名演奏のレコードを持っていない人は音楽がわからない


名演奏と言われているレコードを収集している人がいます。いわゆるレコードコレクターです。中には、困った事に、やはりいるんですよね。名演奏を知っているだけ音楽を深く知っていると自慢する人が。こういう人は、口には出さなくても、態度や言葉の端橋からどこか傲慢で思い込みの強い威圧的な雰囲気を必ず感じました。名演奏を数多く聴いているから、音楽ををより深く理解していると主張するのは論理に欠けていると思うのですが。私も、この演奏はこれでなくちゃ駄目だとか、この曲の方がもっと良い曲だとか、皮肉たっぷりに言われたり、強制的に聴かされたりしたことが数多くあります。その主張が正しい時も、明かに間違っているんじゃないかと思える時もありました。

ただ、一緒に長い間音楽を聴いていると自然と、一緒に聞いている人の感性の鋭さと言うのは判ってくるもので、私がその感性の鋭さと豊かさに驚いた人は今までに1人だけでした。その人は音楽は好きでも、名演奏のレコードは持っていない普通の人で、名演奏と言えない演奏からも、誰も指摘しなかった美しさを、見ている人でした。私が驚嘆したのは、暴力的な雰囲気を全く持っていないことで、そういう意味合いでも稀有の人でした。クラシック音楽等を聴く場合、知と感受性が深く絡んできます。知が優先すると、どうしても聴くということに暴力が伴ってくるのです。知と感受性のバランスをとる事と説明すると判り易いかもしれませんが、真実は、さらに深いところにあるようです。難しい問題なので、この件についてはその内に別項目で取り上げたいと思います。ただ、私はその人に暴力的に音楽を聴かないということが、大切と言うことを教えられました。音楽に対する感性の鋭さ豊かさ理解の深さはあくまでも個人的才能と生きる姿勢から決まってくると感じています。

この暴力的に音楽を聴くということについて忘れられない話があります。一度、オーディオ専門店の従業員の方と、音楽の解釈について論争になったことがあります。論争していて、この従業員の方はまだ若い人でしたが、知が勝っていても、大変に感性も豊かな人でしたので、この人なら間違いなく理解すると判断したのです。そこで、”貴方は音楽を暴力的に聴きすぎるている”と一言反論したのですが、その方はそのまま考え込んでしまい、何かショックを受けたようでした。何時も知と感性のはざまにいる人は、只の一言で何が本質に近いか理解してしまうんですね。そこいらへんは私よりも遥かに鋭い方でその鋭さに違う意味で私はショックを受けました。メーカーの人間が、オーディオ店の方のご機嫌を損ねるのはタブーなので、同行した仲間の設計者は呆れ果てていました。私はオーディオの好きな仲間として大変親しみを感じていたのですが、やっぱり、その従業員の方には、嫌われたんでしょうね。

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