学問の批判
縁起説偏重の危険性
森章司氏の批判
縁起が修行道にとりいれられていないことに関連して、森章司氏は次のように述べておられる。まさに、研究者が、「私は仏教は縁起説だと思う。仏教が縁起説であるとすれば」(仏教の条件とか、縁起説の概念の定義は、種々に定義されていて、定説がないのに)という仮説、仮定から論を始めておきながら、いつのまにか、「xxは、仏教ではない」という断定になっている研究をみかける。仏教研究に、森氏の指摘される危険性がある。
中道というのは苦楽・有無・自作他作という偏見(辺見)を離れるということであり、断定を避けて無記の立場を取るということでもある。これは換言すれば形而上的な議論を避け、形而上的な思索を離れるということを意味する。なぜなら形而上的な議論や思索は概念規定を伴い、仮定が断定になってしまいやすいからである。もしそれが公正無私な、ものの見方考え方が確立した仏の立場でまされるのなら何の問題もないであろうが、凡夫にはこれは至難のことである。ところが縁起の理法はこのような作業を経なければ、すなわちmanasikarotiされなければ追求できないものであるというわけである。(1)
(manasikaroti:思惟する、考える)
縁起説でも、種々の解釈があり、原始仏教における解釈がどうであったか、どの段階のものであるのか種々の解釈があり、結論が出ていない。議論は、決着がつかない。議論している間に、苦悩する人は、人を傷つけ、回復困難な心の病気に陥り、自殺しかねない。議論を避けて、まず、こうすれば苦悩から解放されるという実践を主題にしたのが、仏教であったようであるが、実践しないで議論のみしていて曲げているのが仏教の学問になっているようである。
森氏は、実践、体得から、思想、理念を理解できるという。
現象として現われた無常・苦・無我を如実知見できれば、それを成り立たせている理法としての縁起も体得できているはずであり、また無常・苦・無我を如実知見できれば、縁起としてのものの見方・考え方を確立しているということにもなるであろう。芸術を制作し鑑賞するときに、必ずしも美学や芸術論というものを必要としない。しかし優れた芸術の製作者・鑑賞者は自然に美学や芸術論を身に付けていると喩えることができよう。後進の者はそうした芸術論を学ぶのではなく、むしろその結果である作品を学ぶことによって、それを体得するということである。(2)
初期仏教は、苦の滅が主題である。そして、苦の解決のために、煩悩(貪り、怒り、慢、悪見など)の捨棄を求める。「悪見」「慢」があれば、研究者でも、実践者でも、仏教がわかっていないのであろう。「慢」とか「悪見」を自分の心で実践的に洞察しなければ、仏教が実にわかったといえないであろう。
実践を強調した初期経典(八正道)も大乗経典(六波羅蜜)も、それを教えているのではあるまいか。
自分の好みで選択した、ある一つ(あるいは二、三つ)の規準で、「仏教ではない」「仏教である」と断定するのは危険である。時代や国が違えば、そういう学説を盲信する浅薄な信者が、自分の基準にあてはまらない説を唱える実践者を迫害、攻撃するのである。そういう危険をはらんだ、思想、仮説による断定は、釈尊もしていないはずである。仏教の最も大切なものは、縁起思想の有無、理解ではなくて、苦悩の原因の自己洞察、苦の現実的解決ではないのか。もう一度、仏教学・禅学を根本から見直してもらいたい。
(注)
- 森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年、536頁。
- 同上、537頁。
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