< 夜風に舞う桜吹雪 編 (2/2) >
ある日、いつものように姉の墓に足を運ぶと、見慣れぬ男がそこにいた。
初めてみるその男はどうやら宮仕えの者らしかった。上等な官服のようなものに身を包み、弔意を表す喪章を肩からかけている。その手に持っていた小さな花束を墓に供え、まるで愛しむかのように姉の眠る場所に立つ墓石を、何度も何度もその手で撫でていた。俺はその光景を見てはいけないような気がして、何故か思わず物陰に隠れてしまった。
しばらくして、どうしたろうかと気になった俺が物陰からそっと顔を出すと、その男は一目も憚らずに姉の墓の前に膝をつき、地に蹲るようにして慟哭していた。
あれが姉の言っていた男だろうか。あの日姉が微笑みながら、やっと会えるのだと喜んでいたその相手の男なんだろうか。俺はそっとその男に近付き声をかけた。
男はかなり驚いた様子で、泣き崩れた顔を隠すように俯いたままで立ち上がった。
「あの……姉のお知り合いの方ですか?」
俺の問いに、男はまた激しく泣き出した。
後にも先にも、あそこまで泣きじゃくる大人の男の姿を俺は見たことがない。まだ自分の肩にも背の届かない子どもの俺の手をとって、男は泣きながら縋るようにひたすら謝ってくるので、俺はどうしていいのかわからなくて立ち尽くしてしまった。
ただどうしても聞きたい一言を、俺は全身の力を振り絞って吐き出した。
「あの日、あの姉の最期の日。姉はあなたに会えましたか?」
子どもの俺の言葉をどう聞いたのか、その人はひどく驚いた様子で、子どもの俺にもその動揺がわかるほどだった。
「あなたが、姉の言っていた人なのでしょう?」
どうやら姉は、この男に俺の話をしていたらしい。
「君は……君が千尋、か?」
男が小さくそう言った声に俺は頷いた。
「姉は、城に大好きな人がいると俺に教えてくれました。あなたなのでしょう? だから泣いてくれているのでしょう?」
その言葉にどれほどの意味があったのか、男は崩れるようにまた泣き出してしまった。
「すまない……本当に、申し訳な……ない。私が……私が眠ってしまったばっかりに……私が……あの時、あの時…………」
何度も何度も繰り返し、苦しそうにその言葉を吐き出すのだ。大人の男が子どもの俺の腕にしがみつくように捕まり、溢れ出る涙を拭いもせずに頭を下げて謝り続けるのだ。
俺はもうどうする事もできずに、ただそうして謝り続ける男の肩を、宥めるように撫でてやることしかできなかった。
やがて同僚の官吏らしき人達が男を呼びに来た。
男は上品な香の香りだけを残し、名残惜しそうに帰って行った。
謝り続ける男の声が、耳の奥に響いて消えない。
だが姉はきっと、あの男に愛されていたに違いないと俺は少し安堵した。
その日はもう俺は涙を流すことはなく、静かに姉の墓前で手を合わせた後、大きく深呼吸をして少しだけ軽くなった心に風を吹き込んだ。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
それから五年後。
あの時の姉と同じ年になった俺は、医術師として城に上がることが決まった。
仕える主は、今上帝第一公子、龍静殿下。
姉の命を奪った男のために尽力せよと言われ、俺は一瞬目の前が真っ暗になった。
初めて龍静に会った時の事を、俺は今でも忘れない。
まるで温度を感じられない、冷たい瞳。一切の感情のない顔。
心の奥に押し込めた憎しみと、あの日聞いた男の慟哭が蘇る。
「お前が千尋、か」
そう言った声は低く、どこまでも冷たく響いた。
俺は主の下に跪き、頭を垂れて言った。
「はい、殿下。私が桜の弟の千尋でございます。亡き姉に代わり、これからは私が龍静様のお世話をさせていただきます」
「……よろしく頼む」
しばらく顔が上げられなかった。
この男が、龍静。姉の仇、姉の命を奪った男。
仕事だったと言えばそれまでだ。その時が来れば俺も、同じ事をするのだろう。
だがやり切れない思いが心の中に澱となって沈んでいる。姉と代わってやる事のできなかった、まだ幼かったあの頃の無力な自分が記憶の中で叫び声を上げている。
そして行き場のない激しい痛みが、重く沈んだ心の澱を今さらのようにかき混ぜるのだ。
俺はあの日掌に握り締めた感情が、再び湧き上がってくるのを感じていた。