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 今日の夜は、常誠高校側が、歓迎会を行ってくれるという。
 引率の鈴木教諭とマネージャーの彩子が、学校に近いビジネスホテルに泊まるために、一行と別れた後、湘北のメンバーは、更衣室に併設されたシャワー室で汗を軽く落とし、制服に着替えて、宿舎として割り当てられた男子寮に向かった。
 寮は、高校の敷地に隣接しており、普段は多くの学生が寄宿しているが、夏休みに入り、部活動をしていないものは帰省中だ。
 寮に残っているもので、部屋をまとめてあり、余っている部屋を、部活動用の合宿所に使っているのだ。
 一部屋は普段は三人で使っているらしいが、机などは一切片付けられているため、狭いことは狭いが、和室なので布団さえ敷ければ、四、五人の寝泊まりが可能になっている。
 湘北には三部屋割り当ててもらえた。
 各学年で一部屋を使うことにする。
 「うえーっ、雑魚寝かよぉ」
 「贅沢を言うな。一、二年は四人ずつなんだぞ」
 三井の独り言に、赤木が小言をいう。
 「ちっ、俺ぁ繊細なんだよ。どこででも眠れる奴と一緒にすんなよな」
 「まぁまぁ、三井。なるべく離れて眠ればいいだろう?赤木だって、そんなに寝相悪くないだろうしね」
 ぶつぶつ言う三井を、木暮が取りなす。
 「そうだ、赤木。夕食までに、風呂を使ってくれって事だったよな。さっさと行かないと、常誠の人達に悪いんじゃないのか」
 「あぁ、そうだったな。確か、落ち着いてうちが入れるように、四〇分ほど開けといてくれると言っていた」
 「じゃ、早くいかなきゃ。三井も準備して」
 赤木と木暮はさっさと用意を始める。
 促された三井も、渋々荷物をごそごそし始める。
 『ちっ、みんなで芋の子洗うみてーだよな』
 割と長風呂の三井は、きっとゆったり入れそうにない入浴を思い、気が重くなった。
 「三井、早くな。他の部屋に連絡してから行くから先に出るよ」
 「え、あ、待てよ、俺も行くって」
 一人で、知らないところに行くのがイヤで、三井は慌てて赤木と木暮の後を追う。
 結局、メンバー総勢一一人のご一行様に膨れ上がった彼らは、常誠高校の好意による、貸し切り風呂にやってきた。
 浴場は、思っていたよりも広く、彼らが入っても十分ゆったりとしていた。
 「広いじゃないか、さすが私学だなぁ」
 木暮が、正直な感想をこぼす。
 さっさと、服を脱いで、それぞれの洗い場で躰を洗い始める。
 「三井先輩、お背中お流しします」
 「え?」
 後ろから声をかけられて、振り返った三井は、手に泡だったスポンジを持った桑田に気付く。
 「お、おう、すまねぇな」
 「いえ、じゃ、失礼します」
 言うが早いか桑田は、さっさと背中を洗い出す。
 なんだか三井は、呆気にとられていた。
 確かに桑田は、普段から、先輩としての三井をたててくれるが、何も背中まで流してくれなくてもなぁなどと思ってしまう。
 体育会系の部活では、さほど変わったことではないが、三井の場合そんなに後輩の立場というものを経験していないので、ちょっと違和感があるのだ。
 「先輩、お湯流します」
 そう言って、背中の泡を流しておしまいだ。
 「サンキュ、な」
 「いえ、このくらい。また明日も流させていただきますね」
 桑田が、にっこり笑って離れるのを見ていた三井は、頷いて、髪を洗うためにシャワーの方を向いた。
 髪を濡らしてから、シャンプーを手にしようとして、目の前のシャンプーを誰かが取り上げたのに気が付き、視線を上げる。
 「る、流川?」
 「髪洗うッス」
 「え、い、いや、髪ぐらい自分で洗え…」
 「洗うッス」
 シャンプーを握りしめて睨み付ける流川に、三井は、ちょっと腰が引けてしまった。
 『なんなんだよーっ。なんかこいつ、機嫌悪くねえか?』
 確かに流川は、機嫌が悪かった。
 桑田に先を越された。
 三井と、背中を洗っている桑田の間に、和やかな雰囲気が漂っていて、周りも自然と和んでいたのだ。
 何となく、取り残されたようでおもしろくない。
 三井にしても、照れくさそうに座っているが、躰に触れられるのはイヤそうではない。
 この間、触られるのがいやであんなに暴れたのにずるいと、流川は思ってしまう。
 『センパイに触るのはどあほう位だと思ってたのに、桑田までちょっかい出してくるなんて、油断できねぇ』
 明日はゆるさねーと意気込んだ上に、今日も三井に触れたいと思い、髪を洗うことにしたのだ。
 「三井サン、いいなぁ、モテモテっすね」
 宮城が反対側から冷やかしを入れる。
 「宮城ィ…」
 「センパイ、こっち…」
 宮城に抗議をするために反対側に向けられた、三井の頭を強引に自分の方に向ける。
 「ち、ちょっ、流川ぁ」
 流川はシャンプー液を手にうけて、慌てる三井の頭を力任せに押さえながら、洗い出した。
 『ちょっと待ってくれよ。なんでこうなるんだ?なんで流川がこんなに良い後輩のマネすんだ?』
 上下関係について、桜木より少しはましといった程度の流川が、せっせと先輩である自分の髪を洗っている
 『なんで?』
 三井には、大きな疑問符が頭の中を渦巻いている。
 『三井サンの髪、気持ちイイ』
 流川は、柔らかい猫毛の短い髪の櫛どおりの良さを楽しんでいた。
 『明日は背中流す』
 明日は滑らかな肌に触れて見ようと意気込んで、流川は、入浴時でも誰にも三井は触らせまいと心に誓った。
 一方三井は、今一つ流川の真意を図りかね、先日の流川の無茶を思い出して、いつ、再び暴走するかと気が気ではない。
 とりあえず、大人しく身を伏せて、流川の気まぐれが(と三井は思っている)早く終了するのを息を詰めて待っていた。
 「湯、流すっス」
 シャワーの栓をひねって、三井の頭に湯をかける。
 シャンプーの泡をすっきり流し終わり、流川は、リンスの容器を手に取る。
 「リンスつけマス」
 シャンプーもリンスも、三井持参のものだ。
 資生堂のバラ園のミニ容器らしい。
 さっきから、柔らかいバラの香りに包まれていて、流川はご機嫌だった。
 普段、こんなに直接香料を嗅ぐと、イヤになるのに、三井から香ってくるとなれば話は別というところか。
 リンスをつけてから、バラの香りに包まれて、約1分ジッと待ってまた湯をかける。
 絞ったタオルで、ざっと三井の髪の水滴を拭う。
 「お疲れサンでした」
 流川は三井に声をかける。
 三井は、まだ緊張して、固まっている。
 「センパイ?」
 そっと肩に手を乗せる。
 三井が、それにびくっと反応して、流川を見る。
 「う、お、おう、サンキュな、流川」
 ひきつり気味の笑顔で礼を言う。
 「また、明日洗うッス」
 「い、いや、別に毎日無理しなくても…」
 断れるものなら丁重にお断りしたいと、三井は口ごもりながらも言葉にしようとした。
 「洗うッス!」
 ギンッと睨み付ける迫力に、三井はたじたじとなる。
 「そ、そう、か?は、は、すまねぇな…」
 三井は心で号泣しながら、完全にひきつった笑いで、明日も頼むと言わざるをえなかった。
 「ウスっ」
 満足そうに、流川は頷いて、自分の髪を洗いに離れていった。
 全身から、安堵で脱力して、三井は、湯船につかるべくシャワーで、シャンプーの後のヌルみをとる。
 湯船に入って、フウッと、一息吐く。
 三井の動きに連れて、あたりにバラの香りが広がっていく。
 「三井サン、なんか、可愛らしいシャンプー使ってんですねぇ」
 周りの誰もが聞きたいと思っていた事を、代表する形で、宮城が声をかけた。
 流川だけでなく、周りにいた全員が、柔らかなバラの香りにクラクラきているのだ。
 「え?これか?しんねーよ。お袋が持ってけって…。変か?」
 なんでそんなこと聞くんだというように、不思議そうな顔をして、三井は答える。
 「いや、別に、変って言うんじゃ無いんスけどね。じゃぁ、いつもそれじゃないんですか?」
 「いや、いつもってことはねぇな。なんか、お袋の趣味でいろいろ変わっからよ」
 つまり三井は、彼の母の趣味だという、こんな乙女心をくすぐるような、バラの香りのシャンプーやらなんやらを、抵抗なしに普段から使っているという事らしい。
 ということは、もしかして、彼の父もこんなバラの香りのシャンプーを使っているのか。
 「もしかして、一家みんな同じの使ってます?」
 「ん?親父はなんか、自分で買ってるよーだけどな」
 「三井サンはそっち使わねーんですか?」
 宮城は、どうしてメンズ系の洗髪料を使わないのかと、素朴な疑問を投げかけた。
 高校生ともなると、結構香りや、爽快感なんかに嗜好が固まってくるものなのに、三井は違うのだろうか。
 「え?なんか、そっち使うと、お袋がジジくせーからやめろっていうんだよ」
 変なこと聞く奴という感じで、三井が答える。
 つまりは、母親の言うとおりに大人しく、花の香りの洗髪料を使っている訳だ、この人は。
 ぐれて、あの連中と付き合っていた時でさえ、こんな香りをさせていたのか。
 湘北のメンバー達は、なんだか一気に脱力してしまった。
 「なんだよ?なんか変なのか?」
 三井一人が、わからずに聞き返す。
 「いえ。そうじゃないっす。お袋さんの趣味が良いなって思っただけっすから」
 宮城が、苦しい言い訳をする。
 「さぁ、そろそろ上がらないと、常誠の人達に迷惑かけちゃうな」
 木暮が、話題を打ち切って、みんなを追いやる。
 浴室から出て、服を身につけ、部屋に戻る。
 室内は、適当に冷房が効いているので、ほっとする。
 「あー、なんか腹減ったよなぁ…」
 足を投げ出して、三井はこぼす。
 「ちょっとは、我慢するって事をしらんのかお前は」
 赤木が、呆れたように溜息をつく。
 「なんだとぉ」
 三井が、キッと、赤木を振り返る。
 「まぁまぁ、もうすぐ夕食だから」
 木暮が、間に割ってはいる。
 この三人のパターンは、どこに行っても変わらないらしい。
 そうこうするうちに夕食となった。
 今日は、常誠側が、歓迎会をしてくれるらしい。
 寮の食事にしては豪勢で大量な夕食を用意してくれて、一行は、大いに満足し、常誠高校側に深い感謝の念を抱いたのだ。
 夕食が終わり、就寝まで自由時間になった。
 三年の部屋では、赤木と木暮が、なにやら夏休みの課題を開き始めたので、三井は、うんざりして、部屋を抜け出した。
 隣の宮城達の部屋を覗く。
 「あれ、三井さん、どうしたんスか?」
 ごろごろと転がって、雑誌をみていた宮城が三井に気付いて声をかける。
 「え?いや、なんか暇でよ…」
 「じゃ、トランプでもしますか?」
 「なんだ?持ってきたのか?」
 「まぁ、ね」
 三井は、いそいそと部屋に入ってくる。
 「何します?」
 トランプをくりながら、宮城が尋ねる。
 「大富豪」
 「オッケー」
 他のメンバーが、藁藁と二人の近くに寄ってくる。
 宮城がカードを配って、ゲームが、始まった。
 
 どうも、やばいと、宮城は思った。
 三井が、異常に弱いのだ。
 二回目に、大貧民に落ちてからいっこうに上がってこない。
 確かに、上に上がって来るにはかなりの運が必要なのだが、定位置といった感じで、動かないのだ。
 三井の機嫌は、急降下している。
 『どうしたもんだか』
 わざと負けるには、かなりの努力がいる。
 周りのメンバーも、やばいと思ってはいるのだが、本当についていない三井に勝たせることができないでいた。
 「あーっ。また俺の負けぇ?」
 三井は、あまりのショックに呆然としている。
 「うーん、どうします?三井サン、まだ続けます?」
 一応、宮城はお伺いをかける。
 「う…」
 三井もこのまままけるのはイヤだし、かといって、まるでついていないこの場のまま続けるのも、面目丸つぶれで辛いものがあった。
 とりあえず、もう一ゲームと思ったとき、寮内の放送があった。
 「湘北高校の三井君、お電話です。一階の寮監室前まで起こしください」
 「三井サンじゃないですか?」
 「おう、なんだろう?」
 「とにかくいった方がいいっすよね」
 「あ、あぁ、そうする」
 とにかく、一階に降りてみることにする。
 寮監室の前にやってきて、声をかける。
 「すいません、湘北のものですけど」
 すると、三台並んだうちの一台の公衆電話を指された。
 上がっている受話器を取り上げる。
 『誰だろう』
 「もしもし?」
 (三井か?)
 「ま、牧?」
 (おう、常誠は、どんなもんだ?)
 「ど、どうって…」
 (なんだ、まだ手合わせしてないのか?)
 「あぁ、あさってから試合するんだ」
 (そうか。いや、実は少し前に、常誠の御子柴から電話があってな)
 「へ?」
 (武石中の三井が、湘北にいるってなんで教えなかったって、さんざん愚痴られてな)
 「御子柴が?」
 (あぁ、なんだか、あいつ、お前に執着してるんで、ちょっと気になってな。何かあったのか?)
 「いや、ちょこっと話しただけだから…」
 (そうか、それなら良いんだが)
 「それで電話してきたのか?」
 (うーん、それもあるが、それは口実で、本当は、お前の声が聞きたかったからだな)
 「ば…!」
 三井は、声を上げようとしてはっとする。
 寮監が向こうからこっちをみていたのと眼があったのだ。
 軽く会釈して、視線をずらす。
 「何言ってんだ」
 声を落として、牧に抗議する。
 (あ、もしかして近くに誰かいるか?)
 「あぁ、ちょっとな」
 (そうか、長話は無理だな…。帰ってきたらまた、常誠の様子、教えてくれよ)
 「あ、あぁ」
 (それと、御子柴に気をつけろよ)
 「へ?」
 (あんまり近づくなよ)
 「それって…」
 (御子柴は、お前が気になって仕方ないらしい。あんまり挑発するなよ)
 「なんだよ、それ…」
 (ははっ、ま、気をつけるにこしたことはない。じゃ、もう切るよ。呼びつけて悪かったな。合宿がんばってくれ)
 「お、おう、サンキュ」
 (また、戻ってきた頃に電話するよ。おやすみ、三井)
 「お、おう、おやすみ」
 向こうの電話が切れるのを待って、受話器を下ろす。
 『まったく、なんだよ牧の奴…。御子柴がなんだって?』
 自分は、御子柴どころか、流川から身を守るのに精一杯なのだ。
 フウッ、と溜息をついて、部屋に戻ろうとする。
 『あっ』
 「ありがとうございました」
 寮監に礼を言って、今度こそ、部屋へと向かう。
 二年の部屋に戻ってきて、入り口を覗く。
 「あっ、三井サン。なんだったんですか?」
 「あ、いや、別に、たいしたことなかったんだ」
 「それなら、いいんですけど…。そうだ、トランプどうします?」
 「ん?いや、もう消灯近いから、部屋に戻るよ」
 「そうっすか、それじゃ、雪辱戦は、また明日って事で」
 「あぁ、あしたは、負けねぇぞ」
 「期待してますよ、じゃ、おやすみなさい」
 「おう、おやすみ」
 宮城や、他のメンバーの挨拶に答えて、三井は、三年に与えられた部屋に戻った。
 「あっ、三井、電話だって?どうしたんだ?」
 木暮が、待っていたように尋ねる
 「あ、いや、大したことじゃねぇんだ」
 「そうか、それならいいんだ」
 とりあえず、布団を敷く。
 窓際に三井、入り口に赤木、そして真ん中に木暮の布団をかなり離して敷いていく。
 もそもそと、布団に入って、横になると急激に疲れが襲ってきた。
 やはり慣れないところで、緊張していたようだ。
 「じゃぁ、おやすみ、赤木、三井」
 「おう、おやすみ」
 「うむ、おやすみ」
 部屋の明かりを赤木が消して、みんな大人しく床につく。
 三井は、疲れの中で、直ぐに眠気がやってきて、意識を手放した。