたどりついてしまう。そして、プールの水は大変冷たく、ものすごいキツさの塩素だった。
水の中のバタ足でさえ、足が痛くてたまらない。まぁ水に入らなっかったよりはましだろうと言い訳をしながらプールを出てデッキチェアに横たわった。マラソンを終えたであろう、他の日本人客も何人かよろよろと来ていた。わたしはまだ妙にお腹が空いていたので、余っていたおにぎりを頬張っていた。姉は先に帰り、わたしは小一時間ほど読書をしていたら肌寒くなったので部屋に戻った。
いつもの動きの半分ののろさでシャワーを浴び、やっと一息ついた。またベッドに倒れいつの間にか寝てしまう。気づいたら17時半くらいだったので、ワンピースに着替えて夕食を食べに出かけた。

◆雰囲気抜群ハウ・トゥリー・ラナイ

今日は、ゴール記念だからと初日に予約していたカピオラニパークの近くのホテルニュー・オータニ・カイマナ・ビーチ内にあるハウ・トゥリー・ラナイというテラスレストランへ出かけた。ここは姉の友人お勧めの場所である。DFSのトロリー乗り場までヨロヨロモタモタと歩いて行った。街には既にフィニッシャーズTシャツを着たヒトが大勢いた。Tシャツを着ていないヒトでも皆奇妙なロボット歩きをしているので一目瞭然である。
トロリーが来たので乗りこむ。ささいな段差が命取りだ。しかも、上るより下る方が数倍もしんどい。トロリーにもマラソンに参加したおじさん二人組が乗っていた。わたし達の様子を見て、「あっ、マラソン出たんだね、よくがんばったね。偉かったね。」と言ってくれたのがすごくすごく嬉しかった。おじさん達も走ったのに、わたし達を褒めてくれるなんて。わたしが走ったことが誰かに初めて認められた気分だった。あー嬉しいーー!!
おじさん達にいつ帰るのか訊かれ、姉はあさっての火曜日でわたしは木曜日ですと答えた。木曜日?そんなにいるんだ、会社休んで平気なの?と訊かれたので、うーん別に大丈夫じゃないんですかねぇと答えると随分良い会社にいるんだねぇ、いまどきそんな会社ないよと言われた。うーん、良い会社なのかなー世間的に見ると。などと考えた。
カピオラニパークで降りるとすぐにホテルが見つかった。予約は19時半からだったが、19時前に着いてしまっていた。まぁいいやと思い名前を伝えると席に通してくれた。静かな砂浜に張り出したテラスレストランは本当にステキな場所だった。わたしはビールで、姉はブルーハワイを注文し乾杯した。
食事はマッシュルームに蟹肉を詰めたものと牛フィレステーキとシーフードリゾットを注文した。料理は15分くらい待つと揃って出てきた。わたしは欠食児童のように、ガツガツと食事を平らげた。それはそれはもう無我夢中で食べていた。食事は最高においしかった。選んだ料理は本当に全て文句なくおいしかった。あまりの勢いで、あっという間にお腹が満たされて今度はたまらなく苦しくなった。20時くらいまで食事を楽しみお会計をしてもらった。(100ドル=約12,800円)お店のヒトも大変感じがよく、わたし達が帰りも慎重に慎重に階段を上り帰っていこうとすると、「Oh〜 , Good running !! 」と言ってくれたりした。
ホテルからはタクシーで戻った。(10ドル=約1,280円)

◆ネットカフェにて

それからホテルにはすぐ帰らず、インターネットカフェ)に向かった。ホテルから目と鼻の先にある、前回もお茶をしたところに行った。もしゴールをしたらきっと誰かにこの喜びを伝えたくなると思い、日本でホットメールのアドレスを取っておき、愛すべき家族や友人、知人などのアドレスを控えてきていたのだ。(「ハワイの歩き方」HPのハワイのインターネットカフェのガイドはこちら

コーヒーを注文して、パソコンを使わせてもらう。ちょっとだけ手間取ったけど、すぐに日本語入力でメールすることができた。メールは3〜4回にわけて全部で20人以上送った。内容はほとんど同じだが、無事にゴールしたことを伝えた。姉もわたしのアドレスから友人にメールを送っていた。レスが早いトモダチからは返事を読むことができ嬉しかった。同期のトモダチからは、ボーナスが出たこととその支給月数まで書いてあり、喜びが二倍だった。ボーナスが出たんだー、ラッキー!ネットカフェでは、1時間半以上いたのに、コーヒー代込みで二人で9ドル(=1,158円)で済んだ。
帰りにABCストアに寄り買い物をして帰った。ホテルに戻り足に湿布を貼って23時過ぎにはベッドに入った。激動の一日だった。この痛みから察するにもしかしたら、明日の朝自分の足がもげてなくなっているのかもしれないと懸念し、眠りについた。眠りにつく直前に突然、『リアリティ・バイツ』のどのシーンで流れてた曲なのか思い出した。


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