エス佐藤について2017

37歳(と2ヶ月ちょっと)になりました。




今年の3月まで、大学生をやっていました。

卒業して、管理栄養士の資格を取りました。



だから何?



ここでは、4年間で思ったことと文句を書ける範囲で書いてみます。

改めて書くこともあれば、初めて書くこともあるかと思います。


なるべく個人や組織が特定されないような、一般論的な口調の文句にするつもりです。

これをたまたま読んだ人が、俺が誰だか(わかる人は)特定できるとは思うけど、
それは別に気にしません。

このサイトはエス佐藤が思ったことを書くサイトです。

一方的な決め付けとかもあるけど、別に気にしません。


だから何?




栄養士の資格を取りましたが、
栄養士の資格が必要とされる仕事はしていません。

「食」に関わる仕事はしています。今はそれで十分です。


ここで、2012年夏に言っていたことの答え合わせ。


   エス佐藤について2012夏【号外】より再掲:
で、首尾よく大学に入れたら、その後はどうしようか?
■大学に残って、アカデミックな方向に進むか?栄養「学」を極めるか?
■栄養士として、新潟のジジババにメシを作る係を担うか?
■はたまた、どっかの食品を扱う企業に入れてもらうか?

大学を出た今、思うこと。


栄養系の学科を出て栄養士の資格を取っても、
栄養学を究めるためのスタートラインには立てなかった、って思いがある。

栄養「学」を究めようとするなら、結局、医療の世界にダイブするしかないってこと。

世間では、栄養面の話題について解説するのは「医師」なんだよね。
「栄養士」ではなく。

(例:1ヶ月断食した芸能人について解説していたのは皆『医師』だった)

「栄養士」って「栄養」って名前がついてるけど、
「栄養学をやる人」っていう定義ではないんだな、と思った。
少なくともここ日本では。


なんだろう。栄養士って。


ほんのちょっとだけ現場で実習した感想を言えば、
(日本における)栄養士って、
「メシ作り係のおばちゃん」くらいの意味合いしかないんじゃね?と思った。

結局、調理師と変わらないのだ。

献立を作る人=料理を作る人、って認識しかされてないから、
調理師と栄養士って結局同じもの、って扱いをされてると思う。

もっと極端に言うと、
「料理作るくらいしか能がない人」っていう扱いだと思う。

いまだに日本では
「家事は無償労働である」
「料理は家事である」
「よって、料理なんぞは無償労働であり、そんなものに価値はない」

っていう三段論法が成り立ってしまっていって、

「よって、栄養士なんてものに価値はない」

っていう論も成立してると思うんだ。

ほんとに思うんだ。現場を見たからそう思うんだ。

特に家庭では「家事=無償労働」っていう意識、根強いよね。

社会や家庭において、最下層に女性はおり、
家事(炊事・掃除・洗濯)は最下位の雑魚である女性が集まってやるものだ、
っていう社会通念、未だにあるよね。


   2014年3月19日(水)のツイートより再掲:
違和感のあるCMだなぁ…
「(毎朝)ご飯があって、味噌汁があって、(中略)玉子焼きがある」って。
「あって」って何様?誰が作ってると思ってんの?
この「朝ご飯が自動的に出てくる感」がすげー腹立たしい

だから極端に言うと、
「無償労働しかできないメシ作り係のおばちゃん」
なんだ。日本における栄養士って。


要するに、栄養士ってバカにされてるんだなぁ、と思った。

病院では医師や看護師さんに。
役所ではえらい人や保健師さんなどに。

バカにされてた。
俺にはそう見えた。


--------------------------

そのくせ、栄養士の資格を取るにはやたら滅多に科目が多い。
管理栄養士となるともっと多い。

制度的に、「栄養士」「管理栄養士」が身につけなければならないとされていることは
非常に多岐に渡る。


・調理の方法論、献立の作り方
・給食施設の運営・経営
・栄養教育・指導法
・人体・病気の知識
・保健所における公衆向け栄養政策について
・微生物の知識、食中毒、伝染病、腸内細菌、発酵食品について
・etc.


色んなことを、さわりだけやってカリキュラムは終わる。

栄養士養成施設は(その名の通り)栄養士の資格を得られる施設であって、
職業訓練の場ではないのだ。



特に、調理専門学校ではないので、調理の技術はいっさい学べない。

カリキュラム上、調理法を学ぶことにはなってる。

でも、調理作業をした日は4年間で計50日くらいだった。事実。
4年間で平均したら月1くらいだ。

それも4〜10人の班で「みんな」で料理作って終わり。
一人ひとりの技術は試されない。
できなくてもいい。


きっと、制度の前提が古いと思うのだ。
料理なんてもんは家庭で当たり前にやってるものだから、
高尚な学びの場でそんなものは教えなくていい、って前提がある。
(料理なんて無償労働だし)

なので、一切料理しなくても、できなくても、
料理以外のカリキュラムで合格点を取れれば、
俺みたいなもんでも栄養士の資格は取れちゃうのだ。

皮肉なもんだけど。

制度を悪用したのは俺の方だった。




実際問題として、料理を全くできない俺が、
栄養士っていう名目でメシ作り係を仕事にすることはできないなぁ、と思う。

できないくせにやりますって言って、社会に迷惑はかけられない。
さんざん、できないくせにやりますって言ってきたので、
いい加減そういうのは許されないよな、と思う。



なお、栄養士として仕事をするのなら、保健所に所属する公務員になるって手もある。

地域の子どもや働き盛りのお兄さんお姉さんの栄養・衛生状態を良くして、
元気に働いてもらって税金をモリモリ納めてもらおう、っていう仕事。

だが、公務員には年齢制限があるので、この道は最初から開いていなかった。
ざんねん。

道が開いてたら、やってみたかったなぁ。

栄養学を、病人とか老人向けじゃなくて、子どもや若者のために使ってみたかった。


--------------------------


栄養学って、子どもや若者のためのものだと思うのだ。


「余命1ヶ月と宣告された爺さんが、食事・栄養管理によって5年生存した」
みたいな話が「栄養学の勝利!」みたいな口調で話されているのを聞いたことがあるが、


心の底から吐き気がしたんだ。


ジジババが長生きするのって、社会にとって必要なこと?

最近やたらと「平均寿命ではなく健康寿命を伸ばそう」って話を聞く。
単なる長寿ではなく、介護の手がかからないで長生きする人/年数を増やそう、つって。
正確には「平均寿命と健康寿命の差を縮めよう」って話。

なら、はっきり言えばいーじゃんか。

「長生きなんかせず、健康なうちに死ね」って。

「ジジババはとっとと死ね。そうすれば、平均寿命が縮まって、健康寿命に近づく。
で、我々が介護する手間が減ってラッキー」って。

正直に言えばいいのにね。

長生きは素晴らしいっていう風潮があるからはっきり言わないんだろうけど、
バレてるよ。

長生きなんかしないで、いかに綺麗に人生を着地させて
美しく旅立つか、っていう考え方が美徳とされる世の中になってほしいなぁと思う。

そして、栄養学はジジババのためのものなんかじゃなくて、
子どもや若者が将来病気にならずに、元気に働いて豊かに人生を送ることに
貢献できる学問だと思う。

そうあることを願う。



--------------------------


栄養って、人を豊かにできる道具だと思うんだ。

病気の一次予防(病気にならないための予防)について、
毎日の食事は大きな部分を占めると思うんだ。

栄養士は人の食事に口を出す専門家として、人の豊かさに貢献できると思うんだ。



栄養士の地位がもっと高くなったらいいな。

人の食事にとやかく言うわけだから、
「先生」って呼ばれるくらいの地位が世間に認められないといけない。

学校では栄養の先生=「栄養教諭」が、もっと社会的地位を得たらいいな。

病院では、医者に匹敵する地位として、管理栄養士っていうよく分からない名前じゃなく
「栄養療法士」とかの名前で、
栄養は医療の一部であり、栄養士は医者に匹敵する身分であり、
だから偉そうに人の食事に口を出してもいい、っていう身分になったらいいな。

あと、子ども向けと老人向けの栄養管理って全然違うものだから
「学校栄養士」「養護栄養士」とかって分けるべきなんじゃなかろーか。

そんで、公務員としての「公衆栄養士」ってのも。

やることが違うんだから、名前も分けた方が分かりやすいと思うけど。

そんなニーズ、ないんだろうなぁ…


--------------------------


というわけで、2012年に言ったことの答え合わせとしては

   「どっかの食品を扱う企業に入れてもらう」

が現実となった。

自分が設定した選択肢からは外れなかった、と思う。

料理が作れなくても、公務員になれないおじさんでも、
食に関わる仕事はできる。

与えてもらった場所で、魂のこもった仕事をするだけ。
なりふり構わず。



--------------------------



もう一度大学に入った理由をよく聞かれた。
面接でも、職場での雑談でも、学校でも。
今も聞かれる。

その場その場で適当に答えてきたけど、本当のところはどーだったんだろな。

2012年の自分の気持ちを振り返って想像すると、
バカな人間に見下されて、見下し返したかっただけなのかもなぁ。

俺よりも作業は上手だが頭の悪いヤツ(+接客態度がなってないヤツ)とか、
低俗極まりないことをまくし立てるバカなお客に対して、


「でも、お前大学行けないだろ?
俺はその気になれば2回も行けちゃうんだぜ」


って心の中で思って、見下し返したかっただけなのかもな…



極めて卑屈な魂を自らに宿していることは、自覚する。

改めません。もう直らないので。

この魂と付き合って生きていく。


------


何回かサイトにも書いたが、大学は社会の一部ではなかった。

社会に出る練習をする場。
すべては練習なので、結果は求められない。
学内発表も、学外実習も、卒業論文も、すべては練習。

練習だから、出来不出来に関わらず提出さえすればよい。
そんで、60点取れれば合格。

練習を終えて60点を取れるようになって、社会に出ていく仕組み。

残りの40点は勝手にどうぞ。
取りたきゃ取ればいいし。
取らなくてもいいし。

社会のことは、社会に出てから学びなさい。

そういう制度。
まぁ、早い段階で分かったけど。


結果を求める姿勢ってのは、自分で身につけるしかないんだな。
他人から教えられるものじゃない。


でも単純に、社会でない場所で4年を過ごして良かったと思う。

社会でない場所から社会を見つめ直すことができた。

なんとなく社会に出て10年、一度社会から出たことで、
また社会に出ようって思いがすごく強くなった。

がむしゃらに労働してやろうって思えるようになった。

これはすごい進歩だ。
2010年頃の腐ってた自分とはぜんぜん違う。

------

大学に行った理由を聞かれて「趣味です」と答えたこともあった。
これもまた真実だと思う。

俺は趣味がないと生きていけない人間だなぁってのも、
4年間で再確認した。

趣味は「音楽」をベースに、様々なメインストリームの変遷がある。
この20年で言えば、

1996〜1999は同人イベンツ。
2000〜2003は音ネタ作り。
2004〜2007は映像作り。
2008〜2010は楽器いじり。

2011〜2012は労働が趣味になってしまって、歯車が狂った。

2013〜2016は大学を趣味にして、持ち直した。

2017〜は「体作り」を趣味のメインストリームとする。
これに関してはまた今度。


------


社会に出直して、生活はすっかり普通になった。

お金を手にするために労働する。
手にしたお金で趣味をする。

そんな普通の日々。元通り。

でも、お金で手に入らないものはこの4年間で結構手に入ったと思う。
たくさんの知識と、ほんの少しの友人と、
持て余すほどの生きる意欲。

元通りの人間に戻ったわけではない、と思う。

そして、日々を全力で生きる気概がある。
素晴らしい日々を生きているじゃないか。

良い調子だ。





さぁ、今日も走ろう。
全力で。
がむしゃらに、行けるところまで。


魂のこもった日々を!






2017年6月吉日
4年間慣れ親しんだネカフェのブースにて

エス佐藤(37歳2ヶ月)



おきば