子どもを育てながら働く

第23回 『霞家ができるまで』
 成元年3月にめでたく結婚したので、なんと今年で10周年を迎える運びとなりました。今回は特別企画として「激白、霞家ができるまで」をお送りいたします。

 い起こせば16年前、県立高校の水泳部の顧問が替わったところから物語がスタートします。新しい水泳部の顧問は大学卒業したての平野和弘氏でした。そう、酔水会の現会長です。(そのころからのおつきあいで、私も酔水会に存在させていただいています)それまでは、決して真面目とはいえない水泳部員でしたが、平野氏の熱心なご指導のおかげで、すっかり改心し、リレーで関東大会出場という快挙まで成し遂げたのでした。そして、大学に入っても水泳を続けていこうと決心し、平野氏の母校の大学に入学すべく、受験勉強に励みました。しかし、見事に不合格となり、近隣の短大に進学することになりました。その短大にはプールも水泳部も存在しないため、水泳とは無縁だと思っていました。ところが、別の学科の2年先輩で大学の水泳部に頼み込んで入部した人がいたことと、平野氏の教え子というコネで、私も水泳部に入部することができたのでした。

 ろいろなことがありましたが、充実した水泳部生活を送ることができました。水泳部とはいえ、年頃の男女の集う団体、部内カップルも多数存在していました。(そのまま、結婚までいったカップルも多し)もちろん、私も例外ではなく、現在の夫に目をつけていました。そのころは手編みのセーターをプレゼントしてというのが定説だったようで、私も先輩(女)に勧められ、セーターの編み方の本まで貸してもらい、セーターの制作に励んでいました。完成したセーターをプレゼントして、無事にげっと成功し、つきあいが始まりました。(でも、平野氏のほうが私よりもつきあいが長い・・・)貧しい学生だっため、デートもドライブがメイン、高速料金がもったいなかったので、首都圏近郊の一般国道や県道をひたすら走って景色を楽しむというものでした。1日に400kmくらい走るので、帰宅するとくらくらと周りが揺れるほどです。ドライブ例としては、水泳部のお得意の秩父地方、房総半島一周、国道16号一周の旅(どれも日帰り)などなど、今思うとめまいが起きます。

 きあいは続き、会社の独身寮に入っていた夫が年齢制限で退寮間近になったのを機に結婚をすることになりました。私も夫も同じ年に就職したので、入社して2年目の終わりで、2人とも貧乏でした。婚約指輪や結納もパス、結婚指輪も福田君が写真家としての一歩を踏み出す前まで勤めていた宝石店でノーブランドのお安いものを買いました(買った時にはもうやめて北海道に行っていた)。テレビや冷蔵庫などの家電品も夫が寮で使っていた、それも人からもらったお古の品ばかりでした。結婚式の費用も親に出してもらったこともあり、夫の郷里の岩手で挙式・披露宴を執り行いました。仲人は大学水泳部の顧問の森川先生(酔水会会員)で、もちろん、平野会長にご挨拶いただきました。(酔水会の会員の中にもいるご出席してくださった方々、遠いところ、本当にありがとうございました)新婚旅行も貧乏だったので、盛岡から特急列車を乗り継ぎ、そのまま北海道に行きました。外でおいしいものを食べたかったので、ホテルも素泊まりの超格安旅行(宿と交通費で2人で15万円くらい)、旅行代理店の人も新婚旅行と知ったときには驚いていました。おいしいものを食べようと意気込んだものの、途中で食中毒に倒れ、絶食状態になったり、今年は流氷がこないという悲しい年にあたったり・・・と、思い出深い旅行でした。最終日メゾネットのスイートに泊まりましたが、値段はツイン料金(通常7万円のところ、1万4000円くらいだった)、旅行代理店の人のサービスだったのでしょうが、うれしかったです(当時住んでいた家よりも広かった)。帰りは当時運行が始まったばかりの北斗星に乗ってきてしまったので、夫は飛行機に乗るチャンスを逸してしましました。(結婚5年後くらいに後にも先にも1回だけ、出張で乗った)いろいろなことがあった新婚旅行が終わり、私の職場の近くで新生活がスタートしたのでした。(いろいろと話し合い、子どもが生まれても私が仕事を続けていくことで話がまとまった結果です)

 うして、霞家がスタートしたわけですが、霞家ができたのは、平野氏のおかげといっても過言ではありません。ここで、深くお礼申し上げます。人生や縁というのは不思議なものです。もし、私が高校で水泳部に入らなかったら、別の高校に行っていたら・・・なとなど、考えれば考えるほど、不思議を感じます。みなさんも、縁を大切にしてくださいね。   それでは、また。


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