(2005年1月29日一部加筆修正)
<どんな作品?>
世の中には、ときどき普通の人々の想像を越えるショッキングな作品が現れることがあります。18世紀のヴァイオリニスト兼作曲家のタルティーニが作曲したあるソナタのことを人々は「悪魔のトリル」と呼びました。19世紀、やはりヴァイオリニスト兼作曲家のパガニーニを人々は「悪魔のヴァイオリニスト」と呼びました。
アメリカ合衆国の歴史上大統領を暗殺または暗殺未遂に及んだ9人の男女にスポット当てたこのミュージカルは、単に題材がショッキングであるだけでなく、ストーリー、音楽、あらゆる面でショッキングであり、これも悪魔の作品ではないかと僕には思えます。1991年1月の初演当時は湾岸戦争が始まった時、再演を計画したが9.11で延期、そしてやっと2004年4月に再演された時、この国はイラクの復興支援に苦しんでいます。米国の人々がこの国の将来に不安を抱いている時に上演されるあるいは名前が挙がる、という点からしても悪魔の作品にふさわしい?のではないかと思います。
その意味で、このミュージカルはソンドハイムの中でも極めて異色な作品と言えます。しかし決して悪趣味ではなく、それどころか、彼の作曲技法やワイドマンの作劇法がそれぞれこれまでにない高いレベルで融合し、さらにこの重苦しいテーマを洗練の極致とも言うべき手法で処理したという意味において、ひょっとしたら彼の最高傑作かもしれない、と僕は思っています。
なぜそう考えるのか、以下作品の紹介をしながらじっくり書いていきたいと思います。
<登場人物>
ジョン・ウィルクス・ブース:俳優、1865年リンカーン大統領を暗殺
チャールズ・ギトー:1881年、ガーフィールド大統領を暗殺
レオン・チョルゴス:1901年、マッキンリー大統領を暗殺
ジュゼッペ・ザンガーラ:1933年、フランクリン・ルーズベルト大統領暗殺を図る
サミュエル・バイク:1974年、ニクソン大統領暗殺を図る
リネッテ・"Squeaky"・フロンミー:1975年、フォード大統領暗殺を図る
サラ・ジェイン・ムーア:1975年、フォード大統領暗殺を図る
ジョン・ヒンクリー:1981年、レーガン大統領暗殺を図る
リー・ハーベイ・オズワルド:1963年、ケネディ大統領を暗殺
バラード歌い(Balladeer、ウッディ・ガスリーまたはピート・ジーガーのようなスタイルのフォーク歌手)
エマ・ゴールドマン:20世紀初頭に活躍した無政府主義者、フェミニスト
射的場のおやじ(Proprietor)
デヴィッド・ヘラルド:ブースの友人
バーテンダー
ビリー:ムーアの息子、9歳
ガーフィールド大統領
フォード大統領 ほか
<みどころ、ききどころ>
1幕仕立てで全体は切れ目なしに演奏されます。場面やナンバーごとに僕が気づいた「余計なお世話」的話を挿入することにします。ストーリーを手っ取り早く追いたい方は、飛ばしていただいて結構です。
[第1場]縁日の射的場
1.Everybody's
Got the
Right
射的場のおやじが客引きをしています。一見何てことない光景ですが、セリフをよく聞くと、人生うまくいかずにふさぎこんでいる者たちに、憂さ晴らしに大統領でも撃ったらどうだい、てな調子です。そこへ次々と暗殺者たちが集まってくる。彼らはおやじのメロディに暗殺者たちも加わって自分たちの権利を歌い上げ、それぞれの標的=大統領に銃を向ける。
暗殺者たちの合唱が終わると軍楽隊のファンファーレでリンカーン大統領登場が告げられる。ブース1人が退場し、ほどなく銃声が聞こえる。
<余計な話:その1>
このミュージカルの題材を頭に抱きながら深刻な気分で席に着くと、いきなりとんでもない肩透かしを食うことになります。
まず、冒頭につかわれている音楽は、アメリカ人なら誰でも知っている曲です。"Hail to the Chief"という題名で、4年に1度国会議事堂(キャピトル)で行われる大統領就任式の際に大統領登場のBGMとして演奏される行進曲です。
ところが、ソンドハイムはその曲をただ引用したのではありません。4拍子の曲を3拍子に変え、オリジナルの調性(変ロ長調)を半音上げてロ長調にしたのです。このちょっとした工夫が驚くべき効果を生みます。すなわち、厳粛な行進曲と同じメロディが、人生の失敗者を誘惑する麻薬のような音楽に変身するのです。
続く「誰もが幸せになる権利がある」のくだりはリズムこそ4拍子になるものの、シルクハットとステッキを持って歌うのが似合うようなメロディになります。
重いテーマをかる〜い設定で聴かせる。まったく、何てことをやらかしてくれるんでしょう!もう冒頭から「やられた!」という気分になります。
[第2場]ブースの家(1865年)
2.The Ballad of
Booth
バラード歌いが登場し、まずなぜブースがリンカーンを暗殺したのか、疑問を投げかけます。
彼は一旦脇へ下がり、ブースにスポットが当たります。そこへ友人のヘラルドが駆け込み、早く逃げるよう促しますが、ブースは自分がリンカーンを暗殺した理由を書き残したいので手伝うよう頼む。ブース自身は手が震えてものが書けない。
ヘラルドは最初こそしぶしぶ従うが、ほどなく政府の兵士たちがブースを捉えにやってくるので、彼らを止めるべく家から飛び出す。
1人になって絶望するブースの元にバラード歌いが現れ、代わりに彼の言葉を書き留めてやる。ブースは思いのたけをぶちまけた後、自殺する。それを脇で見ていたバラード歌いは、生存中は賛否半ばだったリンカーンに対する評価が、暗殺によって賛美一色に変わってしまった皮肉を歌う。
<余計な話:その2>
ブースとヘラルドのセリフのやり取りは真剣そのものですし、ブースの辞世の歌はオペラ・アリア風の正に絶唱と言えるもの。しかし、その前後に流れる音楽はカントリー風の軽快なものです。バラード歌いはギター(またはマンドリンまたはバンジョー)を持って登場するよう指示されています。暗殺者の切羽詰った思いを後世の人々が冷たくかつ軽くあしらった様子をものの見事に表現しています。
[第3場]ワシントンDCのバー
台本には1900年または1991年と時期の設定がなされています。
新聞を読むブース、胃の痛みを訴えるザンガーラ、サンタクロースの格好をしたバイク、陽気に振舞うギトー、周囲に当り散らすチョルゴス、白けた様子のヒンクリーがいる。
彼らの先輩格?であるブースはザンガーラに大統領暗殺をそそのかし、チョルゴスに空き瓶を割るよう勧める。初めて重苦しい空気の漂うシーンである。
<余計な話:その3>
このミュージカルに登場する暗殺者たちは現実には互いに面識がないはずですが、ここのように彼らが時間を越えて交流する場面がこれからいくつも出てきます。
彼らの心情には人生の敗者特有の絶望感、あるいはその裏返しとしての屈折した欲望を持っているところに共通点があり、それが彼らを結びつける。ワイドマンの凝ったところだと思います。
[第4場]マイアミ、ベイフロント公園(1933年)
ラジオ放送がスーザの行進曲「カピタン」をバックに、大統領に当選したばかりのフランクリン・ルーズヴェルトが支持者たちに演説している様子を伝えている最中、銃声が鳴る。しかし、幸い大統領は無事。
3.How
I saved
Roosevelt
ラジオ局のマイクの前に目撃者たちが集まり、いかに自分が大統領を助けたかを口々に歌い始める。そこに電気椅子に座らされたザンガーラの証言が加わるが、誰も耳を貸さない。目撃者たちが大統領を称える中、刑が執行される。
<余計な話:その4>
スーザ風の行進曲に乗って歌われ(実際後半は「ワシントン・ポスト」のメロディが使われている)、そこに必死に割り込もうとするザンガーラの歌は目撃者たちの威勢のいいメロディに呑み込まれてしまう。自分勝手という点では共通する6人の庶民と死刑囚による前代未聞の七重唱。
暗殺者の思いが一般人に伝わらない様子をブースの場合とは違った形で表現しています。
[第5場]シカゴ(1901年)
演説を終えたアナーキスト、エマ・ゴールドマンが出てくるとチョルゴスが声をかける。彼は彼女が演説する都市をずっとたどってきている(要は「追っかけ」ですな)。
最初は警戒していたゴールドマンだが、チョルゴスの境遇を知って同行を認める。
[第6場]公園
フロンミーがベンチに座ってマリファナを吸っているところへ、ケンタッキー・フライドチキンのバケツを抱えたムーアが現れる。
2人は、まっとうとは言えない身の上を披露し合うが、そのうちフロンミーの心酔するチャーリー・マンソンがムーアの高校の同級生であることがわかり、あまりの偶然に2人は悲鳴を上げる。
<余計な話:その5>
2人は女性の暗殺者という点で歴史上またこのミュージカルの中でも異色の存在ですが、性格はかなり違っています。マンソンとのセックスにしか興味のない若いフロンミー(愛称の"Squeaky"というのは、彼女がセックスする時の声から来ています)と、何をやってもうまくいかない中年のムーア。
2人は確かに同時代に生きたが、面識はなかったはず。したがってこの場面もフィクションなのだが、彼女たちのこっけいなやり取りを聞いているといかにも現実に起こったような感じがします。2人がどこにでもいそうな不良女とオバタリアンという感じだからかもしれません。彼らが大統領の暗殺を企てていることさえ一瞬忘れさせます。
[第7場]暗殺者たちが交わるフィクションの空間
4.Gun
Song
チョルゴス、ブース、ギトー、ムーアによる四重唱。
銃1丁作るのにどれだけの人手がかかっているかをまずは真剣に歌い出すチョルゴスですが、そこに加わるブースは、指をちょっと動かすだけで世界を変えることができる、と歌う。これにギトー、ムーアも加わる。
<余計な話:その6>
ここでも重いテーマをわざとかる〜く表現しています。
題名は言わば「拳銃賛歌」なのですが、「自由と正義を守るため」みたいな大上段にかぶったお題目はなく、銃をおもちゃのように扱っている。
そんな内容の歌詞が、今度は甘いワルツに乗って歌われる。ときどき挿入されるカチッという引き金の音がなければ、ウィーンの舞踏会に紛れ込んだような錯覚に陥ります。
そこに加わるムーアおばさん、ハンドバックからなかなか銃が出てこなかったり、歌の途中で誤射したり、と本領?を発揮するので、ますます緊張感のない場面になっていきます。
[第8場]1901年9月6日、ニューヨーク州バッファロー市のパン・アメリカン博覧会会場
5.The Ballad of
Czolgosz
まずバラード歌いが登場し、再びカントリー調の歌で場面を紹介。
会場視察に現れたマッキンリー大統領に挨拶しようと並ぶ人々の列の中にチョルゴスもいる。彼の番になるとポケットに隠した銃を取り出して大統領を射殺。バラード歌いの歌で締めくくられる。
<余計な話:その7>
チョルゴスは、マッキンリー大統領自身が言った「米国では列の先頭に立つまで、自分のやり方でやればいい」との言葉どおり、自分が大統領に挨拶する列の先頭に立った途端、自分の最もやりたいことを実行する。その様子を、チョルゴスの生き様に合わせて静かに淡々と歌っています。
ここでのバラード歌いは特にチョルゴスの行為を評価するわけではありませんが、同情あるいは理解を示しているわけでもありません。
[第9場]公園のベンチ
サンタクロースの格好をしたサミュエル・バイクが、ベンチに座り、炭酸飲料を呑み、サンドイッチをほおばりながら、テープレコーダーにレナード・バーンスタインへの憧れの思いを録音し始める。憧れはしだいに自分の人生への絶望になり、成功者バーンスタインに対する恨み言へと変わっていく。
<余計な話:その8>
この場はモノローグ(独白)のみです。バイクがバーンスタイン宛にテープを送りつけていた史実に着想を得た場面で、「再現ドラマ」と言っていいくらいの臨場感と説得力にあふれています。久しぶりに深刻なシーン。
[第10場]ジョン・ヒンクリーの部屋
ギターを弾くヒンクリーの元へ、フロンミーが入ってくる。これまたフィクションの場面である。
2人の会話は全くかみ合わない。やがて別々に歌い始める。
6.Unworthy
of Your
Love
ヒンクリーは憧れの俳優ジョディ・フォスター、フロンミーはマンソンへの思いを静かにかつ熱く歌う。
歌い終わると、ヒンクリーの前にレーガン大統領、フロンミーの前にフォード大統領が現れ、2人は必死に銃を撃つがはずれる。
<余計な話:その9>
形の上では二重唱だが、2人の人間が音楽で互いに心を通わせるのではありません。2人の極端な思いが「愛する人のためなら何でもする」との一点のみで一致することに着目して、その思いだけを彼らの肉体から人魂のように離して合体させ、大統領暗殺という凶行に結実させる。
そんな様子が、カーペンターズもどきのメロディに乗って歌われる。「どんな場面であっても音楽で表現できる」と豪語したのは確かリヒヤルト・シュトラウスだったはずですが、ソンドハイムは「どんな陳腐な音楽であっても、適切な場面で使用されれば名曲になる」ことをこの作品で再三示し続けているのです。
[第11場]ムーアの部屋?→ワシントンの鉄道の駅(1881年)
ムーアがケンタッキー・フライドチキンのバケツを標的に銃の練習をするがうまくいかない。そこへギトーが現れて彼女にセクハラ風指導を始め、しだいにその気になって彼女にキスを求める。嫌がる彼女ともみ合ううちに銃が暴発。
その瞬間場面は1881年7月2日、ワシントンの駅に変わる。列車に乗り込もうとするガーフィールド大統領を見つけた彼はフランス大使になりたいと訴えるが、相手にされない。彼は通り過ぎた大統領の後ろから狙撃。
[第12場]絞首刑場の中
7.The
Ballad of
Guiteau
首にひもをかけられたギトーが歌う辞世の歌をバラード歌いが冷静に評価。歌が終わると死刑執行される。
<余計な話:その10>
この部分はギトーが歌う2つのメロディ、すなわち黒人霊歌風メロディA、ケークウォーク(19世紀末黒人の間で流行した、タンゴに似たダンス音楽)風のメロディB、そしてバラード歌いのカントリー風ワルツのメロディCが交互に登場します。
しかし、終盤になるとメロディAとBは合体し、すなわちAをBのリズムに乗せてギトーは歌います。彼の中の分裂した思いは死の直前にやっと一つになる。それに対してバラード歌いはBのメロディを本来のケークウォークのリズムで歌う。そして、最後にギトーも一緒に歌う。
ギトーの本音がBで歌われる内容にあることは言うまでもないですが、それをバラード歌いが歌うとなると、今度は彼の本音に対する痛烈な疑問となるのです。どっちが正しいのか、それは彼の首にかけられたひもが判断することになるのです。
[第13場]暗闇
再びムーアとフロンミーのおばかなやり取り。2人は一緒に大統領を暗殺すべく集まったのだが、相変わらずムーアは不器用。飼い犬を誤射してしまったり、駄々をこねる息子を黙らせるために銃を向けたり、弾を地面に落としたり。
そこへフォード大統領が現れるが、いきなりつまずく。自分のことはさておき2人が弾を拾うのを手伝ってやる。礼を言う2人に大統領は自分の名前を告げて去る。そこで初めて標的が現れたことを知った2人は必死に彼に向かって銃を撃つが、届かない。何とも間抜けなシーンである。
<余計な話:その11>
この場面はアメリカという国が自信喪失に陥っていた時代を描いていると言ったら深読みし過ぎでしょうか?
フォード大統領はあまりに性格が善良なために、数々のジョークが生まれたそうです。例えば「歩きながらガムをかめない。」ここでのフォード像もそれに沿ったものです。
また、暗殺者側2人の行動も場当たり的で、いかにも素人の犯行という感じ。
アメリカが最低だった時代には、大統領もだらしなかったが暗殺者もだらしなかった、ということでしょうか。
[第14場]車中
バイクが空港に向かって車を走らせている。運転しながら、バドバイザーを呑みながら、フライドポテトをほおばりながら、録音を続ける。何事も信じられなくなった彼は、唯一信じられる行動としてニクソン大統領の暗殺すべく、さらに車を走らせる。
<余計な話:その12>
バイクはニクソン大統領を暗殺すべく、旅客機をハイジャックしてホワイトハウスに突っ込もうとしました。9.11で現実に起こったことを25年以上も前に既に思いついて実行しようとした人間がいたのを知るだけでもぞっとします。そして彼を取り上げたことが、9.11後の再演を妨げたことはおそらく間違いありません。
バイク役はこの作品に登場する暗殺者たちの中で唯一特別な扱いがなされています。すなわち、彼を題材に作られた音楽がないのです(厳密に言えばオズワルドもそうですが、彼については後述するように別の意味で特別な扱いがなされています)。暗殺者全員で歌う重唱場面を別にして、彼が中心となるシーンは第9場とこの場ですが、いずれもモノローグしかありません。
ソンドハイムにとって彼のセリフにメロディをつけることは、さほど難しくなかったはずです。オペラの狂乱の場みたいなメロディ、あるいは彼得意の早口ソング風メロディ、などいろいろ可能性があったはずです。でも、彼は書かなかった。なぜ?
バイクはテープに自らの思いをたくさん録音して残しています。したがって、彼が何に悩み、何が動機で大統領暗殺を企てたかは明白になっている。そのために、自身で歌詞を創作し、曲をつけることで登場人物のイメージをふくらませる面白みに欠けると感じたのでしょうか?
[第15場]暗殺者たちが交わるフィクションの空間
8.Another National
Anthem
オズワルドを除く8人の暗殺者たちが、それぞれ自分が大統領を暗殺しようとした動機を歌い、自らの行為に対するご褒美を求める。そこへバラード歌いが加わり、彼らの行為を否定しようとするが、暗殺者たちの声はますます大きくなり、ついにはバラード歌いを追い出してしまう。彼らは「敗者のための国歌」を高らかに歌う。
[第16場]ダラス、「テキサス教科書倉庫」6階の保管室(1963年)
暗殺者たちの「国歌」がフェイド・アウトすると、オズワルドが1人で登場。彼は人生に絶望し、自殺しようとしている。そこへブースが現れ、オズワルドが消したラジオをつけ直すと、ケネディ大統領の空港到着の様子が実況で流れてくる。
ブースはオズワルドに対し、自殺の代わりに大統領暗殺をそそのかす。あまりの意外な展開に驚くばかりのオズワルド。カーテンレールが入っていたはずの袋にはいつの間にかライフルが入っている。他の暗殺者たちも現れ、彼を説得したり持ち上げたり懇願したりしながらその気にさせていく。
ラジオの実況が再び入り、ケネディ大統領を乗せた車がだんだん彼のいる建物に近づいてくる。ついに意を決したオズワルドは、窓からライフルを向け、引き金を引く。
9.Something
Just
Broke
ケネディ暗殺にショックを受けた一般国民による悲痛な重唱。
[第17場]リンボー(天国と地獄の中間)
10.
Everybody's Got the
Right
暗殺者たちが全員集合し、最初のナンバーのメロディに乗って「誰でも幸せになる権利がある」と歌い、最後に全員で銃を放つ。低音のユニゾンで静かに幕を閉じる。
<余計な話:その13>
ここまで自分たちの行為が報われずに来た暗殺者たちは、ついに団結して決起。まず自分たちの行為を否定し続けてきたバラード歌いを追放し、自分たちの「国歌」を作り、その勢いで1人の青年を彼らの「希望の星」に祭り上げ、アメリカ史上最も国民の人気と期待を集めたケネディ大統領の暗殺へと駆り立る。見事成功した彼らは意気揚々と敗者の権利と自由を謳歌する。
これが初演時の筋書きでした。これでも十分ショッキングな内容ですが、1992年ロンドン初演時に"Something Just Broke"というナンバーが追加されたことで、この作品は紛れもない傑作に進化したと僕は思います。それほどこのナンバーはこのミュージカルにおいて決定的に重要な役割を果たしています。
なぜなら、初演版では、暗殺者たちの主張は自己満足の域を出ずに終わるからです。これまでの彼らの行為に対する世間の反応は、ブースの例に代表されるように暗殺された大統領の評価を高めるか、"How I saved Roosevelt"に代表されるように無視するか、いずれにしても冷淡かつ否定的なものです。
だから世間の代弁者であるバラード歌いを彼らは追い出したわけですが、彼らの目的を達成するにはそれだけでは不十分です。初演版では最後のナンバーも結局暗殺者たちのマスターベーションに過ぎなかったように思います。
しかし、"Something Just Broke"によって、暗殺者の行為が初めて一般国民に深刻かつ癒し難い精神的ショックを与えたことが示される。それは、いまだに11月22日になると、アメリカのマスコミが様々な形でケネディ暗殺を取り上げることに現れています。他の大統領の暗殺事件がこのように扱われることはありません。それは単に最も最近起こった暗殺事件であるからではなく、アメリカの歴史上後にも先にもただ一度、暗殺者の行為に対してアメリカの全国民が敗北感を味わうことになったからです。これこそ、暗殺者たちが求めて止まなかったものなのです。
ワイドマンとソンドハイムは彼らにprizeを与えることによって、初めて最後のナンバーを暗殺者たちの真の勝利の歌と位置付けることに成功する。すなわち、彼らの物語が完結することになるのです。
<余計な話:その14>
では、ソンドハイムとワイドマンがこの作品を通じて真に伝えたかったことは何なのでしょう?この作品を「盗人にも五分の魂」的な見方で捉えるのには賛成できません。もしそうだとしたら、ソンドハイムの音楽はもっと劇的で観客の感動を呼び起こすようなものになっていたはずです。
最後のナンバー"Everybody's Got the Right"のメロディは第1場後半と同じもので、暗殺者たちの「勝利の歌」だからと言って賑やかに歌われるのでなく、鼻歌のように書かれています。ともすればアメリカ人が避けたがるテーマを終始かる〜い音楽で聴かせることで彼らにすんなり受け入れさせるどころか、一級のエンタテイメントを観たような気分にさせる。
麻薬を苦い薬だからと偽って飴に包んで飲ませ、幸福な幻覚を見せる。薬が切れると禁断症状が出る=また観に行きたくなる。そんなミュージカルなのです。
僕にはむしろ、芸術の世界ではどんな題材であっても自由自在に表現することができるのだ、ということを2人は誇示しているような気がしてなりません。真の勝者は暗殺者たちでも世間の人々でもなく、彼らをいかようにも描ける我々芸術家なのだ、と。その意味で、このミュージカルは一種の芸術賛歌なのかもしれません。
しかも、その賛歌をストレートな形でなく、これ以上ない洗練された手法で見せ、聴かせている。やはり「悪魔のミュージカル」と呼ぶにふさわしい作品だと思います。