小原古邨の時代


作家解説は、木版画専門店・「恵比寿堂ギャラリー」の作家紹介・同じく、木版画専門店 ・「東洲齋」の作家紹介・「西村美術人名辞典-日本画編」のサイト・「浮世絵の歴史」 (美術出版社)等の内容を利用しています。 また、作品収集や作品についての様々なアドバイスやご協力を、名古屋の浮世絵専門店 「ぎゃらりーおおの」のご主人からいただいています。
(ぎゃらりーおおのHP)
小原古邨の作品解説は、オタンダ「Hotei」のカタログを参考にしています。 一部は、英文のままで掲載しています。


小原古邨(おはらこそん)に関する資料は非常に少ないのですが、比較的入手 しやすいものとしてはHotei Publishingの「Grows,Cranes & Camellias」が あります。オランダで出されたカタログですが中身は英文です。世間に流布して いるものとしては恐らくこれが一番詳しいと思われます。 日本語のものとしては、1998年の平木浮世絵美術館の展覧会図録「小原古邨の 世界-西洋で愛された花鳥画-」(森山悦乃)があります。美術展出品履歴のみ ですが「日本美術院百年史」(日本美術院)「明治期美術展覧会出品目録」(中央公論美術出版) に共進会(7回~12回)への出品記録があります。制作、販売の記録では 「資料による近代浮世絵事情」(永田生慈・三彩社)の大黒屋カタログの記録の中に 名前があります。また渡辺版画店の「木版画目録」中に、多くの祥邨の作品が記載 されています。 作家事典のようなもの では、昭和9年に渡邊版画店から出版された「浮世絵師傳」と昭和29年に美術社 から出版された「浮世絵人名辞典及現代版画家名鑑」に小原祥邨の説明が掲載され ています。この中では、「浮世絵師傳」の説明が最も信頼性が高いと思われます。 何よりも書かれた時期が、小原古邨(祥邨)が活動していた時代であること。さらに、 祥邨の作品を手がけ、近い存在であった版元の、渡邊庄三郎によって出版されたもの であることがその理由です。 以下に「浮世絵師傳」の祥邨の項目を転載し、説明に代えたいと思います。

祥邨 【生】明治一〇年 二月九日
    【画系】鈴木華邨
    【作画期】明治-昭和
小原氏、本名、又雄、加賀金沢に生れ上京して鈴木華邨に学ぶ。東京美術学校教授 (初め東京帝国大学教師)及び帝室博物館の顧問たりし米国人のフェノロサ博士の 指導を受けて、米国へ売る花鳥画を多数描く。古邨と云ふ画名にて、両国の大黒屋 (松木平吉)より依頼の角判花鳥の版下を描き、大正元年より祥邨と改め、肉筆のみ 揮毫せしも、昭和元年より渡邊版画店の需めに応じ、主として氏の得意とする花鳥版画 の創作に努力し、大小取交ぜ数十版作画せり。
古昔の浮世絵版画に、歌麿・政美・広重等の花鳥あれども、専門的の花鳥画家は無く 、版画として優秀の作は少ない。氏の描画は、草木、鳥獣等は悉く写生に基き、更に 美化したるもの故、室内の装飾品に最も適応せり。氏の住所は、東京府高田町雑司ヶ谷 上り屋敷一一四四番地。(渡邊庄三郎 浮世絵師傳)
追記;明治10年に生まれ、昭和20年没

木版画の摺り師であった祖父(当サイト管理人の祖父で、古邨の祖父ではありません) は、明治12年に生まれ、昭和12年に他界しています。 その生涯は、ほとんど小原古邨と重なっており、彼が、小原古邨の作品を摺っていた ことと考え合わせると、何か不思議な縁を感じます。 彼らの時代は、江戸の華やかだった浮世絵の時代が終わり、文明開化の嵐の中で あらゆる伝統的な芸術が捨て去られようとする受難とともに始まりました。
しかし、海外の美術家たちの浮世絵の発見と、ジャポニズムのブームの波で 木版画は息を吹き返し、再び華やかな時代が到来します。明治末から大正にかけ 海外のブームに乗り、多くの木版画が輸出用に制作され、流出してゆきました。 また、この時代は、木版画を西洋の基準に照らした、新しい芸術として再生させ ようとした、創作版画運動(解説下)や、新版画運動(解説下)の時代とも言われます。
しかし、流行は長続きせず、関東大震災の後、ブームは急速に萎んでゆきます。 活版印刷におされた木版画の世界に、再び冬の時代が到来し、 絵師・彫り師・摺り師は食うや食わずの生活に陥ります。祖父も失意の中に、 その生涯を閉じました。木版画は、紙くず同然に扱われ、焼失したり廃棄されたり してゆきます。

ついでながら、管理人の古邨研究「新版画と小原古邨・祥邨」のPDFファイルを掲載しておきます。


新版画運動

従来の絵師、摺師、彫師という分業制である伝統版画(浮世絵版画)の復興を理念とし、 芸術として再生しようとした運動。版元である渡辺正三郎が中心となって運動をすすめた。 新版画運動は、1915(大正4)年に日本画家としてはじめて橋口五葉の「浴場の女」が出版され 具体的活動につながっていく。伊東深水が情感豊かな美人画を、川瀬巴水が詩情豊かな風景画を、 役者絵は役者の性質をとらえデフォルメした構図で表現した山村耕花、舞台姿の美しさを描画した 名取春仙など、それぞれ絵師の創造性を徹底的に尊重した個性豊かな浮世絵版画が出版された。 その他の版元(西宮書院など)でも山川秀峰や 大野麦風、和田三造など著名な絵師が作品を発表していった。
(ぎゃらりーおおのHP/南アルプス市立春仙美術館HPより)


創作版画運動

「自画・自刻・自摺」をスローガンに、明治40年代から太平洋戦争前までの約30年間 にわたって、日本の版画界の主流となった運動、もしくはその中から生み出された版画 作品のこと。創作版画は当初まとまったひとつのグループによる運動ではなかったが、 中心的な役割を果たしたのが、山本鼎、石井柏亭、森田恒友ら東京美術学校出身の洋画家 たちだった。彼らは明治40年に、各種の技法による版画作品を付録として綴じ込んだ美術・ 文芸同人誌『方寸』を創刊(明治44年まで通算35号)、創作版画普及に寄与した。また、 明治末期から大正にかけては、ヨーロッパ美術のさまざまな動向が日本にも伝えられ始め ていた時代で、なかでもドイツ表現主義による版画作品は、官展系のアカデミズムに抵抗 しようとしていた当時の若い画家たちに大きな影響を与えた。創作版画の機運は大正時代 になると、これらヨーロッパの新しい美術に刺激を受けた恩地幸四郎、長谷川潔、永瀬義 郎、田中恭吉ら、さらに若い作家たちをも巻き込み、大正7年には、現在の日本版画協会の 母体となる日本創作版画協会が誕生するにいたった。(木戸英行)
(DNP Museum Information Japan artscape 現代美術用語集より)