学問の批判
奈良康明氏=恣意的・独断的でない学問が必要
外部からは、恣意的・独断的と批判される仏教学、禅学。しかし、駒沢大学の奈良康明氏の「恣意的・独断的でない学問としての実存的研究」「実存的解釈」も重要であるという主張は、一向に変らない学問での恣意的・独断的な傾向への批判であろう。
奈良康明氏
奈良康明氏は、恣意的・独断的でない学問としての実存的解釈の重要性をも主張される。
「しかし、筆者がここで主張したいのは文献学的解釈の範囲内での解釈のことではない。論理書は別として、テキストの宗教性、思想性が原著者の内的苦悩と体験を語っている要素が多ければ多いだけ、自己の実存と重ね合わせて真摯にテキストにその真意を問いかけ、答えを得、思索し、同感ないし反発し、また問い続けるプロセス(hermeneutical circle、解釈学的循環)、ないし、それに類する生きた思索を通しての解釈が、この種の仏典の真の理解に必要なのではないか。
それこそがテキストの原意を出来うる限り正確に理解するという古典解釈の原則に近づく道であろう。そして実存的解釈の学問的な方法論としては、現状でいえば、宗教哲学ないし比較思想研究の蓄積と発展がある。そうした実存的な解釈が学者によって必ずしも一致するものでもなく、この意味では、宗教的古典の解釈は複数でありうる。恣意的かつ独断的な解釈で学問になるか、との質問は当然予想されるが、恣意的・独断的でない学問としての実存的研究を根底にあって支えるものこそ、八木誠一博士の言われるように、文献学と歴史学であろう。古代の文献を扱う以上、宗教的古典の実存的解釈、すなわち読者との対話を通しての解釈といえども、文献学の成果を踏まえなければ出発できない。言語の習熟、良質のテキスト、テキスト著述ないし編纂の目的、著者の経歴と思想、対象とされた人々、当時の思想・文化状況、術語の意味の確定等々、文献学の成果の上での解釈なのであって、逆に言えば、文献学にはそれ自体の重要な意義と同時に、分野によっては、限界があるということなのである。さらに言うなら、もし文献学がテキストをそれ自身がおかれた脈絡においてより正しい解釈を求めるものとするのなら、テキストによっては、実存的解釈がかえって文献の資料的理解を助けることも有りうる。両者は強調すべき接点をもっているのである。」(1)
(注)
- (1)奈良康明監修「ブッダから道元へ」東京書籍、1992年、19-20頁。
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