オーディオの終着駅


オーディオの終着駅

 オーディオの追求には終わりが無いといわれています。私もそう思っています。けれども、ここを終着駅としても良いんじゃないかと思わせるような音にも何度かめぐり合っています。そんな音を聴いていると今まで随分無駄な努力をしてきたんじゃないかと悔しくなります。在りもしない音を捜し求めていたのではないかと感じるからです。そしてすべての間違いはここに起因しているのではないかとさえ思えます。世界のオーディオメーカーは在りもしない音を求めて、どんどん間違った方向に進んでいってしまったと感じます。

例をあげると、現代のCD等デジタル中心のシステムでよく言われる音場感、あのホールの空気感です。あの音場感を追い求めるような事は、無駄な努力に終わるのではないかということです。音場感を追い求めた結果、肝心の音の生命感を忘れてしまっているからです。CD中心のデジタル機器が溢れる現在、オーディオ機器の設計者で音の持つ生命感の大切さを理解している人は殆んどいません。


オートグラフを燃やした!!

ひとりごとの中で書いたnさんの話です。  nさんのシステムを導入した後、今まで聴いていた古いオリジナルのオートグラフを燃やした方がいるのです。それも一人ではなく二人いるということです。ただそれだけの話なのですが・・・。 それだけの価値が自分が構築したシステムにあるのだろうか・・、困惑していたnさんの顔が思い浮かびます。

燃やした方は、今まで追い求めていた機器が、本筋とは違う方向に向かっていたことを感じ、今まで無駄な時間とお金を費やした、その思いにオートグラフを燃やすことで区切りをつけたということでしょう。皮肉なのは数少ない本流に近い音を持つスピーカーを燃やすことになったことです。オートグラフも素晴らしいスピーカーです。希少価値も有り、かなりの高額品です。当然、燃やした方も十分知っていたことです。それだけnさんのシステムには従来の音とは異なる何かがあるのです。

nさんが時折戯れにかける若き日の園まりの歌、まさかその歌の生命感に恐怖すら感じるとは思いもよりませんでした。nさんの所で、音楽を聴いていると、音が綺麗だとか、音場感が素晴らしいとか、そんなことは不毛だと感じてしまいます。音楽が良く分かるから、好みの音を追い求める必要性をほとんど感じなくなる、それだけなのです。音が悪ければ、録音が悪いだけと割り切ることができます。ですからもうシステムのことは忘れて、レコード蒐集に没頭できるようになります。

残念ながら、依頼されたシステムの音に納得がいかないと文字通り、寝食を忘れて没頭するnさんなので、体調を崩しています。当分の間システムの構築を依頼することはできないのです。nさんとは、今の音は一つの高い峰として、互いに別の高い峰を追い求めることにしようかと話しています。それが10年後に実を結び、多くの人に楽しんでいただけるようになればと願っています。


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