学問の批判
仏教学者は、好事家が欣ぶような末梢的な問題を詮索
竹村牧男氏の批判
仏教学者の大半は、仏教とは何かを明らかにしようという課題は意識せず、好事家が欣ぶような末梢的な問題を詮索し、業績をあげて満足している。東洋大学の竹村牧男氏は、このように学者を批判している。
独断、偏見の学説が発表される現状では、竹村氏によれば、仏教とは何かがまだ、学問ではあきらかになっておらず、学者もわかっていない状況である。
「では仏教とは何なのか、一体それはどういう意味があるのか、ということになると、案外このことは明確ではない。またこの根本的な問いに対して、あまり仏教僧も仏教学者も答えてくれていないように思われる。」(1)
「仏教学という学問は、正にこの「仏教とは何か」を明らかにする学問のはずである。しかし、現在の仏教学は、この問題に応えているであろうか。私の見るところ、極く一部を除いて、ほとんどがかなり細分化されたテーマを追っているのみ、というのが実情である。仏教学者の大半は、仏教とは何かを明らかにしようという課題は意識せず、好事家が欣ぶような末梢的な問題を詮索し、業績をあげて満足している。」(2)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』大東出版社、1997年、3頁。
- (2)同上、4頁。
学問の批判