学問の批判
仏教の学問を批判する学者が多い
伊吹敦氏(東洋大学)による学問批判
一部の学者は、独断的、恣意的=社会的影響力は皆無
「こうした状況への反動と見なすことができるのが、近年、駒沢大学の一部の学者によって展開された「批判宗学」である。彼らは中国仏教、特に禅が中国的な思想の影響を多分に受けていることに着目し、それに対して厳しい批判の眼を向ける。しかし、禅に代表される中国仏教がインド的ならざるものであることは、今さら言うまでもない自明のことであって、その主張自体は何ら新しいものではない。そればかりか、その議論を見るに、資料の分析から議論を展開しようとせず、極めて独断的、恣意的なものとなっている。
従って、彼らの主張の多くは学問的にはほとんど評価すべきものを含んでいないのであるが、こうしたものが現われた背景には、仏教研究が実存の問題から切り離され、学問のための学問となってしまっているという現実に対する不満があるように思われる。実際、彼らの主張には現在の仏教をいかにすべきかという視点をしばしば窺うことができるのである。しかし、彼らには伝統的な禅修行に基づく人格の陶冶も社会的な実践も見られず、その主張もインド仏教を正当とする一種の原理主義に基づいており、現実に存在している仏教との接点を欠いているため、教団内では多少は注目されているものの、社会的影響力は皆無といってよい。」(1)
教団への批判
「高度経済成長によって、確かに日本においては貧困などの問題は、ほぼ解決したといってよい。しかし、世界には、まだそうした問題を抱えている国は多く、宗教家がその解決に無関心でいることは許されないはずである。また、日本においても、高齢化社会やターミナルケア、青少年の心の荒廃、カルト宗教の問題行動などが大きくクローズアップされてきている。心の問題は、いかに経済的に豊かになろうとも、それだけでは決して解決しえないものであり、正しく宗教が中心となって取りくむべき課題であるといえよう。にもかかわらず、禅宗を初めとして、どの仏教教団も、こうした問題に対しては、ほとんど何らの有効な提言も行なえていないように見受けられる。
もし、各教団が過去の伝統にしがみついて、儀式や決まりきった修行を行なうだけの生活に浸りきり、せいぜいのところ、宗派内でしか通用しないような閉ざされた「学問」に閉じこもり、不毛な議論に終始しているのであれば、やがて、その教団自体の存在意義が問われるのも時間の問題であろう。核兵器や地球環境の問題、世界的な富の偏在、生命倫理の問題などといった全く新たな問題に直面している今日、伝統や宗派の意味は、これまでになく軽いものになっているのであるから。」(2)
(注)
- 伊吹敦「禅の歴史」法蔵館、2001年、309頁。
- 同上、309頁。
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