リレーエッセイ

過去帳 (伊藤孝)

 星野君からご指名頂き照れている。
1947年10月10日、秩父で小さな自転車屋の長男坊として生まれる。
ハイハイしたまま上がりがまちから転落を繰り返す。ガラスの上も。その時の裂傷の後が左膝に今もある。1953年に小学校入学。敗戦直後の混乱期と食糧不足の時期、貧困ながら大事に育てられた記憶あり。

 小学校1年生の時親が呼び出しを食う。これは今でも鮮明に覚えている。稲作の順番を問うテストの時、「先生、テストの答えが後ろに張ってあるよ」と掲示物を指す。先生「見たければ見れば」。私はわざと後ろを向いて答えを書く。母親が呼び出されたのはその翌日。2・3年生時の記憶無し。
 4年生、男子全員で集団脱走。悪大将がいてみんなで一人の子をいじめていた。ある月曜日、学校にその子の親が涙ながらに先生と話しているのを目撃し、一致団結朝から山へ逃げ込む。無人の寺の境内でチャンバラごっこをしているとさすが先生、「お〜い、戻ってこいよう〜」。半分脱落、一山二山越えて、夕方教室に戻ると机の中にコッペパンと牛乳が入っていた……。

 5・6年時、毎日廊下へ出される。廊下ではビー玉などをしたり、家庭科室まで行って「南洋のラバさん」(ラバ…恋人。「私のラバさん、酋長の娘…♪♪…」)を歌ったり踊ったり。ボンゴよろしく金たらいをたたいてリズムを取って…。ある時、業を煮やした先生、「おまえたち、校庭の真ん中に立ってろ!」。隅から歩数をはかり、「ど真ん中」に円を書き、そこに座って悦に入っていた。この先生、間違っていたのは、複数で廊下に出した事である。一人で立ってた時はやはり恥ずかしかった。

 学年は覚えていないが、家の前で事故があった。警官が母に横柄な態度ではかる物を貸せと言った。竹製のクジラ尺を差し出すと「こんな物ではかれるか!」と突っ返してきた。それを黙って押し頂く母を見て警官に食ってかかった。母は止めたがなお食ってかかった記憶がある。
 中一、バスケ部で顧問とユニホームの事で喧嘩し、退部。かわい子ちゃんの多いバレー部か陸上部かと迷ったが、陸上部へ。2年、砲丸投げで県体へ。3年走り高跳びで県体へ。五百円札をラブレターに入れて、映画館の前で待ちぼうけも。
 3年の夏休み、進学のための補習授業。能力別編成。トップの組。アイスをなめながらわざと遅刻。教室は木製の床、一番後ろの席に数人で陣取り、授業中かかとをあげゆっくり膝を上下させる。徐々に強く……。黒板に直角にのびる床にうねりが起きる。一生懸命勉強している奴らが「地震だ!」と騒ぐ。補習授業中何度も試みたと思うが怒られた記憶はない。
 
 面識はないが、不思議と魅力を感じる「高田剛」君、次回お願いします。 


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