ひとりごと


昔からのオーディオ仲間nさん。ユニークな人で変人の部類かもしれない。今時まともに生きようとしたら変人と言われるのはやむをえない、そんなタイプの変人。nさんは12cmフルレンジスピーカーを取り付けた平面バッフルをオリジナルアンプで鳴らしている。その音を聴いてショックを受ける方は多い。長年オーディオ遍歴を繰り返してきた方ほどその音を聴いて虜になり、今までの高価な大型システムを捨て去る方が多い。先日、久しぶりに、そんなnさんが好んで聴く曲を聴かせてもらった。曲は私の意表をつく“園まり”・・・・歌謡曲のなかの歌謡曲。 一人、大笑いして聴いた。歌謡曲にある自己憐憫とか自己陶酔を馬鹿にして笑ったのではない。そこに日本文化の“粋”を聴いたからだ。それがあまりにも素晴らしく、嬉しくなって、その歌謡曲のイメージにピッタリの歌と、伴奏の華やかさ、そして予想を見事に覆してくれた“粋な日本情緒”に緊張から開放されて思わず大笑いしてしまったのだ。長年こつこつと音を練り上げてきたnさんの努力をよく知っているだけにオーディオ万歳と密かに叫びたい気分でもあった。

学生時代にアルバイトの土木工事で肉体労働をした事がある。あの時、最後には両手の指の関節が固まってしまい、ほとんど曲がらなくなってしまった。そんな疲れきった心にはモーツアルトのメロディーは努力しても浮かんでこなかった。浮かんできたのは普段ほとんど聴いていない歌謡曲とか日本民謡でしかなかった。あの時私は始めて、音楽の成り立つ背景について考えさせられたのだ。クラシック音楽は基本的に貴族の音楽であり、キリスト教文明のもたらした音楽であるということを。クラシック音楽は常に“知”を求められる、それは確固たる素晴らしい一つの文化。それに対して知を求められるのではなく、逆に知から開放させてくれる一面を持つ音楽が歌謡曲であるということ、それがただ嬉しかった。nさんのシステムの音を聴いて緊張感から開放された、クラシック音楽にどっぷり浸かっていた私にはそれが新鮮な驚きでもあった。この知の多様さと深さに感謝!である。

生の情感をぶつけてくる歌謡曲は、音が生き生きしていないと本当に下品になってしまう。そう言えば、この日本情緒を・・下品な女性がしなだれかかってくるような・・表現で聴かせてくれるスピーカーがあった。日本の音、と宣伝されたそのスピーカーは大ヒットした。生命力を半分殺して音造りをした所為で、知を感じさせない、このスピーカーの白痴的な音を、あちこちで聴かされるたびに、こんなものが日本の音なんて!!と[憤慨したものだ。

以前、音の悪いシステムを評価するのに・・白痴的な音・・と発言して“面白い表現をする”と訪問した家の奥様に笑われた事がある。出てくる音が無表情だと・・知と緊張の間に情念や情感を働かせ楽しむ心地よさ・・を体感することが出来ないからだ。私も過去に高名な評論家達、良い音を出しているという噂のシステム、あらゆるシステムの音を聴いてきたが、クラシック音楽と歌謡曲における知の違いをここまで、はっきりと感じさせてくれる音は、nさんの処以外で聴いた覚えはない。逆にいうと知を強く感じさせてくれる音はほとんど聴いた覚えが無い。何処に行ってもクラシック音楽を聞かせてくれるのだが、なぜか知を感じさせてくれない。知よりも、どこか通俗的な歌謡曲の持つ情念とか”くせ”をより強く感じさせるシステムが多かった。やはり日本人は日本人的な感覚から逃れられないのだと思う。生の感情をぶつけてくる歌謡曲は、真摯な表現力と表情の豊かさが無かったら、品性がなくなる、それだけ再生が難しい故に、歌謡曲の嫌いな人が多いのだろう。良い音は、はっきりと知を感じさせ、そして、・・知がありながら知を聴く側に感じさせない表現力・・をも併せ持つものなのだけれど。

nさんはクラシック音楽に造詣が深い、というより無茶苦茶詳しい人だが、そんな人が歌謡曲も同列で好んでいるのは本当に愉快だ。nさんのシステムの音は単に音が生きている、それだけのこと。対して、美しい音色、生とは異なる作られた音場感、だれも文句のつけようのないバランスを持った音、でも音は死んでいる。そんな音を出すシステムばかり氾濫している現代のオーディオ。企業として考えたら、算盤勘定を先に立てるしかないことを良く知っているだけに、もう少しなんとかならないものかと考え込んでしまう。しかしそんな世界だからこそ本物が生きてくると言えるのかもしれない。

私の事に関して言えば、長い間私は趣味のアンプ造りを止めていた。原因はとある高名な方とのトラブルだった。彼は激怒して雑誌上で私を批判してきた。私は出てくる音には密かに自信をもっていたのだが、私が原価で提供したプリアンプのほうが音が良いとユーザーに言われたのが直接の原因となった。安物のオーディオ製品を大量生産しているメーカーの技術屋が趣味で作ったアンプ、そんなアンプが存在していることそのものが彼には我慢できなかったのだ。彼は私のプリアンプの方が音が良いと発言したユーザーは・・良い音を感知する能力に欠けている・・と断じた。そしてメーカーに勤めている私が、彼が飯の糧としている領域を荒らした、生活を脅かす行為に対して真剣に怒り、他に飯の種を持っている私に対して、仁義を守れと言ってきたのだ。彼が雑誌で書いている内容は、悲しい事に・・理論的に反論したらオーディオに対する技術不足を露呈している・・ことが明らかになるような内容だった。だからこそ、私はあの時、行間に彼の悲鳴を聞いたように感じた。確かに、儲けを考えないで作ったアンプを提供する事は、仁義から外れている行為と言えなくは無かったのだ。

生きていくのは誰にとっても本当は簡単なことじゃない、そのことが分かる年代に私も達し始めていた。あの時から私はガレージメーカーの領域に踏み込むのを止めた。同じ土俵で勝負しなくてはならないと思ったからだ。後年、私を批判した方が孤独な死を遂げられたと知ったとき、私はその孤独な死に対して、独り手を合わせた。私は私の何処かで彼の悲しみを共有していたからだ。

時々、アンプの音を良くする方法を教えててくださいというメールが来て、返答に窮することがある。誤解なしに音を良くする方法を相手に伝えるのは困難だからだ。良い音がしているのに・・何故、多くの人にこの音を知ってもらう努力をしないのか・・とオーディオ仲間に言われる事もある。しかしnさんとは異なる峰を目指している私にとって、道は遠い。オーディオの世界はガレージメーカーが乱立している。実力のないガレージメーカーも多い。ふと、そんなガレージメーカーの人達の生活を考えてしまう。そして、nさんとも話すのだ・・何処かで、誰にも知られることなく、もっと良い音を出している人がいるのではないか・・と。


先日の真夜中、外に出てみたら何か植木のようなものが道路に転がっていた。近くによって見たら染井吉野の古木が倒れ道をふさいでいた。4トンの巨木が何の前触れも無く突然倒壊したのだ。根はほとんど無かった。葉は豊かに生い茂っていて、桜の無念さを伝えているようだった。都会の桜はアスファルトやコンクリートに阻まれ根を張ることもできないのだ。翌朝には、染井吉野の巨木がそこにあったことさえ判らなくなっていた。

何週間か前に引越しをした。今度の部屋では、低域が出なくて音を聴く気にもなれない。低音不足を解決をするには部屋のレイアウトを変更しなければならないのだがレイアウトが決まらない。やむなくパワーアンプの整流管を83から、低域の豊かなCV378に変更。何とか聴けるようになったが部屋による音の違いには本当に悩まされる。さらに今度の住まいはマンションの一室だが隣近所にはデジタル機器が氾濫している。デジタル機器から発生するノイズが如何に音を悪くしているか、低音不足に感じられる原因がこのデジタルノイズにあっても別段おかしくは無い。電源事情や、部屋の違いによる音の変化をどう調整できるようにするかは大きな課題だ。

狭いマンション住まいで思い出したことがある。いつかは広い部屋で鳴らしたいと思って大切に飾っていたWE555のことだ。念願かなって15畳ほどある自分の部屋をもてたとき、真っ先にWE555でスピーカーシステムを組もうと考えた。10年も飾っておいたWE555なので、WE機器に詳しい、その道では名の知れた方に調整をしてもらうことにした。そこで判明したこと、それはLとRで振動板が異なり、一個は不良品で振動板を交換するしかないと言うことだった。保管が悪かったのではなく、その振動板は購入時から使い物にならないレベルのものだったのだ。使い物にならない振動板を持つWE555は業者価格では購入時の1/5ぐらいの価値しかなかった。

代々木の、とある高級マンションの一室だった。当社はWE555全てを試聴してペアーを取っているので心配ありません、検査も万全!と言われ購入したのだった。たしか立川の方にある試聴室で15Aホーンの音も聴かせてもらったっけ・・・。現品は白木の美しい箱に入れられ送られてきた。WEを扱う人には胡散臭さを感じる場合も多かったので、まー、ここなら大丈夫だろうと思い、私はすっかり信頼していたのだ。もともと、WEの機器はリース品なので定価が無い。市場価格もあってないようなものなのだ。単なる手違いの結果かもしれないが、信用して確認を怠った私が愚かだったのだ。それ以降、WE555を見るたびに悲哀を感じてしまう。未だ若かったころの私には、大変高価な買い物だったのだ。

audioの最初に戻る