学問の批判
鈴木大拙氏=実践体験なき学者は謙虚・慎重であれ
鈴木大拙氏
鈴木大拙氏は、禅経験のない学者は謙虚、慎重であれ、という。一方、実践者のほうも、学者をけなしてはならない。お互いに研究しあっていくようにとの注意を与えている。
「自分は学者でないので、学者の議論を学的に批評する資格も才能もない。が、これだけはいっておきたい。学者が禅について何かその学的意見を陳述せんとするには、まず禅そのものに関してたしかなそして明確な理解がなくてはならぬと。もとよりこの理解は経験によりて裏づけられなくてはならないが、それは必ずしも望まぬとしておく。しかし文字言句に現われたかぎりの禅、すなわち禅経験なき人が「門外漢」として、それをたよりて了解せんとする文字上の禅、それだけに対しても十分慎重な態度で研究の歩を進めるのが、学者なるものの責任であろう。この責任が十分に感ぜられていないと、禅の学的研究はとんでもない方角に転ずることがないとも限らぬ。こんな場合、学禅の実地に幾年かを費やした人が、何かいうことがあったら、学者は虚心で、これに耳を傾けなくてはならぬ。この謙虚心がないと、その人の学問も、根底から見くびられてしまうこともあると信ずる。それから修禅者のほうでも、真っ向から学者をけなすべきでないであろう。お互いに研究し合って、学者は学的精進を続けてほしいし、修禅の実地家も学者の所見を参考して、自分の禅的了解に資するようにするのがほんとうであろう。」(1)
「衆生無辺誓願度。
煩悩無尽誓願断。
法門無量誓願学。
仏道無上誓願成。
これが仏道の「煩悩」である、誓願である、人格のはたらきの細目である。この誓願がないところには宗教はない。宗教というのはすなわちこの誓願である。この誓願と弥陀の四十八願と、外見上、大いに相違するようであるが、内面的・本質的には同一体で、少しの差等もなく異相もない。これらの誓願の根基をなしている「人格」に徹しない人々が、自作の偏見でこね上げ、歪曲した歴史的イデオロギーで、人間の心を抑圧し強迫して、私心すなわち分別識神を満足させようとするのは、単に国家を誤るのみならず、人間を殺すものである。」(2)
(注)
- (1)鈴木大拙「金剛経の禅、禅への道」(新版鈴木大拙禅選集4)、1991年、春秋社、229頁。
- (2)同上、225頁。
鈴木大拙氏の注意を学者が守らず、禅経験(苦からの実際の解決や悟道経験、慈悲行の経験であろう)を否定する傾向にあり、学問がとんでもない方角にむかった。鈴木氏が言ったように、最近は「独断、偏見」と糾弾されるような学説まで出てきた。これでは、もう学問とはいえない。
道元も誤解されているようである。道元は、経典も否定しない。その経典が禅経験を正しく表現しているからであろう。ややもすれば、慈悲行を軽視する実践者が学ぶことがある。学者は、その文字だけから、禅経験を否定するような解釈をすると誤ってしまうのである。禅僧も、ただ目的のない坐禅観に執着して、仏教ではないものを主張している可能性がある。僧侶も、学問の成果を尊重すべきである。学者にも、釈尊や道元などの精神に迫る方向で研究をすすめている人も多い。鈴木氏は、そういう学者の学的研究は尊重せよというのであろう。
日本の学問はとんでもない方角に向かってしまった。もう一度、鈴木氏が注意したように、禅経験者と学的研究者とがお互いを尊重し合って、精進しなければならない時である。さもないと、多くの日本人、世界の人は、日本の禅実践にも、禅の学問にも信頼をおかないであろう。
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