その人の出している音はその人の人となりを表わす


時々、その人の出している音はその人となりを表わす、といっている人に出くわします。一度仕事仲間とこの件について論争したこともあります。持っているオーディオ装置から美しい音を出している人は心も美しいのでしょうか?そんな馬鹿な話はありませんよね。本当は、そんな単純な話ではないのでしょう。こんな意味のない迷信がもっともらしく話され、それを当然のように思っている人が少なからずいるのには、もっと根深い問題が潜んでいるのでしょう。

私は自分が出している音のことになると、人が変わったようにむきになって弁護する人に数多く出会いました。どうも、その人が出している音をけなす事はその人をけなしているのと同じだと考えているようなのです。その向きになる人達は自分の装置から出ている音で自分という人間が判断される事を気にしていたのです。誰が言い出したことか知りませんが、罪作りな迷信です。クラシックの演奏家にしても、素晴らしい演奏家が必ずしも素晴らしい人格者とは限りません、ましてや装置の音や、部屋の音響条件でその人の人格や個性や性格そして感性を判断されたのではたまったものではありません。TVから出る音が汚いからTVの持ち主の人格に問題があると言われてしまうのですから困ったものです。

音によって人となりが評価されると言うのはオーディオ愛好家も設計者もおなじです。私が自分にとって理想の音がでてくる装置を所有しているのなら頷きますが、理想の音を出していないのにと思ってしまいます。私たちオーディオの技術屋は、どんな回路でどんな部品を使ったらどういう音が出るか殆んど判っています。そして私は優しい音も、激しい音もどちらも好きなのです。優しい音を作ったら、優しい人だと言われ、激しい音を作ったらエキセントリックな性格だといわれるのは私たちにとって誤謬に満ち満ちたことだと感じられるのです。

優しい人が住んでいる家だと、何故か必ず優しい音が出ていると主張する人がいますが、それはリラックスして音を聴けたと言うことだと私は判断しています。私は職業柄多くのお宅にお邪魔して音を聴かせていただいています。冷静に判断しなければならない立場上、音のみを聴いて判断しています。良い音悪い音にははっきりした理由があります。冷静に判断して、其処にあるのはオーディオに対する理解とか知識とか熱意の問題で音はその人となりを表すと感じたことは全く有りませんでした。

だいたい、人の人格などはそう簡単に判断できるものではないですよね。仕事で追い詰められてどうしようもないときに”誰も何もしてくれなかったのに会社では意地悪で人相も悪くて嫌われている人に助けられて、本当は一番優しい人だと気がついた”なんていうのは良くある話です。 ですから深い付き合いもないのに、音を聴いただけで簡単に”相手の人格を云々する人”というのはどういう人なんだろうか?、と疑問に思ってしまいます。

余談になりますが、高村光太郎の墓碑銘という詩をご存知でしょうか。高村光太郎はこの中でこう言っています。「彼は人間の卑小性を怒り、その根源を価値観に帰せり」 、ここでいう価値観はよく言われる価値観の違いではなく、価値判断をすることそのものを言っています。人が物事を批評し、判断したら卑小さから逃れられないと言っているのです。これは心せねばなりません。オーディオ機器は音楽を楽しむ為に有ります。それを使って誰がどんな音を出そうと、その人の人格や性格や人となりに無理矢理結びつけるのはやめてほしいものです。批評したり価値判断を止めて生きていくのは困難です。せめて、批評や価値判断をしなければならない場合はその卑小さを常に意識して考えるようにしたいものです。

所詮は他人のことです、他人の感性云々は言う方が愚かなだけです。 自分以外の誰がどのような感性を持っているかなど分かりようがないからです。 この認識は人としての基本でもあります。


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