2004年



2004年3月13日 ニュー・ヨーク州立劇場

Sweeney Todd

 主な配役:Sweeney Todd=Timothy Nolen

              Mrs. Lovett=Myrna Paris

              Anthony=Keith Phares

              Johanna=Sarah Coburn

              Judge Turpin=Walter Charles

 指揮:Braden Toan

 オケ:ニュー・ヨーク・シティ・オペラ管弦楽団

 演出:Harold Prince/Arthur Masella

 <感想>

 最初にお断りしておきます。この公演、トッド・ロヴェット・アンソニー・ジョアンナの4役はダブル・キャストになっており、僕が観られた日にはトッド・ロヴェットともいわゆる「裏」の歌手が登場したことを、不覚にも後で知りました。したがって、この公演の看板と言われていたMark DelavanとElaine Paigeは残念ながら観れませんでした。うう、まさかダブルとは…
 それを知ってる客はこの公演を避けたらしく、僕が座ったFourth Ring(最上階)は半分以上空席。僕同様知らなかったと思われる客の一部は、トッドとロヴェットが登場するや拍手を送っていました。
 ではつまらなかったのか?と言えば、そんなことはありません。けっこう楽しめました。

 ティモシー・ノレンはちょうど20年前に上演された「スウィーニー・トッド」の正に題名役でシティ・オペラにデビューしています。2002年11月にシカゴで観た時にはターピン役をやっていました(ビデオの"Sweeney Todd in Concert"にも同役で出演)。オペラ、ミュージカル双方で活躍している歌手です。白髪交じりの長髪を真ん中から分け、かっと見開いた目で登場し、関西風に言えば「いらち」と呼びたくなるくらい短気で落ち着きのない言動は、オーソドックスではありますが狂人トッドの人物像をしっかり聴衆に印象付けていました。
 ロヴェット役のマーナ・パリスはオペラ中心に活動する歌手のようです。見た目に反してヴィブラートの少い声、正確な歌いぶり、演技もなかなか身軽ですが、最初の"The Worst Pies in London"を遅めのテンポで歌っていたのが唯一の不満。
 これに対してアンソニーとジョアンナは「表」の歌手だったのですが、少々期待はずれ。キース・ファレスはのどにかかった声で甘み不十分。好みの問題でしょうが僕としてはどうも共感できない。サラ・コバーンはシティ・オペラ・デビューですが、技術的に未熟。主役2人が頑張っているのに、この物語のもう一つの柱となるべき若いカップルの存在感が終始薄かったのは残念。
 ターピン役のウォルター・チャールズと乞食役のJudith Blazerはいずれもミュージカル中心に活動する歌手で、共に手堅い出来。しかし、この2人より目立ったのがトビアス役のKeith Jameson、ビードル役のRoland Rusinek、ピレッリ役のAndrew Drostの「三大?テノール」。ラジネクはミュージカル中心、他の2人はオペラ中心ですが、みな高音を見事に聴かせていて気持ちよかったです。

 プログラムにはStage Directorとしてアーサー・マセラ、その上にProductionとしてハロルド・プリンスの名前がありました。Applause社から出ている台本の中にブロードウェイ・オリジナルの舞台写真が何枚も出ていますが、それを見る限りでは、演出や舞台装置はほぼこれを再現したものと言えそうです。
 大きな違いの一つはパイ屋&床屋の装置がブロードウェイのものより広そうなこと。第2幕で殺人のからくりを試す場面、トッドが椅子を時計回りに90度回転させてから剃刀箱を床下へ落とす、でもパイ屋の壁の出口はその延長線上にはなく、下手側にずれたところから出てくるという複雑な構造になっています。しかも、実際に殺す場面で客は床下に落ちた後階下の壁(下手側の壁)からは出てこない。おそらく客役の歌手が装置の裏側から暗転時に出て行けるように、という実際的な理由でこのような構造になったのではないかと思われます。
 あとはがらんとした舞台に巨大な階段、ソファなどの部屋の一部を出し入れしながら場面転換するという、プリンス流の演出になっていますが、どうしても納得いかないのが第1幕、ジョアンナとアンソニーが出会う場面。彼女は下手端のバルコニーにいるのですが、そこに階段がつなげられる。彼がかごの鳥をプレゼントしようとすると、彼女は階段を降りてきて受け取る。2人一緒にかごを持った状態で彼は"I feel you"を歌う。
 それはないでしょう。少くとも台本のト書きを読み限り、2人は階上と階下に分かれていて辛うじて指を触れ合えるくらいに離れているからそのセリフが出てくる。そんな至近距離で向かい合えるなら、わざわざ"I feel you"などと歌う必然性がない。"I see you"とでも歌わないと、とてもじゃないがこの場面に合わない。もしこれがマセラのアイデアだとしたら、僕としては賛成できません。

 あと特筆すべきはオーケストラ。弦楽器だけでも30人以上はいたはずですが、さすがに厚みと奥行きのある響きが出てくる。これは、どちらかと言えば規模が大きい方がいいといった程度の話でなく、この規模でないとソンドハイムのスコアは表現しきれない、と考えるべきではないかと思います。ブロードウェイの制約の中でこの音はたぶん期待できないでしょう。
 さらによかったのが指揮者。この日は初日から振っているGeorge Manahanでなく、副指揮者のブレイダン・トーンがシティ・オペラ・デビューを飾ったのですが、歌手の引き立て役で終わらず、表情豊かな音をオケから引き出して舞台を盛り上げていました。ほんの一例を挙げれば、第1幕"My Friends"の序奏。トッドが昔使っていた剃刀に再会する場面ですが、背筋がぞくぞくする美しさでした。

2004年5月8日 Studio 54(ニュー・ヨーク)

Assassins

 主な配役:John Wilkes Booth=Michael Cerveris

              Balladeer/Lee Harvey Oswald=Neil Patrick Harris

              Charles Guiteau=Denis O'Hare

              Leon Czolgosz=James Barbour

              Giuseppe Zangara=Jeffrey Kuhn

        Samuel Byck=Mario Cantone

        Lynette "Squeaky" Fromme=Mary Catherine Garrison

        Sara Jane Moore=Becky Ann Baker

        John Hinckley=Alexander Gemignani

        Proprietor=Marc Kudisch

 Musical Direction:Paul Gemignani

 指揮:Jonathan Butterell

 演出:Joe Mantello

 <感想>

 Roundabout Theatre Company制作のプロダクションによる改訂版の米国初演。
 Studio 54は昔ディスコだったそうです。その名残か、平土間席の大半は丸テーブルを椅子が囲むというユニークな構造になっています。僕自身は2階後方(Rear Mezzanine)のほぼ中央、普通の劇場らしい席で観ました。キャンセル待ちが10数人並ぶほどの盛況ぶり。

 登場人物がこんがらがらないように、暗殺者たちのプロフィールは頭に入れたのですが、それ以外は特に予習をせずに臨みました。そのために、いろんな理由で近年にないショッキングな観劇体験となりました。
 まず作品そのものにショック。詳しくは作品紹介に譲りますが、冒頭から「こんな深刻なテーマをこんな明るいタッチで描いていいのか?」という強烈な疑問に何度も襲われます。さらに「真っ正直に生きている人間をバカにしている!」「いくら大統領を暗殺したからって、そこまで茶化すことはないだろう…」「いや、でも犯罪者に同情するのは間違ってる!」といった様々な感情がこみ上げてきて、涙を禁じえないことしばしばでした。今まで美しい音楽に感動して泣けたことはたくさんありましたが、それとは全く異質の経験です。

 改訂版は初演版に比べて決定的に進歩したと僕は思いますが、さらにジョー・マンテロの演出がこの作品に磨きをかけたと言えます。最も成功したアイデアは、バラード歌い(Balladeer)が暗殺者たちに追放された後、同じ役者をリー・ハーヴェイ・オズワルドとして再登場させることです。これはロンドン公演でも行われていません。
 オズワルドも元々は、歴史上の暗殺者たちのことを多少知ってはいても注意を払わない一般国民の1人だった。確かに彼の人生は行き詰まっていたが、チョルゴスのように反政府運動に参加するような思想の持ち主でもなければ、バイクのような変質者でもない(実際どうだったかはともかく、この作品ではそのような役柄になってます)。
 他の暗殺者たちはそこに目をつけ、自分たちを冷淡に評価する世間の象徴であるバラード歌いを追い出すだけでなく、彼を米国史上最も凶悪な暗殺者に変身させることで、世間と歴史に対する最終決戦に挑む。彼らの企みは見事成功し、世間は空前絶後のダメージを受け、歴史はオズワルドの名を永遠に刻みつける。これで最後のナンバーが暗殺者たちの凱旋歌であることを観客はいやでも認めざるをえなくなってしまう。

 舞台は回廊状の射的場。柱と柱の間に掛け軸状の標的が下りてきて、一番下に大統領の代を表す数字が記されています。大統領暗殺が成功すると鐘が鳴り、柱のイルミネーションが光る。失敗するとブザーが鳴る。処刑された暗殺者は標的の代わりに死人として座り続ける。単にわかりやすいだけでなく、遊び感覚に満ちた演出で作風によく合っていると思います。
 射的場のおやじ(Proprietor)も歌の出番こそ少いですが、多くの場面で上手端上方のバルコニーに現れ、暗殺者たちの様子を眺めたり、円盤状の的を回転させて当たりはずれを冷静に宣告。ゲーテ「ファウスト」に登場する悪魔メフィストーフェレを思い起こさせます。

 出演者には役柄に合わせて歌のうまい人とセリフのうまい人がバランスよく配置され、みな申し分なし。特に2002年"Passion"以来のマイケル・サーヴェリスのブースはかっこいいし、バラード歌いとオズワルドを演じ分けたニール・パトリック・ハリス、ベッキー・アン・ベーカーのオバタリアン・ムーアも忘れられません。

 しかし、今回もう一つショックだったのは観客の反応。とにかくよく笑うのである。ちょっとしたセリフでも笑うのは米国の聴衆一般の傾向だし、確かにこの作品には笑えるシーンも多いのだが、ちょっと感覚的についていけない場面があったのも事実。例えば、ムーアが駄々をこねる息子を黙らせるために銃を突きつけるシーン。確かに前後の流れは喜劇タッチではあるのだが、ここで観客の笑いは頂点に達し、キャーキャー言って受けるのである。もし日本で上演したら、たとえそれまで笑っていてもここでぴたっと止まるはずである。
 果たしてこの作品を日本で観られる日は来るのだろうか?あの宮本亜門さんはこの作品を観てどう思うだろうか?

 というわけで、身も心もボコボコにされた前代未聞の観劇体験になったのでした。

2004年7月17日 ヴィヴィアン・ボーモント劇場(ニュー・ヨーク)

The Frogs

 主な配役:Dionysos=Nathan Lane

        Xanthias=Chris Katten

        Herakles=Burke Moses

        Charon/Aeakos=John Byner

        Pluto=Peter Bartlett

        George Bernard Shaw=Daniel Davis

        William Shakespeare=Michael Siberry

        Ariadne=Kathy Voytko

 指揮:Paul Gemignani

 演出・振付:Susan Stroman

<感想>

 「リンカーン・センター・フェスティバル」の一環として、30年前に初演した作品に大幅な加筆・修正を加え、リバイバルでなく「新作」として上演されました。ただ、22日が正式公演の初日のため、僕が観たソワレ公演も含め、何と19回もレビューが行われています。

 昼に観た平成中村座「夏祭浪花鑑」の余韻が覚めやらない状態で劇場へ。勝手知ったるリンカーン・センターですが、ヴィヴィアン・ボーモント劇場に入るの初めて。正に古代ギリシャ風の円形劇場です。
 今回はセット券発売日にチケットを取ったため安い席が買えませんでしたが、行ってみると前から6列目、中央やや左寄り。客席側に突き出した舞台がよく見えるだけでなく、マエストロ・ジェミニャーニもよく見えるぜいたくな席でした。

 円形の舞台に合わせて少し膨らんだカーテンの中からネイサン・レインとクリス・カッテンが登場するや拍手喝采。冒頭からテンポのいいやり取りで早くも場内は受けています。
 幕が開くと客席から見上げるような位置にバルコニーがあります。
 世界の破滅を象徴するように雷鳴で真っ二つに割れる古代ギリシャの壷、クサンティスの背より高い巨大なリュック、ミニチュアのギリシャ神殿の中から登場するヘラクレス、彼の毛皮コレクションをかけてある長ーいコートかけ、2回目の"I Love to Travel"で舞台後方に出てくる足跡付の砂漠の絵(2人がラスベガス?で寄り道したことまでばれてしまいますが)、バルコニー席より上の天井から下りてくる渡し舟、「キャッツ」の猫風衣裳のカエルたち(そのうちの数匹は天井から吊るされて数メートルもジャンプ!)などなど、観ていて飽きません。カエルにつかまったディオニュソスまでジャンプさせられる様は、日本のお笑いタレントがしばしば受ける罰ゲームを思い起こさせます。

 これに比べ、第2幕はプルート登場の場面でバルコニーに出てくるPLUTOのロゴの中で火が燃えていたり、ショーとシェイクスピアのバトルの場面でディオニュソスがテニスの審判席に座り、ホリゾントに鏡で映されたような客席の写真が出てくる(つまり360度客が囲んでいるように見える)といった見せ場もありましたが、基本的にはセリフ中心に進んでいきます。

 シェイクスピアはまだしもショーの作品をほとんど全く読んでない僕にとって、2人のバトルは「自分の作品からセリフを引用して戦っている」という以上のことは理解できませんでしたし、古今の作家たちを題材にしたジョークもほとんど理解できません。それでも笑えるシーンはたくさんあり、退屈はしませんでした。
 また、追加されたナンバーの中では特に"Ariadne"がよかった。ジーンときました。

 問題はソンドハイムがこの作品を通じて何を訴えたかったか、そしてそれは観客に効果的に伝わったか、という点です。
 前者について言えば、彼がある種の政治的なメッセージをこの「新作」に盛り込んだことは間違いありません。それは最後に追加されたナンバーに明らかになっています。僕のヒアリングに間違いがなければ、このナンバーは観客に向かって「未来がどうなるか、決断するのはあなた自身」という意味のメッセージを込めています。11月に大統領選挙を控えたこの時期にこのような内容の作品を発表するとなれば、その意味するところは明白と言っていいでしょう。
 そう考えるとディオニュソスは米国民のシンボル、ショーがディーンでシェイクスピアがケリー、三途の川のカエルたちはアラブのテロリスト?といった想像が広がりますが、はてさてどんなものでしょうか?
 後者については、一度観ただけではピンと来なかったというのが正直な感想です。アリストファネスの原作はおそらく政治性の濃いものだったと思われますが、ソンドハイム自身は当初"A Funny Thing Happened on the Way to the Forum"の路線で純粋コメディとして書いたと思うのです。それを30年後、米国民への重要なメッセージを込めることで再び政治的な作品にしようと試みる中で、いろんなところに無理が出ているような感じがします。最後のナンバーに込められた重いメッセージのために、それまで他愛のないアホらしいギャグを素直に笑っていたのを反省させられるような気になるからです。それこそがソンドハイムの意図なのかもしれませんが。
 観終わった後、うまいたとえが見当たらないのですが、例えば数の子を塩抜きしてからタバスコで味付けしたみたいな、何とも落ち着かない気分がしたのです。

 レイン始め出演者たちの演技はみな申し分なく楽しめました。聞き取れない部分もたくさんあったので、もう一度観てみたいものです。
  

2004年7月18日 Studio 54(ニュー・ヨーク)

Assassins

 主な配役:John Wilkes Booth=Michael Cerveris

              Balladeer/Lee Harvey Oswald=Neil Patrick Harris

              Charles Guiteau=Denis O'Hare

              Leon Czolgosz=James Barbour

              Giuseppe Zangara=Jeffrey Kuhn

        Samuel Byck=Mario Cantone

        Lynette "Squeaky" Fromme=Mary Catherine Garrison

        Sara Jane Moore=Becky Ann Baker

        John Hinckley=Alexander Gemignani

        Proprietor=John Schiappa

 Musical Direction:Paul Gemignani

 指揮:Jonathan Butterell

 演出:Joe Mantello

 <感想>

 最終日ラス前のマチネ公演。劇場入口はキャンセル待ちの人でいっぱいでした。
 今回も珍しく高いチケットを頑張って取ってみました。平土間後方中央ほぼ左寄りです。2階が頭上にかぶってますが、舞台の天井までは見切れる位置です。
 おやじ(Proprietor)以外は前回観たのと同じ配役。

 平土間にいても半円形に並べられた柱がじゃまして後方に下りてくる大統領の標的全ては見えないのですが、メザニン及びバルコニーとの決定的な違いは、ガーフィールド大統領の影絵やオズワルドの白いTシャツに映るケネディ暗殺の映像がよく見え、照明の手の込みようがよくわかるということです。
 ただし、誰かが指摘しておられた、「メザニンより後ろの席だと最後の場面で見落とす」ものが何かはわかりませんでした。僕が観た限りではそのようなものはなさそうに見えたのですが。
 演奏時間は前回とほぼ変わりないのですが、テンポが前回より速くなっているように感じたのは、それだけオケも含めた出演者たちのノリがよかったということかと思います。この作品の凄さを改めて肌で感じ取ることができました。
 また、前回はあやふやだったおやじの動きも今回しっかり確認。最初から最後まで暗殺者たちをあやつるキャラクターとして明確に位置付けられているわけで、「ファウスト」のメフィストーフェレのような役回りですね。

 出演者たちは前回同様、あるいはそれ以上の熱演で、満足、満足。

 演奏が終わると客席はもちろんスタンディング・オベーション。俳優たちは全員で一度お辞儀した後さっさと引っ込んでしまいましたが、再登場を願う熱い拍手がかなりの時間続きました。オペラやバレエ公演も含め、この国では珍しい光景にも出会え、これまたいい思い出になりました。

2004年12月1日、2日 Studio 54(ニュー・ヨーク)

Pacific Overtures

 主な配役:語り/将軍/天皇=B.D. Wong

              香山=Michael K. Lee

              万次郎=Paolo Montalban

              阿部=Sab Shimono

              たまて=Fumoto Yoko

        将軍の母、老人=Alvin Y. F. Ing          他

 指揮:Paul Gemignani

 演出:宮本亜門

 美術:松井るみ

 衣裳:コシノジュンコ

 <感想>

 2年前ニュー・ヨークとワシントンDCで一世を風靡した新国版「太平洋序曲」をベースに、宮本さんがアメリカ人キャストを率いてブロードウェイに乗り込んできました。これだけでも日本人としてはわくわくする話ですが、幸運にもその開幕公演を観る機会に恵まれました。
 とあっては、生半可な気持で出かけてはなりません。前日のプレビュー公演でしっかり予習をし、当日は久しぶりにタキシードを着込んで劇場へ向かいました。報道陣が入口前にずらりと並ぶ中を入っていきます。ちょっとしたセレブ気分。個人的には、7ヶ月前"Assassins"で衝撃的体験をしたのと同じ劇場でこの注目作を観られるとあって、自分で勝手に盛り上がってます。
 1日はバルコニーのほとんど最後列、2日は平土間後方下手端。違った席から観ることができたのもよかったです。舞台にはあの懐かしい水に浮かぶ鳥居風セット。

 マエストロ・ジェミニャーニも座り、客席が暗くなる。いよいよです。舞台奥に現れた女優による長唄風独唱、和太鼓の連打に続いて語りの第一声!あれ?
 何があれ?かと申しますと、国本武春さんが

 にっぽん

といった感じで始めたセリフをウォンさんは、

 Nippo-n

といった感じで始める。どうやらこれが新国版と今回のブロードウェイ版の違いを象徴する場面だったように思うのです。

 新国版には濃厚な和風の味付が施されていました。国本さんの語りは型にはまったものであるにもかかわらず雄弁かつ劇的かつ粋であり、それだけで十分楽しませてくれました。当たり前の話ですが、台本中"haiku"と指定されている部分は五七五でやる方が決まるのです。これに対しウォンさんの語りはよどみがなく耳に心地よいのですが、あまりによどみがなくて頭の中を素通りしてしまう。いつしか日本が題材になっていることも忘れ、普通の英語劇を観ている気分になってくる。
 ところが、これが音楽部分になると全く違った印象になります。これも当たり前の話ですが、ソンドハイムの第一人者であるジェミニャーニが振り、彼の音楽が身体に染み付いている奏者(わずか7人のオケ)の演奏に乗ってアジア系とは言えほとんど英語ネイティブの俳優たちが歌うわけですから、はまらないわけがない。"I Will Make a Poem"での香山と万次郎のロマンティックな歌いぶりにはすっかり聴き惚れてしまいましたし、以前はさほどいい曲とも思ってなかった"Someone in a Tree"なんて、子供の頃親にしてはいけないと言われたことを陰に隠れてやっていた時感じたあの罪悪感とスリルと興奮の入り混じった気分がどんどん湧き上がってくる。やはりこのミュージカルは、ソンドハイムの筆が紛れもなく冴え渡っていた時代に書かれた作品だったのだと再認識。
 これに対して新国版の出演者たちもみな頑張っていました。俳優たちもオケのメンバー(8人)もソンドハイムのスコアについていこうという必死さが伝わってきましたし、特に打楽器の切れのよさは今回のメンバーをしのぐと思います。でも、ブロードウェイ版の演奏は自然なんですね。難曲を難しく感じさせない。
 つまり、セリフと音楽の面では、ソンドハイムのミュージカルを一流の俳優と音楽家が苦もなくこなしたという感じ。今年"Assassins""The Frogs"と聴いてきた流れで聴いても何ら違和感がない。もちろん2年前の「和風版」との比較は避けて通れないのですが、違いはあっても水準の問題ではない。

 さて、注目の演出はどうか?ニュー・ヨーク・タイムズでは厳しい批評が出ていましたね。確かに、2日私の席では天井に覆いかぶさる星条旗は見えませんでしたし、逆に1日の席からはペリーの姿があまり見えない。また、老中や「南の大名」の裃の足の送りや殺陣のシーンにはどことなく堅さが取れず、どうしても新国版に比べ見劣りしてしまう。
 しかし、これってよく考えてみると、わざわざ言われなくても当たり前のことですよね。Studio 54という劇場を使ってやるからには、物理的に天井の星条旗が平土間後方から見えるわけないし、平土間の中央をペリーたちの通路に使うとバルコニーからは見にくいし、日本人だって難しい江戸時代の武士の所作を外国人俳優に仕込むのは並大抵のことではない。それを今回のプロダクションの欠点として指摘することにあまり意味があるとは思えない。
 例えばもし観客全員に星条旗を見せたいのであれば、天井だけでなく平土間の両壁にも旗を広げるといった工夫もできたかも知れない。でも、宮本さんはあえて劇場に合わせた修正をほとんどしなかった。唯一挙げられるのは、オケの配置を神社の建物の上からボックス席へ移動させ、ボックスの壁に黒船の外輪を付けたことだけでしょう。
 僕はそのことに今回のプロダクションに秘められた彼の強い意思を感じるのです。俳優が変わっても劇場が変わっても自分の演出を変える必要はない、新国とリンカーン・センターとケネディ・センターで通用した自分のプロダクションはブロードウェイでも通用するはずである、と信じていたのではないかと思うのです。
 新国版を観た時にはそれほど感じなかったことですが、今回の公演を観て僕が感じたのは宮本さんの日本及び日本人に対する愛情と誇りであり、誤解を恐れず言えば彼はこの作品を「日本賛歌」として描きたかったのではないかと思うのです。そしてそれはワイドマンとソンドハイムにこの作品を書かせるに至った、2人の日本に対する思いに通じるものがあるのではないか。すなわち、あれだけ乱暴な開国要求とその後の混乱にもかかわらず努力を重ねて今日の国際的地位を築くに至った日本に対する一種崇敬の念(これはペリーが書き残した日本人に対する印象と共通するものがあると思いますが)がこの作品に込められている、と言ったらおめでたいでしょうか?
 宮本さんは、2人の日本への思いをさらに強調して観客に示した。すなわち、"Next"の途中で原爆投下を想起させるシーンがありますが、この時平土間にペリーが再登場し、サーチライトの目であたりを睥睨する(これはバルコニーからも見えました)。黒船の物語は明治維新で終わるのでなく、1945年再び繰り返される。我々日本人は二度の黒船を乗り越えて今日に至ったのだ。
 彼はこの基本理念がStudio54でも損なわれないと感じたからこそ、あえてあまり手を加えなかったのではないか?その意味では、彼のメッセージはブロードウェイでも立派に伝わったと僕は思います。

 終演後大いに沸く観客を静めて主役のウォンさんが挨拶を始めました。いつしか彼の声は上ずり、しばしば話は途切れます。ワイドマンやソンドハイムへの感謝の言葉に続いて宮本さんが紹介されますが、彼はなかなか舞台に上がろうとしません。やっと上がった彼も泣いてました。同じ日本人としてこみ上げてくるものがありました。
 最後に一つだけ付け加えなければならないのは、ウォンさんがこのプロダクションでブロードウェイ・デビューした7人の俳優を紹介したことです。宮本さんとともに彼らの名前(特に日本人2名)も僕たちは心に刻んでおくべきでしょう。以下にその7人の名前(アルファベット順)と役柄を記しておきます。

 Eric Bondoc(Swing)、Rick Edinger(Swing)、Fumoto Yuko(たまて)、Fred Isozaki(貴族)、Omagari Mayumi(芸者、師範の娘)、Daniel Jay Park(僧侶、芸者、フランス提督)、Hazel Anne Raymundo(将軍の妻、芸者)