学問の批判
西谷啓治=学者が自己自身と対決していない
西谷啓治
学者が自己自身と対決していない
「今までの日本の文化、例えば芸術や学問などが(勿論若干の例外は別として)西洋のそれと比べて浅い感じがするのは、哲学をも含めて宗教の領域まで、即ち精神の窮極的な根底まで、問題が届くといふことが少なかったからである。それは芸術家なり学者なりが、自己の内に自己自身の基礎を問題としなかったことを意味する。ここで宗教といふのは、必ずしも既成宗教の信仰のみを指すのではない。現代の芸術家や学者が既成宗教の信仰を離れているのは、当然のことともいへる。或は宗教そのものに疑問を感ずるのであっても構はない。然し宗教を疑ひ或は反対するにしても、宗教が立脚している如き人間存在の極所に於て宗教と対決するといふことが大切なのである。即ち宗教と等しい深さに於て、人生の諸問題と闘ふといふことである。それならばそれで、一つの新しい宗教的なものへの模索ともいへる。そして其処から生まれる芸術や学問は、人の精神を根底から動かすだけの深さをもってくる筈である。西洋近代に於ける色々の非宗教的或は反宗教的な芸術や思想が、大きく深いものであり得たのはその故である。日本の場合にはかかる所が欠如している。それは根本的な違ひなのである。」(1)
西谷氏は、こういう。坐禅のみが道元禅とか、縁起説の思惟のみが仏教だというのは、釈尊や道元、その人、当時の人々を軽薄に考えているのである。そんなことで、当時の人が、人生上の問題のすべてを解決したというのであろうか。また、学者自身の問題を縁起説か坐禅のみで解決しうるのか。その程度のことで解決するという軽薄さ。学者や僧侶が自分自身と深く対決していない。
(1)西谷啓治著作集、第4巻、「現代の精神的空虚と宗教」、創文社、1987年、80頁。
学問の批判