学問の批判
理論偏重の仏教研究は反省が必要
思想や論理ばかりの研究になって、宗教体験の研究をおろそかにしてきた仏教学への批判。仏教の思想は、実践への視点を欠いては正しく理解することはできない。
これは、坐禅は仏教ではない、という学者への批判である。
田中教照氏
田中教照氏(武蔵野女子大教授)は、仏教は、実践を基礎としている宗教である。それなのに、近代の仏教研究は、理論に傾斜しすぎていて反省が求められる、という。
「思うに、仏教は、宗教という観点からしても、思想という観点からしても、その一大特徴は修行実践を基礎とする点にある。修行によって悟りに到達し、修行によって思索が深められているということが他の宗教や思想と著しく相違するところである。」(1)
「解行一致が仏教の本来の在り方であるとすれば、理論に傾斜しすぎた近代の仏教研究は早晩反省を求められるであろう。そのことに心を至して研究に取り組み、今日にいたったが、念いに比してその歩みは一向に進まず、気がつけば不惑もなかばを過ぎている。」(2)
「初期仏教において、特色の一つとして大いに注目されるのが修行すなわち実践に関する所説である。釈尊の説法には、その思想を支えるものとしての実践が随所に説かれているのであって、思想もまた実践への視点を欠いては正しく理解することはできない、とさえいえるであろう。」(3)
こうして、田中氏は、初期仏教の修行方法を研究した。その修行は、現代の「心の病気」を治癒させる認知療法と類似している。認知療法は、みだりに思考におちないようにする(これは「正念」「正定」などに似ている)こと、苦しみを生み出す思考のもとになる固定観念や認知のゆがみを修正する(これは、煩悩・我見・見取見の捨離に類似する)ことによって心の病気を治癒させるのであるが、釈尊の仏教の重要な部分も、そういう部分であった可能性が高いのである。
仏教の学者が仏教の最も根幹の部分を知らない可能性がある。根幹を知らず、枝葉末節のみを研究している学問(
竹村牧男氏=学者は末節を研究
)になっているのが日本の仏教学・禅学なのであろう。日本の精神関連の学問がそのようになってしまうのは、学者になる人たちの心理傾向に特徴があるのか、情的に流れて論理性、厳密性に欠く日本人全体の特性なのか。
(注)
- (1)田中教照「初期仏教の修行道論」山喜房佛書林、平成5年。はしがき1頁。
- (2)同上、はしがき2頁。
- (3)同上、3頁。
学問の批判