【危険がいっぱい1】
☆災難はある朝突然に・・・
夏休みにはいって間もなくのある日の朝。
彼は、電車の中にいた。
部活は、午後からというのにもかかわらず、彼が通学時間というには少し遅めだが、午前も早い時間に電車に乗っているのは、一学期の期末試験で無惨な結果を出し、補習にかり出されているためであった。
少し寝過ごして、一講目は半分ほど遅刻しそうだがなんとかサボらずにすみそうだ。、今までなら自主休講している三井だが、高校総体に向けての合宿に参加する条件として、必ず出席するようにと安西先生の前で赤木が命令したためで、恩師の前でなければきっと無視したであろうこの約束に、渋々従っているのであった。
「ちっ、赤木の野郎。安西先生の前で切り出すなんて嫌みな奴だぜ…」
恩師ににっこり微笑まれて、『何事も無駄ということはありませんよ』などと言われたからには、欠席などできたものではないと、策士赤木の顔を浮かべては悪態をついていた。
電車の車内は、わりと空いていた。夏休みで学生がいないうえ、少し通勤には遅いため、フレックスの通勤客と買い物客がゆったりと車内に立っている。三井は、比較的開かない方のドアに肩からもたれていた。
三井は、バスケット部に戻るまで、学校の近くのマンションに一人暮らしをしていた。
グレていた間は、連れのたまり場と言った場所になっていたが、更生して、バスケ部に戻るとき、両親と約束をして、自宅から通うことになっていた。
朝が苦手な三井にとって、長距離の通学は苦痛であったが、バスケに戻るための約束なら仕方がないと、しぶしぶ従っていた。
車外は、これから夏の盛りを迎える海がきらきらと陽に輝き、のどかな朝の風景に誘われて、三井は、いつしかドアにもたれてうとうとしていた。
微睡みの中で、三井は、ふと、自分の背中から腰のあたりに何かが動く気配を感じて目が覚めた。
車内は、先ほどよりは少し混み合っていて、自分の周りにも何人かの、人垣ができている。
気のせいかと再び目を閉じようとしたとき、明らかに故意としか言い様のない動きで、背中を撫でられるのを感じた。
『なに?』
首を回して後ろを見ると、なにやら体育会系のガタイのいい男が二人、にやにやと三井を見ていた。
『自衛隊の勧誘か?』
赤木や桜木ならまだしも、三井のように長身とはいえ細身の男までも、勧誘にくるほど、自衛隊は人手不足なのか?と自衛隊の人事や広報の人が聞いたら怒り出しそうなことを、三井は考えていた。
しかし、自衛隊の勧誘の人間が、うとうとしている、夏の制服を着た、明らかに高校生と思える青年の背中を断りもなしに触るかという(高校生でなくともだが)根本的な問題を、三井の頭は飛ばしていた。三井は寝起きの頭の回転がすこぶる悪いらしい。
ぼんやりしている間に再び背中から腰に、男の手が動く。
先程よりも男達との間が近づいていて、気がつけば、がっしりと肩を捕まえられており、触り放題といった状況になっていた。
『こ、こいつら、痴漢か?男の背中触って何が嬉しいんだ?』
やっと、三井にも状況が飲み込めたようだった。
しかし、時すでに遅しという状態であった。
背中じゅう、撫で回されるならまだしも(って、それも許せないが)、学生ズボンのベルトを緩めて、中に手を入れられそうになっていたのだ。
『マジかよっ。』
あわててもがき始めた三井の腕を、二人がかりで押さえてくる。
「やっ・・・」
声を出そうと口を開いた途端、一人の掌で口を塞がれてしまった。
『なんで朝っぱらから、男に痴漢されんだよっ』
声を出すこともままならず、腕も捕らえられ、男達のやりたい放題になってしまった状況に、悔し涙が滲み出したとき、霞む目の端に駅のホームが見えた。三井の側の扉が開くはずだ。
もう、だめだと、観念したように、三井はわざと全身から力を抜いて俯いた。
首筋にかかる男達の息づかいに、笑いの波動が含まれている。
『ちくしょーっ』
そのとき、待ちわびていた扉が開いた。誰も三井の立つ扉から乗り降りはしなかった。二人の男に腕を捕まれたまま、三井はぎりぎりまで、動かなかった。ドアが閉まり始めてから、ダッシュで飛び降りた。
突き放したと思い、ほっと一息つこうとした三井は、腕を捕まれて固まってしまった。
☆どこまで続くんだこんな不幸・・・
「見え見えだったよな。」
笑いを含んだ声で、男が耳元で笑う。
「案外、誘ってんのかもしんねーぜ。」
片方の男も反対側で笑う。
「ホテルでもいくかー?」
三井は、屈辱と絶望で窒息しそうだった。
腕を男達にとられたまま、改札を抜けていく。
駅員に助けを求めようかと思ったが、痴漢ですなどと男の自分が言えるわけがなかった。
駅を出てがっちり腕を抱えられ、怪しげな一角へと連れて行かれそうになったとき、方向と反対側の交差点の信号が青から赤に変わろうとしていた。
三井は、一か八かで、両足で二人の足を踏みつけ、男達の注意が腕からそれた一瞬に振り払い、赤になった直後の歩道を駆け抜けた。
とにかく、男達から遠ざかりたいと、ひたすら一直線に逃げていく。
一直線に逃げると言うことは、距離は広がるが、相手に自分の姿が見えているということに、三井は気付かなかった。姿が見えている間は、追う方の人間にも、追いかける気持ちが持続することも、わかっていなかった。
交差点を3つ渡った時点で、三井は、後ろを振り返った。
そこで始めて、追われていることに気がついた。相手は今、一つ手前の信号にいる。
三井は、あわてて逃げ始めた。
かなり遠くの校区から、湘北高校に来ている三井には、このあたりの土地勘がなかった。今までで一度も来たことのない街をただ闇雲に、逃げるだけで、後のことは考える余裕などなかった。
しかも、あまり体力のない三井にとって、どこまでも追いかけてくる男達は、半ば恐怖になっていた。
立ち止まって、殴り合いの喧嘩をする事が頭をよぎったが、安西先生と約束をしたからできないと諦めた。約束していなかったにしろ、三井は喧嘩が弱かったから賢明だったかもしれない。(本人は気付いてはいなかったが)
目の前の交差点の信号が、赤になって、初めて三井は角を曲がった。
とにかく、男達から遠ざかろうと、ひたすら、遠くへと足を動かしていた。信号が、赤の時に何度か曲がることによって、男達の視界から姿を消すことになったのは、幸運といえたかもしれない。
振り向いて、ようやく男達が視界に入らなくなっていることに気が付いて、ほっと一息着いた三井は、自分が完全にどこにいるのかわからなくなっていた。
今来た道を戻ることは、まだ自分を捜しているかもしれない男達に出会う確率が高かった。
かといってこのまま、道を歩いても目的の湘北高校にたどり着けるとは、いくら楽天家の三井でも思わなかった。
人に道を聞くのも、高校生の頃というのは恥ずかしいもので、考えたあげく、タクシーを捕まえて学校まで行こうと考えた。
親父にもらったタクシーチケットを、定期入れの中に見つけて、ほっとする。タクシーの通りそうな大通りまで出ようと、歩き始める。
やっと大通りを見つけ、タクシーを探そうとしたとき、視界に例の二人連れの姿が入った。
最後に見かけたときより近くにいることに驚いて、再び逃げ始める。
また、一直線に逃げ始めたので、相手が追ってくるのがみえてとにかく怖い。
何度かタクシーを見かけたが、乗り込む間に捕まりそうで、止めることができなかった。
道は、どうやら繁華街に近づいたようで、人で思うように逃げにくくなってきた。
人混みは、追う方にも邪魔となっているようで、それほど追いつかれることもなかったが、とにかくこのまま逃げ続けるのは、三井の体力に貯金がなかった。
捕まってしまえばおそらく2〜3発殴られて路地にでも連れ込まれるかもしれない。
グレていた頃、話に聞いた女の襲い方を自分がやられるのかと思うと冷や汗が出る。
三井の取り巻き連中は、グレているわりには、おとなしい連中がほとんどで、実際に三井がその方面に手を染めることもなく、噂話だけだったのだが、想像は、実際よりも時々大きくなるもので、三井もかなりハードな想像をしていたらしい。
あまりの怖さに眩暈しながら、後ろに見える二人が諦めてくれそうにないことに焦って逃げている目の前に、背の高いいかにもスポーツやってますといわんばかりの集団が道いっぱいに広がって歩いていた。
『ちくしょーっ。こんな所で迷惑歩行しやがってーっ』
自分たちも普段は、Gメン75(古い)の様に壁を作って人様の邪魔になっていることを棚に上げて、三井は心の中で悪態を付いた。
とにかく、左端の一番小柄な男の横をすり抜けようとしたとき、その男が手を振り上げ、その手がもろに三井の顔面に当たった。
「ってーっ。なにしやがるっ!」
目から星が出たようで、くらくらしながら、三井は相手を見た。
「あーっ!湘北の三井?」
☆もしかして絶体絶命?
相手に名前を呼ばれて、三井は我に返る。
邪魔と思った壁は、目下、湘北高校バスケット部が、苦汁をなめさせられて打倒に燃える全国制覇へのステップの内の一つ、神奈川県第1代表の海南大学付属高校バスケット部のご一同様だった。
「てめーらは、海南の。なんでこんなとこにっ。」
三井の呟きに、反応したのは三井にカウンターをお見舞いした、小生意気な1年坊主清田だった。
「何いってんだ。ここは海南の通学路じゃねーか。てめーこそこんなとこで何してんだよ。」
「うっ。」
痛いところを突かれて、三井は一瞬言葉を飲む。何してるといわれてはっと気が付いた。逃げなきゃならないのだ。
再びダッシュしようとしたとき、二の腕を捕まれた。
「へへぇっ。とうとう捕まえたぞ。」
「ちょろちょろ逃げやがって。ずいぶんと走らせてくれたよなぁ。」
「その分ご奉仕してもらうぜぇ。」
たたみかけるように男達が荒い息とともに話す。
三井は、自分の不運さに、天を仰いだ。もうだめだ。噂話のレイプされた女の様にボロボロになるかもしれない。ショックで自殺でもしたら、海南に化けて出てやる。
顔色は蒼ざめ、諦めて力を抜いた三井を、男達は引きずって連れていこうとする。
そのとき、三井の腕をつかんだ男の手を別の手が掴んだ。
「彼が何かしたんですか?」
尋ねたのは、王者海南の中でも帝王と称される男、牧だった。
「あぁっ?何だてめぇは?関係ねぇ奴はひっこんでろ。」
男は、牧に向かってただ凄むしかなかった。三井は彼らに何もしていない。目の前でうたた寝していただけである。因縁を付けるとすれば足を踏まれたことくらいである。
「彼は、我々の知り合いなんです。関係ないわけではありません。」
牧は、穏やかな顔をしながら掴んだ男の手に、さりげなく力を入れる。すると男の顔が次第に苦痛に歪んでいく。
三井は、捕まれた腕の自由が利くことに気が付いた。男が腕を放したのだ。
「く、くそっ。覚えてろっ。」
男は、牧の手を振り払って、相棒に退却を促し、敗者の常套句を吐き捨て、去っていった。
☆これって一難去ってまた一難って奴?
去っていく男達の後ろ姿を呆然と見送っていた三井に、牧が声をかけた。
「どうしたんだ?三井。あんな胡散臭そうな奴等と何を揉めたんだ?」
三井に答えられるわけはない。いきなり体を触られて、逃げようとしたら捕まって、怪しいところに連れ込まれそうになったから、隙を見て逃げ出しましたなんて、口が裂けても言えたものではなかった。
三井は、喧嘩に弱いし、よく泣くくせに、プライドだけは高かった。まして、湘北のライバル校の人間にこんな情けない自分のことを話すなどもってのほかだった。逃げていたなど言えるわけがない。小手先の言い訳なら口が回る。湘北でも宮城とアヤ子以外なら口先で誤魔化すことは容易い。だいたい、それで後々墓穴を掘ることになることもあったことすら忘れて、三井は、必死で保身のために言い訳を探した。
「うっ、な、なんでもねえよ。ちょっとからまれたけど、うっとおしいから相手にしなかっただけだ。」
なんとか取り繕って、一息ついた三井に、小生意気な1年坊主が神経を逆なでするように喚く。
「何いってんだよっ。牧さんがいなけりゃ連れて行かれるとこだったじゃないか。真っ青になって竦んでたくせに。」
「あっ、あれは、お前が邪魔したから追いつかれたんじゃねーかっ。はた迷惑な歩き方してやがったうえに、腕振り回しやがってっ。公衆道徳ぐらい守りやがれっ。」
「なんだとーっ。ただ逃げ回ってただけじゃねぇかっ。逃げ切れなかったのを人のせいにすんなよなっ」
「こっ、このチビっ。言うに事欠いてなんてこと言いやがる。」
喧嘩が弱いくせに沸点の低い三井は、図星を指されて狼狽えたのが見え見えなことに焦って、海南の野猿こと清田に掴みかかろうとした。
「やめんか。清田。口がすぎるぞ。年長者に向かってなんて口をきく。あやまらんかっ。すまんな、三井も俺に免じて引いてくれないか。」
低レベルな諍いが発生しそうになったことに呆れながら、二人の間に、牧が割って入った。清田の頭を押さえて、謝らせる形にする。清田はなおもぶつぶつ呟いていたが、牧の命令には絶対らしく、それ以上三井に突っかかる気配はなかった。
「あ、いや、俺も言い過ぎたかもしんねぇし・・・。別に海南とどうこうするつもりはないんだ。」
牧に、下手に出られて、三井もあわてて矛先を納める。
☆やっと災難は去ったよなっ?
何とか、双方の合意を得て、その場に一瞬の空白ができた。
牧がそれに気付いて、三井に話を振る。
「ところで三井、こんなところで立ち話も何だし、急いでないならその辺に入らないか。一度おまえ達とゆっくり話しもしてみたいしな。それに、実は腹が減ってるんだ。朝練の後の腹ごしらえに出てきた途中だったし。」
そういって、彼は近くの○クド○ルドを指した。
「えっ?」
急ぐという単語で無意識に時計を見た。時間は、いつの間にか、昼前になっていた。現実的な話になって、やっと三井は、自分が何で朝から制服を着て、こんなとこにいるか思い出した。完全にさぼってしまった。きっと担任から安西先生に抗議がいくに違いない。先生に余計な心配をかけてしまう。それに、先生の前で誓った約束を破ってしまった。いったん引いた汗が再びどっと背中を流れる。
「どうかしたか?三井。」
いきなり蒼ざめた三井を見て、牧が不審気に尋ねる。
「い、いや、なんでもねえ。ちょっと用があるから今日は悪いが失礼する。すまん。この埋め合わせはいつかすっから。」
また今度誘ってくれと、社交辞令で三井が言って立ち去ろうとするのを、牧は、わざと受け流さずに呼び止めた。
「それじゃぁ、連絡するから連絡先を教えてくれ。」
「へっ?」
三井だけでなく、海南のメンバーも呆気にとられた。いかにもな社交辞令と判る三井の言葉に気付いてるはずなのに、わざと気付かない振りで反応する、牧らしくない姿に、ウソ寒い執着を感じたからだ。
「電話番号。俺の所も教えようか?何かメモ用紙あるか?」
戸惑う三井に、メモ用紙を要求する。
突発的な出来事に対する反応の鈍い三井は、言われるままに鞄から、手帳を出して自分の電話番号を書き記すと、牧に渡した。
牧は、三井の手帳に自分の連絡先を丁寧に記していく。
手帳を三井に返して、牧が挨拶する。
「それじゃあ、近い内に連絡するよ。引き留めて悪かったな。」
「あ、ああ。」
呆然と手帳を掴む三井を残して、牧に促された海南大付属ご一行様は○クド○ルドに入って行った。
一行が店に入った後、やっと我に返った三井は、訳の分からない牧の誘いよりも目の前の補習をどうやって言い訳するかを、あわてて考え出した。
とりあえず学校に行くことにきめて、はたと気付いた。やはり自分が今どこにいるのか判っていなかったのだ。
ため息を一つついて、三井は正面から来る空車のタクシーに向かって手を挙げた。
☆帝王様の気まぐれ・・・
あるいは、気分はいじめっ子?
「何で牧さんが、あんな奴誘うんですかっ。」
野猿は、ご機嫌斜めだった。相手が3年生とはいえ、あの悪態野郎に頭を下げたのが悔しいらしい。牧の仲介がなければとっくみあいの喧嘩になっていたところだった(三井は、牧にここでも助けられていたようだ。)。牧が、かなり下手に出て、三井のご機嫌をとったような所も気にくわない。その上、食事に誘うなどもってのほかと思っているらしかった。
『わかりやすい奴。』
牧は、とりあえずそんな単純な清田が気に入っていたが、今は、ついさっき別れてきた、湘北の男に思いを馳せていた。
『プライドは高そうだが、結構単純。何かと取り繕おうとして墓穴を掘るタイプかな。沸点はかなり低そうだし、取り扱い注意ってとこか。』
ほんの少しの邂逅で、おおよその相手の性格が手に取ったように判るのは、牧の特技だった。
試合で見た三井のきれいなシュートフォームと、今会った三井の落ち着きのなさには、かなりギャップがあったが、後輩を倒されたときに食ってかかった、あの時の荒っぽさには納得してしまった。
『しかし、何でこんな所にまでやってきたんだか。』
さすがの帝王も、三井が痴漢に追いかけられて実際には、駅一つ以上逃げてきていたなどとは、思いも寄らないことだった。
ただ、清田にカウンターをうけて食ってかかった時と、あの男達に腕を捕まれた後の諦めきった表情、彼らが退散した後に見せた無防備な姿、その後の言い訳を口にする頼りなさげな顔や、清田に飛びかかろうとした顔など、ほんの少しの間に見せたくるくる変わる印象を、牧はおもしろいと考えていた。
牧は、掌の中の三井が書いた、電話番号のメモを見て、早い内に連絡してやろうと思った。
『早速電話したら、あいつはどうするだろうな?』
焦る三井の顔が思い浮かぶだけに、牧は、久しぶりにいたずらを思いついたようなワクワクした気分になっていた。
清田の抗議もどこ吹く風と受け流す姿に、うるさい清田の八つ当たりを思って海南バスケット部の面々は、深い溜息をついた。その上、牧が三井に対して見せた態度に、なにやら一波乱ありそうで、どうしても気分が重くなっていたのだ。
そんな周囲の気持ちと裏腹に、帝王様は、すこぶるご機嫌だった。
☆あれっ、俺ってラッキー?
タクシーに乗り込んだ三井は、半ば放心状態で、よくまあちゃんと、行く先を言えたもんだという様子だった。
運転手に不審がられていることにも気付かず、ただ、ぼんやりとシートに座っていたが、見慣れた町並みに、はっと我に返ったのは、校門が見える直前になってからだった。
湘北高校を見て安西先生の顔が、ふと目の前を横切り(これは、グレていたときの、後ろ暗い気持ちで暮らした2年間に培われた、半ば三井の条件反射と言ってもいいようなものになっている連想だった。)、目下の所直面する問題にようやく思い当たったのだった。
『安西先生にご迷惑をおかけする。』
冷や汗が吹きだし、蒼ざめてきている三井を見て、運転手は、気分が悪いのかと問いかける。
頼りなげに首を振りながら、チケットを渡し、タクシーを降りた三井は、とりあえず、補習のある教室へと向かった。
頭の中は、ただ、どうしよう、どうやって言い訳しようと、ひたすら思い描くのだが、こんな時に限ってうまい話の一つも浮かんでこないことで、内心パニック状態であった。
青い顔のまま、教室にはいると、後少しで講義が終わろうというところだった。
「何だ、三井、遅刻にも程があるぞ。」
教室の入り口で、立ちつくす三井に、説教をたれようと教師が近づいてきた。そこで、三井の普通ではない、顔色に気付き、声をかける。
「どうした、三井?顔色が悪いぞ。」
三井は、教師の言葉も耳に入らず、近づく姿にパニックが増大していた。
教師の説教など、普段なら聞き流すが、安西先生に迷惑をかけるというその一点に、三井の心配は集中していた。
「三井?」
『もうだめだ』
三井は、無意識に、しゃがみ込んでいた。
周りで、口々に三井に声をかけるものがいたが、反応のない様子に、教師は、保健室に連れていくよう指示を出したところで、この日の補習終了のチャイムが鳴った。
三井が、保健室のベッドの上で、我に返ったのは、三井と異なり進学講習を受けに来ていた赤木と木暮の二人が、様子を聞いて駆けつけてからだった。
「あれ?」
「三井?大丈夫か?気が付いた?」
木暮が心配そうにのぞき込んでいるのを見て、自分が、白い部屋のベッドに横たわっていることに気が付いた。一瞬、2年前の膝を痛めた時の病院を連想したが、周りを見渡して、ようやく普段自主休講の時にお世話になっている、保健室だと気が付いた。
「何で、俺・・・」
「無理しちゃだめだよ、三井。いくら、補習に毎日出るって約束したからって、気分が悪くて倒れるまで我慢するなんて、体によくないよ。これから、インターハイもあるんだし。無茶は禁物だからね。」
木暮が、諭すように話しかける。
「意地を張らずに、電話で休むと連絡すればいいんだ。まあ、おまえは、あまり信用がないから、お袋さんがする電話ってのが第1条件だがな。」
赤木が呆れたように、嫌みを含んだ小言を言う。
鈍い頭の三井にも、ようやく状況が呑み込めてきた。どうやら、気分が悪いのに無理をして出てきたと、勘違いされたらしい。この調子だと、お咎めは無しのようだ。パニックになって焦っていたのが、切羽詰まっていた様に見えたらしい。
『ラッキ〜。俺って演技派じゃん。』
内心やったと思いながら、とりあえずしおらしく見せておこうと話をつなぐ。
「一応、朝は、何でもなかったんだけどよ。電車の中で急に気分悪くなっちまって、途中の駅で休んでたんだわ。約束も気になったし、少し治まったから無理しねーでタクシー飛ばしたんだけどまた気分悪くなっちまったみたいだな。乗り物酔いかなー。いつも乗ってんのになあ。」
「きっと、体調が良くなかったんだよ。今日はゆっくり休んだ方がいいよ。」
木暮が、心配げな中にも、少し安心したように話す。
「今日は、部活も出なくていいぞ。安西先生にはちゃんと話しといてやる。」
赤木が、珍しく気を回したのか、配慮を示す。部活に出ないなんてとんでもないと、三井があわてて口を挟んだ。
「あっ、いや、少し休んで落ち着いたら、部活には出るよ。きっと、寝不足が祟ったんだと思うし、ちょっと寝れば大丈夫さ。もう大分気分もいいしな。インターハイ前の練習だし。ちょっとでもボールに触ってないとやっぱ不安だしさ。」
大丈夫だからと、二人を追いやって、三井は一眠りしようと大きくのびをした。
枕元に何かあるのに手が触れて、それを掴んで目の前に持ってくる。
それは、牧から手渡された、三井の手帳だった。無意識にもずっと持っていたらしい。
ぱらぱらと捲って、自分の字とは違う、几帳面そうな文字を目にして、手を止める
じっと人の目を見て話す様子を思い出して、近い内に連絡すると言う牧の言葉に思い当たる。
『牧か・・・。何だって俺を誘うんだ?敵チームの俺なんか誘ったって、何にも面白くは無いだろーに。変な奴。』
とりあえず、彼が口出ししてくれたお陰で、痴漢から逃げられたことに少しだけ感謝して、一度くらいは一緒に飯食ってやってもいいだろうと、三井は思った。
本来なら、助けられた三井の方が礼の一つもしなくてはいけない所だったのだが、あまりに下手に出られていたため、気が付かなかったのだった。
どうせ、そのうち忘れてお流れになるだろうとタカをくくって、三井は当面の課題、ゆっくり休養してから部活に行くことに専念すべく、手帳を閉じて枕元においた。
