学問の批判
釈尊が十二支縁起説を悟ったというのは学問ではない
三枝充悳氏による批判
三枝充悳氏は、10年ほど前から、仏教学における縁起説に関する学者の偏見を指摘しておられましたが、その後も、あらたまらないので、あらたな著書で、激しい論調で、学者を批判しておられます。「仏教学そのものを拒絶している」と。
仏教学を拒絶するような学者
釈尊は、十二支縁起を悟ったのであり、十二支縁起説のみが仏教だという偏見ある説をとなえる学者がいるが、三枝充悳氏は「仏教の思想」で、縁起思想のみで仏教を語る傾向を批判された。三枝氏は、最近の著書「縁起の思想」で、特に「十二支縁起説」のみが仏教であるという学者を厳しく批判する。
「釈尊=ゴータマ・ブッダは菩提樹下において十二支縁起(十二因縁)の理法をさとった、というような文は、たといそれに「ウダーナ」一の一−三という資料が添えられていたとしても、仏教学者ー仏教学研究者のあいだからは払拭されなければならぬ。右の記述は、資料論を含む文献学の無知をみずから告白するものであり、したがって当初から仏教学そのものを拒絶しているのであるから。ただ、学ー研究を離れて、一仏教者として自分はそう信じたいというのであれば、どうぞ御随意に、と仏教学は答えるであろう。」(1)
(注)
- 三枝充悳「縁起の思想」法蔵館、2000年、97頁。
仏教を十二支縁起説で説明することは正しくない
三枝充悳氏の学者批判の言葉をさらに掲載する。
「いまわが国では、仏教思想を縁起説で説明することが、ほとんど常識のようになっている。そして釈尊(ゴータマ・ブッダ)のさとりの内容すなわち仏教創始の教えについても、それを縁起説で、或いはさらに相依説で、また無明ー老死の十二支縁起(十二因縁)説で、そのうえ「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがない。これが滅するとき、かれが滅する」という一文で解説することが、学者をも含めて、広くおこなわれている。
ところが、これは現在の文献学からみると、決して正しくない、そこには幾つもの難点があり、修正されなければならない、そして仏教の最初の時期における縁起説のありかたを、すなわち「たしかに縁起は説かれている、とはいえ右に記したような説ではない」という実際の文献上のありのままの内容を明確にしたい、というのが、この文の趣意である。」(1)
(注)
- (1)三枝充悳「縁起の思想」法蔵館、2000年、181頁。
- (2)同上、169頁。
縁起説を恣意的に使う危険
「したがって、縁起説を解説するのに、とくに初期仏教の縁起説に関して、「これがあるとき、・・・」というフレーズや、一時「相依性」と誤訳された「此縁性」に依存し、ましてその成立も不問のまま、その二つのみに終始しているわが国の現状(の一部)は、初期仏教思想史を逆転していると評せざるを得ない。
最初に記したように、縁起説を仏教の思想の根本ないし中心に据えようとするならば、その縁起説の正しい理解が」ぜひとも必要であろう。そして縁起説は実は縁起思想史上にある以上、その原型の誤解は最も危ない。ましてそれを恣意に拡大しつつ気儘に使用することは、到底許されない。充分な資料の蒐集・分析・検討を経て、初期仏教の縁起説の正確な記述への要求と期待とは、今後ますます増大するであろうし、増大しなければならないと私は思う。」(1)
「こうして、「此縁性」の語をめぐるわが国の最近ないし現在のいささか不当な重視は、ここに撤回されなければならない。同時にまた、縁起説そのもの、とくに十二支縁起説(その付属物)の初期仏教思想中での無理な強調は、或る程度、自制されなければならない。」(2)
(注)
- (1)三枝充悳「縁起の思想」法蔵館、2000年、252頁。
- (2)同上、228頁。
三枝氏が言われるように、仏教は多様な実践と思想を含んでいる。「十二支縁起説のみが仏教である」というのは、学者であったら言うはずがないほどの「無知」な立論だというのである。
三枝氏が言われるように、十二支縁起説のみが仏教だというのは、実在した仏教の真実を明らかにすることを研究する「学者」ではなくて、自分の価値観で文字を選択して独自の宗教を起こす「新興宗教者」であろう。
伊吹敦氏(東洋大学)も、偏重ある学説に痛烈な批判をしているが、なぜ、このような「仏教学そのものを拒絶」している学者の説が、まるで学問であるかのように、長く大学で教育されるのだろうか。本当に消費者に貢献しない商品は、購入されず、そのような企業は倒産するビジネス世界では通用しない状況である。
縁起説偏重は日本の学者の特徴のようである。学者が仏教の本を出版したり、大学で仏教を教える。その学者の多くが、縁起説で仏教を説明する。しかし、釈尊の仏教は苦の解放という点で始まっていて、それは縁起説なしでも成立している(1)。そうすると、仏教を縁起説で説明することは仏教の根本をとらえていない可能性がある。学者が大乗仏教を概観する場合も、発展した縁起思想史を列挙するばかりであり、大乗仏教での「苦の解消」の側面をほとんど説明しない。学者の仏教書を読むと、大乗仏教も「苦の解消」をめざさず、思想ばかりを議論していたかのごとき誤解を得る。実際、思想(のみ)を仏教だと考えて研究し、教えて、本を書いている学者が多いのだろう。このような学者による偏向をやめるべきだというのである。日本人は、仏教や禅の実践面を誤解して、よきものを捨ててしまってきたが、学者のこういう偏向と誤解が、教団、僧侶にも大きな影響を与えてきたであろう。
アメリカでは、禅の実践が持つ、苦を克服する力、ストレス緩和の力(仏教本来の苦の受容、苦の超克の一面であろう)を医療現場で応用して、痛み・死の不安などの症状の緩和および、病気であることの受容による病気との共存(一種の苦の超克である。病気から自殺することの多い日本には重要な成果である)を実現させている。こういうことが、仏教の国、日本でできなかったことは、日本の仏教学・禅学において、苦の解放という仏教本来の実践面の研究の軽視、思想面ばかりの重視という学会の傾向が作用したからであろう。
- (1)三枝充悳「縁起の思想」法蔵館、2000年、169頁。
学問の批判