酔水日記1999年10月

−教師という仕事−

 確か今から20年前、私が通った予備校の古文の講師が言ったことだった。日本人には言霊信仰があるという。ひとたび、口にしたことを大事に守り続けることだったように記憶している。その当時は「ふ〜ん」と何気なく聞いていたのだけれど、年を取るほどにこの言葉が意外に重くのしかかってくる。
 私は教師を職業にしている。つまり、人に何か教えながらそれを飯の種にしているわけで、よく考えるととても社会的責任が重い職業でもあるし、考えようによってはとても傲慢な職業でもある。自分が正しいと思ったことをのたまわっていればそれが正義になってしまうのである。

 ということがイヤで私は教師になりながらも、教師から一番離れたところにいるように頑張っていたつもりでもあるし、そうでもなかったら今まで、グータラな私が教師なんて言う職業を続けているはずもなかったのである。でもこの論は私の妻でもある酔水会事務局長には理解しがたいらしく、常に「先生みたいな言い方しないで」ととがめられるのでもある。
教師になったきっかけというのもとてもお気楽なもので、教育に命を懸けてなんて言うところから一番遠いところからの出発だったので、私はいつも周りの人に教師なんていつ辞めたってかまわないからね・・・という態度をとり続けていたし、明言もしていた。

 しかし9月上旬、修学旅行先で私はとんでもないことを言ってしまったのである。
 現在担任をしている浦和商業定時制の4年生の修学旅行先は沖縄だった。きちんと平和を考え、沖縄文化(沖縄の青年たちと彼らが愛してやまないエイサーと呼ばれる沖縄の踊り)と交わる事を柱にたてた、いたって真面目な修学旅行だった。不覚にも私はその旅行で、生徒に感動してしまった。何でこんなに平和を真剣に考えてくれるのか、沖縄の文化にきちんと向かってくれるのか、今の一般的な若者の姿から考えると想像もつかないほど私のクラスのみんなは真剣だった。糸数ガマと言う沖縄の人々が沖縄戦当時、戦火を逃れるために隠れていた鍾乳洞の中で、54年前の沖縄の人と時を越えて同じ体験しようと、持ちこんだ懐中電灯を消し、右も左も前も後も分からなくなる真っ暗闇の中に身を置いた時に、私は涙してしまった。私の生徒たちの真摯な態度とともに、平和だと勘違いしている今の時代にきちんと向き合う必要を感じながら私は口走った。「教師を続ける」と。続けて「平和を教える教師になるんだ」と。

 前回「いい人になろう」と書いたが、そこまでは良かった。「いい人」になろうとして、なれなくたって、それは個人の受け取り方の違い、あとで言い訳なんてどうとでも出来る。なんて開き直れたものを、「教師を続ける」は痛かった。やめたらうそつきになってしまうし、うそつきはえんま様に舌を抜かれてしまうのである。
 きつくなってしまったのである。いつでも教師を辞めるといいながら私は自分のスタンスを保ってきた。逃げ道を用意しながら、真剣に物事に向かうことが出来ていたのに、自分で退路を断って、断崖絶壁で教育という仕事に携わることに自ら決めてしまったら、教師を嫌悪していた私が嫌悪の対象になってしまったのである。これは困った。一歩踏み出す方向を間違ったら、後戻りできないところに立っている。それを自覚してしまったのであり、それを口にしてしまったのである。
 これは苦しい。私の流儀に合わない。だから、生徒には内緒だけれど、ここだけの話として、私は逃げ道をつくることにした。

 「教師を続けるけど、絶対にいい教師にはならないぞ、自分を大切にする教師になってやるからな。それが世の中の平和につながるんだから」ってね。


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