28th. miracle 
02/05/18 up

  

  

「でもその前に理由を聞かせてもらおうか」

 降り注ぐというよりも突き刺さる夏の日射しの中突然現れて、開口一番出てきた希理子のその言葉

に桜井は面喰らった。

「これまでの決着をつける前に、ぜひともどうしてあたしが薄情者なのか聞いておかなくちゃ話にな

んないね。何しろ自分でいうのも何だけど、あたしほど情に厚い女はそういないと自負してるから

ね」

 どうやら希理子は『希理子の薄情者』と大声で叫んでいたことを根に持っているらしい。

「そ、それはだな……」

 調子にのって叫んでおきながら桜井は思わず逃げ腰になった。そりゃ言う気になればいくらでも不

平不満は出てくるのだが口が達者な希理子とさしでやりあって勝てる道理がない。

 そもそも希理子は陰口とかそういった本人を目の前にしないところでの悪口は大っきらいなのだ。

いつだって本人がいるまえではこけ降ろすくせに、その本人がいないところでは一切『負』の感情を

しめす言葉を口にしない。もちろん桜井はそんなことしないが、もしも希理子の前で他人の悪口を口

にしようものなら即座に『あんた、何様のつもりだい?!』と自分が口にした悪口の何倍ものこけお

ろしが飛んでくる。その怒濤の攻撃に耐え切った者を桜井はかつて一人も見たことがない。

 そのため内心びくびくして、これから自分はどうなるだろうと恐怖に震えていたのだが、希理子は

そんな桜井の様子に肩をすくめると、話を切り替えた。

「まあいいさ、あんたのたわごとにつき合ってる時間はあんまりない」

 どうやらお許しが出たらしい。そのことにほっとして大きな息をつくと、すかさず鋭い声がとん

だ。

「ただし、今度そんなことぬかしやがったら東京湾に沈めて魚のえさにしてやるからね、よく覚えて

おおき」

「は、はいっ」

 桜井は慌てて身を縮こませた。自分よりも一回りどころか二回り、三回り小さい希理子だが、その

迫力は遥かに自分のそれを上回っている。

 希理子はそんな桜井の様子を小さく笑うと夏の日射しに汗ばんだ肌に絡み付いてくる髪をかきあげ

ながら、本来の話に話を戻した。

「まず最初にこれ返すよ」

「?」

 唐突に突き出された茶封筒のそれを受け取ると桜井は封をしていなかったその中身を確認し、絶句

した。

「おい、これ」

「返すよ、受け取れないから」

 そう至極あっさりと言われたその中身はあれほど希理子が欲しがっていた現金、それもかなりの大

金だった。

「ホントはあんたが『あたし』を雇うのに支払った額、全額返したいんだけどさ、事務所とおしてる

から4割ちょいさっ引かれちまってるんだ。だからそれで勘弁しておくれ」

「ちょっと待てよ」

 その言葉に桜井は慌てた。

「お前は俺が期待した以上に俺の依頼を叶えてくれたんだ。ゆかりもちゃんと手術を受けてくれた

し、それに親父とも和解出来た。だからそれはお前のものだよ」

 だが希理子の手に押し付け返そうとした桜井にむかって希理子は首を横に振った。

「正直言うけど本気でそれは受け取れないんだ。あたしはプライドが高い女だからね、ちゃんと任務

を全う出来なかった仕事でカネ受け取るなんてそんな真似出来ないんだ、だって途中から『仕事』じ

ゃなくなっちまってたしね」

「えっ────」

 その言葉に驚いて目を見開くと希理子はほんの少し困ったような笑顔で笑った。

「あたしさ、本気でのめり込んじまったんだ。仕事だから、カネ貰ってるんだからやってるんだって

何回自分に言い聞かせてもついつい忘れちまってさ、仕事だって忘れてあんたやゆかりちゃんと接し

ちまってたんだ」

「希理子────」

 それは桜井にとって意外だが意外でない、嬉しい言葉だった。ほんの一月程の間のことだが、こう

して過ごした日々を『仕事だった』ということだけで認識して欲しくないと思っていたのだ。

「だから受け取れない、仕事じゃないから受け取れない。あんたの親父さんにもそう言ってカネ返し

てきた」

「父さんに?」

「うん」

 希理子は頷く。

「5日前病院いってあんたの親父さんに会ってきたんだ。ゆかりちゃんの手術も無事成功して回復に

向かってることも聞いてる」

「だったら────」

「わりぃ、ゴメン」

 どうしてもっと早く会いに来てくれなかったんだ────そう言おうとした桜井の言葉を希理子が

遮った。

「親父さんには黙っててくれるように口止めしておいたんだ。あんたに会う前に決着つけときたいこ

とがいろいろあったから」

「『決着』?!」

 その意味深な言葉を希理子はこのように説明した。

「まずね、これまで『PA』として知り合って関わった人たち全部に会いにいってきた。もう死んで

る人間もいくらかいたから本当に全員とはいいがたいけど、それでも会える人間には全員会いにいっ

てきた」

「どうして?」

 わけがわからない。どうしてそれが『決着』という言葉になるか意味がわからない。それに対して

希理子は小首をかしげながらこのように返答した。

「カネの為にだけに始めたことだったんだけどPAの仕事はさ、確かに『今のあたし』を形作ってく

れたんだってわかったからかな?」

「はい?!」

 そのあまりに抽象的な言葉はますます桜井を困惑させた。 しかし希理子もどう説明したらいいのか

わからないらしい。

「う〜ん、まあとにかく会いにいかなきゃと思ったから会いに行ったんだ。そうじゃないと『これか

ら』が始められないと思ったから会いにいった、ただそれだけ」

 まるで鬼の首でもとるかのようにきっぱりそう言い切るとそれ以上聞くなと希理子は目で桜井を威

嚇してきた。

 だがその混乱した希理子の様子から何となくだがその行動の意味が理解出来た桜井は次を促した。

「じゃあ『次』は?」

「えっ?」

「『まず』って話し始めたからには『次』があるんだろう?」

 実にあっけらかんとした桜井の言い様に希理子はわらった。

「ははっ、あんたもこの2年ですっかり可愛げがなくなったねぇ」

 言葉はキツいがそれは別に桜井を攻めるものではなくて、遠い昔を懐かしむ優しさと温かさにみち

たものだった。

「ああそうさ、でも『次』だけじゃなくて『続き』があるよ」

 そうしてひとしきり笑って笑いをおさめると、希理子は再び髪をかきあげながら話を続けた。

「とりあえず皆に会いにいって来たあとPA辞めて来た。んで親に頭さげまくってカネ借りた。おか

げであたしゃまだたった17の身空でウン百万の借金持ちだよ」

「えっ!ウン百万?!」

 希理子を雇う為にそれに近い金額を出しておきながら、希理子の口から出たその金額に桜井は心底

驚いた。カネがいるいるしょっちゅう言っていたけれど、PAの仕事でかなり稼いでいるはずなのに

どうしてそんなに大金が必要なのか理解出来なかったのだ。

 だがその当然の疑問に希理子はこんなふうに答えた。

「だってそれくらいは楽にいるだろ?アメリカにいって手術受けようとおもったらさ」

「えっ、手術?!」

 思ってもみなかったその答えに桜井は目を見開いた。

「うん、アメリカに渡って手術を受ける。そのためにこれまで必死になってカネためてきたんだ」

「え、でも手術ってなんの?!」

 手術と言っても千差万別だ。ゆかりの様に心臓など難しいものから、盲腸のように日帰り入院で済

んでしまうものまでいろいろある。ただアメリカに行かなければ受けられない手術なのだからそんな

簡単なものではないことだけはハッキリとわかるのだが。

「わかんないかい?」

 その桜井の疑問に希理子は小さく笑った。

「何回も言っただろ?『今のあたし』は偽者で、だから消えるんだって」

「────あっ────」

 その言葉を脳裏でくり返した時、一つの想像にたどり着いた。

「────もしかして」

「そうだよ」

 希理子は大きく頷いた。

「アメリカに渡って膝の手術を受ける。アメリカはスポーツ医学の最先端だからね、もしかしたらガ

ラクタになっちまったこの足も元通りとまではいかないだろうけど、自分でバスケが楽しめるくらい

にまで回復させられるかもしれない」

 そう言って希理子は自分の右膝を示唆してみせた。

 もう昔のことだし言ってもせんないことだということで詳しくは知らないけれど、希理子が中学の

時に膝を傷め、もう2度と満足に走ることが出来なくなったしまったのだ。

「それでか」

 桜井はそれでやっと納得した。

「父さんに頼んだのってそれだったんだな」

 桜井の父修一は大病院の医院長というだけでなく脳外科医として日本で屈指のエキスパートだ。ゆ

えに国内だけでなく海外にもカオがきく。

「そうだよ、親父さんに無理言ってあたしの足を直してくれそうな医者を紹介してくれるように頼ん

でいたんだ」

 その言葉でどうして父親が希理子からされた頼みごとを明かさなかったのか理解出来た。ただの依

頼の条件というだけでなく医師としての守秘義務が発生していたからなのだ。

「あたしはこれからアメリカに渡る。アメリカに渡って、手術を受ける。で、またバスケが出来るよ

うになるまでか、それとも完全に諦めるしかない、どうしようもない状態だってわかるまで日本に戻

るつもりはない」

「諦めるしかないって……」

 希理子らしからぬ弱気な言葉が桜井にはひっかかった。しかし心配になって覗き込んだ希理子の表

情には弱気な色は見当たらない。それどころか晴れ晴れとした表情をしていた。

「あたしはね昔諦めたんだ。諦めたというよりも投げ出したんだ。『もう2度と走れないでしょ

う』、『バスケは出来ないでしょう』っていう医者の言葉に疑いを持つことも足掻くこともしなく

て、ただ自暴自棄になってメチャクチャやってたんだ」

 現代の医学は発達している。カネだけがすべてではないのだが、結局のところカネさえあれば普通

なら治らない病気や怪我だってある程度回復することができる。白内障しかり近眼しかり整形しかり

だ。

 もし膝を壊したそのとき自分がすでにある程度実績を積んだプロ選手であったのなら金に糸目をつ

けずそのような治療法を試したかもしれない。

 しかしそのときの希理子は都内の高校からスカウトのオファーは来ていたが全国的にはまだまだ無

名の選手だった。当然希理子を担当した医師も『誰か』であった人間にたいしては違う対応をしただ

ろうが、『誰か』でなかった希理子に対して投げかけた言葉は諦めを促すそれだけだった。

 そして希理子自身がまだ『誰か』でない自分の為に治るかどうかもわからない自分の為に、それが

将来役にたつかわからない自分の膝の為にいくら掛かるかわからない大金と投資してくれとは両親に

言い出せなかったのだ。

「だけどPAをやって、いろんな人に会って、そのうちにそれじゃダメだ、どうしてあの時足掻かな

かったんだ、泣きわめいて叫んで暴れまくって、どうしてもう2度とバスケが出来ない確率を完全に

『0』だと確認するまで足掻かなかったんだってすっごい後悔するようになったんだ」

 それが希理子のなかに大きなしこりを残した。そのときはそれが大人だという冷静ぶった、格好つ

けた判断を下したそのことが希理子のなかに大きなしこりを残した。

「希理子…………」

 その言葉は人に自分の弱味をみせることを極端に嫌う希理子からの衝撃の告白だった。

「でもある人に────それこそ一秒ごとに生きる為に闘って、生きる為に足掻き続けていた人に出

会ったんだ。そしたら簡単に諦めた自分が情けなくなって、その人と同じになりたい、その人みたい

に生きてみたいって思うようになったんだ」

 嘉幸は一秒一秒を愛おしんで生きていた。命がはかないことを知り尽くしていたからこそ懸命に生

きていた。後悔するヒマなんて彼にはないことがわかっていたから、後悔することない人生を歩む努

力を常にし続けていたのだ。

「希理子はその人を愛していたんだね」

 桜井からのその問いかけでない、確認の言葉にこくりと頷いた。

「今になって思えばあたしと嘉幸の間にあったのは男女の愛情というよりも、互いの違いに対する人

間の尊愛だったってわかるよ。でもそれでも愛してることには変わりがない。あいつが生き返るって

言うんなら、悪魔に魂を売ったって────たとえ自分が死んだってかまわない、その気持ちには変

わりがない」

 ゆるぎない言葉だった。

 桜井はその言葉にゆっくり頷いた。もちろん希理子が愛したという────いまでも愛してるとい

うその相手に対して嫉妬の心を抱かないわけではないのだが、それを超越した次元でおそらく傷付

き、不安だった希理子を癒してくれたのであろうその人に対する感謝の気持ちが溢れていたのだ。

「じゃあ何時日本に戻ってくるんだ?」

 希理子の過去について知りたい気持ちはあった。しかし希理子の言葉が過去形である以上それ以上

聞くべきでも、知る必要もないことだと漠然と悟っていた。

「わからない」

 桜井からの問いかけに希理子は簡潔に答えた。

「おそらく一回や二回の手術じゃ走れるようにはならないらしいし、それに対する専門のリハビリも

必要らしいんだ。だから当分の間────もしかしたら一生こっちには帰ってこないかもしれない」

「そんな────」

 しばしの別れならともかく一生という言葉に桜井は愕然とした。

「あたしはあたしを変えたいんだ。ゆかりちゃんの病気じゃないけど、自分の膝が悪いことを言い訳

にして逃げ続けてるのはもういやなんだ。だから自分自身で納得がいく答えを手に入れるまで日本に

戻ってくるつもりはない」

 希理子の決意は固かった。重ねあわされた瞳の透明さに、その心にゆるぎがないことを桜井は知っ

た。

「じゃあ向こうついたら連絡先教えてくれよ。手紙かくし電話もするからさ」

 それが桜井にとって精一杯の妥協だった。もう少しオトナならともかく、10代の少年にとって会

えないということはかなりキツいものだ。せめて声ぐらい聞きたいと思っても当然だった。それに希

理子が日本に帰ってこないにしても自分から会いにいけばいいのだとそう考えたのだ。

 だがその言葉に希理子は首を横に振った。

「教えない。あたしは誰にも自分の行き先を教えるつもりはない。なりたい自分になれるまで、一生

誰ともコンタクトをとるつもりはない」

 あんたの親父さんにもあたしの居場所を教えないように口止めしてあるから、と希理子は付け足し

て小さく笑った。

「そんな!」

 桜井は焦った。

「じゃあもう会えないのか?!」

 だがその言葉に希理子はまた笑った。

「さてね」

 そう悪戯めいた、いつもの希理子らしい表情を浮かべながら返答すると、続いてニヤリと笑ってこ

んな風に言葉を付け足した。

「あたしたちが出会うべき運命ならいつかは『道』も重なるだろ。あんたはそんなに背高のっぽだ

し、あたしにはこんなにハッキリ目印がついちまったしね」

 そう言ってしめした希理子の右頬には大きな赤い傷跡が刻み込まれていた。ゆかりの背中を後押し

する為にガラス片で自分の頬を切り裂いたキズが痕になって残ってしまったのだ。その傷跡は顔全体

が秀麗で美しいがゆえにより無惨に人の目には映った。

 その痛々しさに桜井は思わずカオをしかめたが、希理子はそんな桜井の様子を笑うと平然とからか

うようにこう言った。

「ま、いつかあんたが優秀な外科医になったら切り刻んでもらってこの痕も消してもらうさ。じゃな

いとこの美貌が損なわれたままじゃ、世界にとって多大な損失だからね」

「ああ、約束する」

 桜井は頷いた。

「いつか綺麗にその傷跡を消せるような優秀な外科医になってみせるよ」

 その桜井からの言葉に希理子は満足そうに頷いた。


「じゃああたしもう行くね。急がないと飛行機に乗り遅れちまう」

 そう言うなりいきなりくるりと背を見せたその姿に桜井は一瞬唖然としたが、希理子の発したその

言葉の意味をのみ込むと慌ててその背中に追い縋った。

「おいっ、まさか今から発つのか?!」

「善は急げっていうだろう?」

「おいおい」

 あまりにあっさりと返されたその返答に桜井は思わず突っ込みをいれたくなった。

「せめて皆にも会ってから────」

 それにしてもあまりにいきなりすぎる。希理子の決意を変えられないことはすでに悟っているの

で、せめてそれだけでもと思って主張したのだが、その言葉は即座に却下された。

「会わない」

 希理子は歩んでいた足をぴたりととめ、他言無用とばかりに言い下した。

「このカオ見せたらみんなビビって心配するだろう?あたしが好きで勝手にやったのにゆかりちゃん

を責めるバカが出るかもしれない。そんなの絶対ゴメンだからね」

「でも───」

 確かにそのとおりで、その言葉の正当性を認めざるを得ないが、それではあまりに切ないように思

う。

 だがそんな感傷を振り切るかのように希理子は桜井に背を向けたままこんな風に言い放った。

「皆に言っといておくれ、あたしはいつだって元気だから、どこに行ったってあたしはあたしのまま

で生きていくから心配するなって───じゃっ」

 希理子らしい、希理子らしすぎる簡潔な別れだった。だけど軽く手をあげて再び歩き出したその背

中とその別れの言葉が微かにゆれていることを桜井は見逃さなかった。

 だから再び叫んだ。

「待てよ」

 とっさに駆け寄りその細い二の腕を掴んだ。

「もう一度顔をみせてくれないか?」

「────」

 返事はない。

「希理子」

 もう一度よびかけた。すると小さな細い肩のした、微かにこもった声がした。

「………………」

 何と言ったか聞き取れなかった。

「希理子」

 だからもう一度呼び掛けた。その瞬間に自分の右頬の上がカッと熱くなったのを桜井は感じた。そ

れが殴られた為の痛みだと感じるのに桜井はかなりの時間を要した。

 だがその前に、そんな痛みの原因よりも先にもっと衝撃的な光景が桜井を襲っていた。

「バカヤロウ!!」

 振り返った希理子はたった今桜井をしたたかにうちつけた右手の手首を押さえながら、桜井を睨み

付けていた。

「何度もあたしの名前を気安く呼ぶんじゃないよ!!犬っころじゃないんだし、そうそうほいほい返

事ができるか!!」

 荒い口調に理不尽な言い方────わがままで傍若無人で横暴な、暴君そのもののその有り様。だ

けど、だけれども、そう叫んだ希理子の頬には幾筋もの涙が溢れていた。別れが悲しいのだとその涙

の透明さが訴えていた。

「希理子────」

 桜井は思わず希理子を抱き寄せていた。そして何時の日かそうしてしまった時と同様にその可憐な

唇に自分のそれを重ねあわせてしまっていた。

 それは時間にすればほんの数秒のこと────まさにほんの一瞬の刹那の出来事。しかしそれは永

遠のように桜井には感じられた、永遠の夢のように桜井には感じられた。

「────バカヤロウ」

 またまた自分のしでかしてしまったことに呆然としている桜井に向かって希理子はわざと厳めしい

表情を作って叱りつけた。

「相手の同意も得ないで襲うなんざ行為のレベルは違ってもそれはレイプと一緒だよ」

「ああ、わかってる。すまん────って、イテッ!」

 謝ろうと頭を下げた瞬間に希理子がデコピンを喰らわせたのだ。

「いい気味!」

 希理子は高らかに笑うと再び歩き始めた。

「希理子」

 もう呼び掛けても振り返らないし、その歩みも止まらない。

「希理子」

 自分から遠ざかっていくその背中がやけに霞んで見え、桜井はそれでやっと自分も泣き出してしま

っているのに気がついた。

「希理子」

 万感の想いを込めてその名を呼んだ。

「ありがとう────」

 扉が閉じられ、視界から消え去るその寸前、希理子の手が小さくかかげられた。なんでもない、こ

っちこそありがとう────その手は確かにそう言っていた。

 そしてそれが桜井が『17歳の希理子』を見た最後の姿だった。




「桜井先生、そろそろ試合が始まりますよ!」

「わかりました」

 そう頷いて、桜井は控え室となっていた別室のソファーから立ち上がった。

 今、桜井は代々木の第一体育館の中の一室にいる。今日はバスケの本場アメリカからNBAのサン

ズとブルズが来日し、そのエキシビジョンマッチが行われることになっていた。桜井はその控えの医

師としてこの会場を訪れていたのだ。

 あの高校最後の夏、インターハイで惜しくも金北に敗れてから10年の月日が経過していた。

 桜井は高校を卒業と同時に医大に進学し、2年間のインターン期間も終えてまだまだ駆け出しだが

無事に医師として認められるようになった。専門は外科で、中でも1、2を争う程難しいと言われて

いる心臓外科の道を選んでいた。

 だがその片手間にスポーツ医学にも造詣を深めていた。希理子や今川といったバスケを通じて知り

合い、自分の目指す道を怪我の為に諦めるしかなくなった人の為に役に立てたらと努力を重ねてきた

のだ。

 もともとインターハイにも出場し、それに大学に進んでも勉強の傍らインカレにも出場した実績を

かわれ、大学の恩師である教授に1日だけのことだからとぜひにとこの仕事を押し付けられ、桜井は

この場にいるのだ。

 もちろん根っからのバスケ好きで、突き指を恐れて最近ではボールに触れることこそ滅多になくな

ったが、それでも試合を見るのは大好きな桜井だからこの依頼は嬉しいものであったのだが、いかん

せんあまりに忙しすぎる桜井は最初この依頼を何としても断ろうとしていた。

 しかしふとした拍子に何故だか急に気晴らしになるかもしれないと考え直し、忙しい合間をぬって

無理矢理時間の調整をつけてこの場に駆け付けたのだ。

 今日は桜井の他にもう1人、自称バスケ好きという同じ教授の授業を受けてはいたが直接顔をあわ

せたことはない自分よりも3つ年上の整形外科医も居合わせていた。

 基本的にそれぞれのチームにチームドクターが同行しているのだから自分達の存在は必要無いのだ

が、もしも大事故に発展した時にやはり病院に搬送する際には日本人医師が同行していないと困るこ

とがあるかもしれないということで、この試合を企画した後援主が2人を呼び寄せたのだ。

 だからまあ基本的には仕事などないといっても過言ではなくて、今日の合方になるその人物は試合

への興奮に沸き立っている。

「そうだ、知ってますか?桜井先生。ブルズのメンタルドクターの中にはね、なんと日本人の女性が

含まれてるそうですよ。何でももの凄い女だそうで、あの泣く子も黙るブルズの面々がその女の前で

は借りてきたネコみたいに大人しくなるとか」

「へぇ」

 シカゴ・ブルズはNBAの中でも特に大型重量級のプレイヤーが多いチームだ。それを黙らせてし

まうとはかなりのつわものなのだろう。

「何でも噂では顔にとても見られないくらいでっかい傷跡があるそうで、その女に出会ったら夜な夜

なその女の悪夢を見るんだとか。絶対そりゃ不細工な馬鹿デカい女に決まってますよね」

「ハハッ」

 その言葉にとりあえず桜井は笑うしかない。事実がどうなのか知らないのだから言うべき言葉が見

つからないし、とりあえず今日一日はつき合うことになるんだから機嫌よくさせておこうと思ったの

だ。

 だがそんな桜井たちの元に何処からかこんな言葉が聞こえて来た。

「そりゃ悪かったね!」

「??」

 突然聞こえて来たその言葉に桜井とその整形外科医は顔を見合わせて辺りを探ったがもうすぐ試合

ということで今歩いている廊下は人の行き来が激しくなっているが、周囲には誰もそれらしい人物は

いなかった。

 だがそんなことをしている内に試合がはじまり、桜井はコート横のモニター室で試合の経過を見守

っていた。

 こうやってコートの間近でボールがダムダム鳴っている音を聞くと何時だって心は高校時代に戻っ

てしまう。

 まだ子供だった自分は周囲のことが何も見えてはいなかった。だけど希理子との出会いがきっかけ

で、希理子と過ごしたあの夏がきっかけで自分がどれだけ大切なものを見落としていたか知った。

 希理子と別れた夏のあの日以来、希理子の宣言どおり桜井は希理子と連絡をとってはいない。何を

しているかはもちろんのこと、今どこにいるのかも知らない。

 会いたい気持ちはもちろん合って、そのせつなさのあまり父親にその行方を問いただそうと何度も

思いつめたのだが、それでもそれを諦めたのはやはり希理子のせいだった。

 希理子はなりたい自分になるまで会わないと言った。出会うことが運命なら必ずもう一度会うだろ

うとそう言った。なら自分もなりたい自分に────希理子の横に並んで恥ずかしくない自分になる

ために努力を続けることこそ肝心だと我慢し続けたのだ。

 あれから過ぎた10年の歳月の間に桜井はいろいろな人々と出会った。希理子へ寄せた想い程では

ないが、それなりの恋も経験した。だけどそれは所詮欠けた部分を無理矢理満たそうとするものでし

かなくて、余計に空しさがたちこめただけだった。

 だから今でも会いたいとそう思う。もしかしたらもうすでに希理子は誰かと結ばれ幸せになってい

るかもしれないが、それでももう一度会い感謝の気持ちを伝えたいと思っている。それに今ならもっ

と優しい気持ちで希理子と向き合えるように思えるのだ。

 そんなことを思っているうちにゲームは終わった。序盤こそサンズ優勢でゲームを進めたが、最終

的にはブルズの圧勝に終わっていた。

 このゲームの模様は夜中にだがダイジェストで全国放送され、また衛生放送によって全世界にその

模様が中継されていたこともあって、アナウンサーが今日の勝因を本日一番のMVPに質問してい

た。

『では最後に日本のファンに向けてメッセージをおねがいします』

 在り来たりなその質問で万事何ごともなく無事に終わるはずだった。

 しかしその質問にむんずといきなりマイクを奪い取るとその選手は超満員の会場のNBAファンに

向かってこんな言葉を投げかけた。

『みんなに頼みがある。ウチのチームには勝利の女神がついててくれたんだけどさ、何を考えたかそ

のあばずれもう28にもなるくせしてブルズを辞めてWNBAのプレイヤーになるんだってニューヨ

ークリバティーとの契約を決めてきやがったんだ!そんなのどうせすぐに引退しなきゃなくなるに決

まってるんだし、それだったらずっと一生俺達のチーム専属のメンタルサポートしてて欲しいんだ

よ。そいつはこの日本出身の女だからさ、きっと皆が説得してくれたら考え直してくれると思うんだ

よ』

 だがその言葉が終わるやいなや凄まじい罵声がとんでいった。

『何ぬかしてやがんだいこのすっとこどっこい!いつまでもガタガタぬかしてるとママに言い付けて

お仕置きしてもらうよ!』

『だけど…』

『うるさい!あたしの人生はあたしがきめる!あたしがいなきゃ勝てない気持ちもわかるけど、デカ

い図体したイイ歳こいた男が情けないこと言ってるんじゃないよ!』

 かなりスラングが強いその声がブルズサイドの客席からコートに向かって叩き付けられている。

 ハッキリ言ってこれは尋常ではない。超満員の観客が入っている体育館の中で、しかも突然何を言

い出したのかとざわめきが立ち篭めているその中でマイクで話している相手に向かって肉声で返して

いるのだ。その声量も迫力も並み大抵のものではない。だがそんなことよりももっと衝撃的なことが

桜井を襲っていた。

「────!」

 その体育館中に響き渡る声に聞き覚えが合った。思えば先程廊下で自分達に向かって発せられてい

たその声もこの今響いている声とまったく同じ人物が発したのであろうものだった。

 桜井は慌ててモニター室を飛び出し、その音源を求めて視線をこらした。自分の想像に間違いがな

ければその人としか考えられない。

 案の定、突然コート上と観客席で始まったそのやり取りに、その当事者の片割れに視線が集中して

いる。その集約点を視線で追うと、そこにはとてもあれほどの音量を発したとは到底思えない細みの

女性が堂々と立っていた。

 長くつややかな漆黒の髪、白く透き通る肌、まぶしいまでに美しいその相貌には同時に目を背けた

くなる程無惨な傷跡が刻まれていた。

『だけどよぉ、キリコ』

『うるさい!!あたしを本気で怒らせたいのかい?!』

 もうすでに遠い昔の記憶となってしまっていたその人はますます美しく、ますます堂々と、ますま

す傍若無人にますますその人らしく変化していた。

「希理子!!」

 桜井は思わず叫び駆け出していた。突然の闖入者に唖然とし立ち尽くす選手達をかき分けて、ただ

一目散に希理子の方へと駆け出していった。

 その桜井の行動に最初何ごとかと目を見開いていた希理子だったが、その白衣を着て一目散に自分

の方へ駆け寄ってくるその存在が桜井だとわかると、希理子も慌てて桜井の方へと駆け出した。

「受け止めな!」

 民家にして2階の屋根の上から飛び下りるのと同じ程の高さがある観客席から希理子は飛び下り

た。

「!!」

 慌てて桜井は受け止めるが、いくら希理子が痩せていて桜井が頑丈でもさすがにそれは無理があっ

た。

「いてて」

 受け止めた反応で桜井はしたたかに腰を打ち付けかなりの激痛に襲われた。

「ハハハッ」

 自分のそのとっぴょうしもない行動のせいだというのに、希理子は相変わらずの意地悪さで桜井の

痛がっている様子を喜んでいる。

「『道』は重なった?」

 自分に馬乗りになったまま希理子が囁いたその言葉に桜井は一瞬痛みも忘れて目をしばたかせた。

 そしてその意味が脳裏で弾けた瞬間、どうしようもない衝動が爆発して希理子を無理矢理自分の方

へと引き寄せた。

「多分ね」

 それだけ囁いてその唇に昔した様に己のそれを重ねあわせた。しっとりとしたその優しい感触は昔

のままで、その懐かしさに桜井はこれ以上ない幸福を感じたが、その幸せな瞬間は長くは続かなかっ

た。

「痛ッ」

 希理子が想いっきり桜井のみぞおちに一撃を喰らわせていたのだ。

「前に言っただろ?『相手の同意も得ないでキスするのなんざ、レベルは違ってもそれはレイプと一

緒のことだ』ってね」

 言葉と態度はキツいが顔は笑っている。それが拒絶でないことを知っている桜井はすました顔で言

い放った。

「いいんだよ」

「んっ?」

 疑問符を浮かべた希理子に向かって桜井は笑う。

「だってしてくれるんだろう?『同意』」

 その言葉に希理子は笑った。10年前よりも鮮やかな笑顔で希理子は笑った。

 
 

  

 再び重なり始めた『道』───生きていくということは誰かと出会い歩むこと。重なりあい、時に

は反発しあって、それでも分かりあい、信じあうことこそが生きていくすべて。

 Cross oneself───それは祈りの言葉、神に捧げる信仰の成句。

 Cross oneself───それは自分自身への祈りの言葉。自分を信じ、自分を貫いて生きていく為の

誓いの言葉。

 その歩みの中で出会った『誰か』と重なりあった未来に何があるのか、その行き着く先に何がある

のかなど誰にも分からないけれど、それでも精一杯『大好きな自分』でいれば後悔することなど何も

ない。

 Cross oneself───それは誓いの言葉、弱い心を奮い立たせる為の誓いの言葉。

 再び口付けをしあいながら桜井はこの幸福を手放さぬ為に努力をすることを己に誓った。

 10年の歳月はおそらく意識はしていなくても互いを変えているだろう。そのことが2人の関係に

どんな作用をもたらすのかまだわからないけれど、できる限り希理子にとって優しいものになりたい

と己自身に誓っていた。希理子にとって自分が最高の道連れであるために───。
 
  

 

 夏の光は再び輝き始めていた。あの夏よりもさらなる輝きを増して。

                                 

                               THE END

    
後書きもそくは超蛇足へ

    

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