Welcome 5 断食日記text version Welcome
旅する冒険ライダー坪井伸吾のページです

ホーム
上へ

毎回、このシリーズを書きながら悩む。正しい食卓というホンワカとした雑誌。しかも主夫日記と銘打ちながら、書いてるうちに話がいつも日常から離れていく。でも、それが僕と食との関係らしい。そういう訳で主夫日記最終回は僕が食の原点についてマジメに考えた日々の話です。

サンパウロにいた頃、入れ墨師から断食の話を聞いた。彼の経験では一週間麦パンだけで過ごした後に3日間水のみの生活をすると、腸に溜まった老廃物が宿便として出て、それからは若がえったように体調が良くなると言う。そのせいか、どうみても不健全な生活をしていそうな彼はやたら元気でもあった。しかし修行僧でもない人間に本当にそんな事ができるのだろうか?想像しようとしても僕の貧困な頭からはボクシングマンガの減量の絵しかでてこない。でも考えてみれば、普通に生活しながら断食なんかすると周囲に迷惑かけるのは間違いない。やるとしたら時間無制限の旅行者の今は絶好の機会だ。取り敢えず無理だったら止めたらいいや、そんな軽い気持ちで僕は断食生活を始める事にした。

  さて実際やるとなると自分なりのルールを作る必要がある。まず、すべき事はこの日本人旅行者の溜まり場である安宿を出る事だ。修行僧みたいに洞窟にこもるというのもなかなかいいが、もし起き上がれないような事態に陥ったら、これはしゃれにならない。いろいろ考えた末、場所は海辺の安宿を一か月借りる事にした。それともうひとつ、この際どうせなら修行っぽく世間とのつながりを絶った方が面白そうだ。以前、バックパッカーの書いた本で読んだのだが『する事がないのでタイの浜辺で毎日ハンモックで寝ていたら、今までバラバラだった記憶のかけらが始まりから今日まで全部つながってひとつの流れになった』というのがあった。もしかしたら僕にもそれが可能かもしれない。人と話をしない。時計は使わない。何も食べない。何もしなかったら人は退屈するはず、その退屈を克服したらどうなるのだろう?それにもし水だけで何日でも平気なら、これから行くアマゾン川イカダ下りでそんな状況に陥っても余裕をもって対処できるはずだ。考えを広げていくと断食に挑戦する事そのものが、どんどん魅力的になってきた。

 宿のおばちゃんに『僕はこれからしばらく断食するから痩せると思うけど心配しないでね』と言うと、おばちゃんは信じられないって顔で『それは宗教的なものか?』と言った。日本語で説明できないものをポルトガル語で説明できるはずもない。取り敢えず入れ墨師に教えてもらった麦パンと水を買って断食一日目を始める。

 二日目、時計がないので何時に寝て何時に起きたのか分からない。外が明るいから朝だ。時計なしにしてみると、いかに自分が時間を気にしてるか良く分かる。特に昨日は夜が長くて困った。やっぱりパンだけにしてみると味に飢える。ステーキ、すき焼き、いろいろと頭によぎるけどまだ堪え難いほどじゃない。気温は36度、それよりジュースが欲しい。 三日目、ついに腸の中がパンだけになったらしい。ウンコが変わった。今日から日々の生活と夢を日記につけることにした。それとやっぱり退屈はキツいのでポルトガル語の勉強だけは認めよう。旅行中は食べ物は腹を満たせば安いほどいいと考えてたけど、それはまだ食べ物を自由に選べる状態だったからで、実際断食してみて初めて食について考える。高山病になって空気を知り、断食で食を知る。物の価値や有り難みを失わないと分からないなんて、そんなに感覚が麻痺してるなら時折自分をこんな状態に置く必要がある。

 四日目、体重が58から53・7に。時計がないと時間がやたら長く感じる。頭が重く力が入らない。一日中、日記を読んで旅行中の世界にトリップする。今ふと思ったけど風邪を引いたらこの生活を中断せざるえない。どうも喉の調子が悪いので買ってきた薬。レモンの味が付いていてムチャうまい!なんでもいい味付きの物が欲しいな。

 五日目、立ちくらみがするようになってきた。時間の感覚が麻痺してない。体力の減退している分は余計なエネルギーを消費しないように、体の方が調節して睡眠時間を長くしているようだ。さすがにいろんな食い物が頭をよぎるようになってきた。断食開けの調整は早く済ませて、いろんな物を食うぞ。体の中から悪い物が抜けつつあるのか肌がきれいになってきた。体もかなり馴染んできている。

 六日目、咳がひどいのでまた薬を買う。体重は53・6、あんまり変わらない。F−1がどうしても見たくなりサンパウロに電話。久し振りに言葉をしゃべって、なんだかほっとする。海を見に行ったら疲れがひどく熟睡。それでも不思議な事にアマゾンに行きたいという意欲がフツフツと沸いてくる。このエネルギーは一体どこから出てくるんだろう。 七日目、ポカポカと気持ちのいい天気の中、静かな入り江で海釣り。すごく穏やかな気分。すき焼き、焼き鳥、水炊き、刺身、寿司、青空を見ながらいろいろ空想する。どうやったらウマい料理が出来るのだろうと考えるのは楽しい。なにか味の濃い物が欲しい。

 八日目、Fー1を見るためにサンパウロに行く。予想に反してわりと平気で動ける。昼、日本人宿の台所で誰かが作っていた肉汁の匂いに耐えきれずに外に逃げる。結局、ここで何もしない事は回りの迷惑になる事に気付いて、掟破りだけど麻雀してしまう。今まで静かな環境にいたせいか、やたらうるさく感じてほとんど寝れず。

 十日目、朝、麦パンだと思って買ってきたパンが普通のパン。塩分が少ないせいか、味が頼りなくすごく寂しい。味の薄い物がこんなにまずいとは。麦パンも慣れるとなかなかいける味だと思う。明日から本格的に断食だ。取り敢えず買ってきたパンは勿体ないから食べよう。

 十一日目、最近夢が映画のように派手だ。脳の中の眠っていた細胞が動き出したのかもしれない。子供の頃に見たのにまだ覚えている夢を思い出し自分なりに分析してみる。強烈に残っている夢はなにか精神的な暗示のような気がする。昨日のパンの残りを昼に食べたのを最後に断食に突入。体重が51・5まで落ちる。釣竿を修理したけど果たして明日海まで歩く体力があるだろうか?夕方、海辺に座っているとこんな日をずっと待っていたような幸せな気分になる。人と話さない事が苦痛ではなく、むしろ人と話す方が苦痛だ。この感覚は危険なのだろうか?さすがに腹が減る。でも体重が減るのが妙に快感だ。ダイエットから拒食症になるのはこんな感じだろうか?

 十二日目、ついに来た。苦しい!まさかこれほどとは。四六時中、空腹に悩まされると同時に立ち上がる度に貧血で目の前の景色が消える。断食を始めたばかりだからしんどいのか?それともますますしんどくなるのか?今日ここに来て始めて退屈を感じた。勉強する気力がなく、釣りに行く体力もない。しかも妙に目が早く覚めて時間の処置に困る。ともかく何か他の事に注意を向けてないとキツいので映画を見に行く。この際、何もしないことより、断食を継続する事の方が重要だ。しかし映画に出てくるケーキはキツかった。夜、扇風機を動かそうとして重くて落としてしまう。そろそろ限界かな。

 十三日目、あんまり腹が減らなくなった。人間の適応力はすごいもんだ。朝、目が覚めてからベッドから降りるのに数時間かかる。頭がぼけて行動を起こすための意思決定がなかなかできない。以前、栄養失調になった時と同じだ。そのせいか頭の中で次々と記憶の世界が広がり何時間でも遊ぶ事ができる。腹は腹筋を残して何もなくなった。気味が悪いほど腰の回りが細い。皮膚を通して心臓の鼓動がみえる。でも、まだ勉強はできる。時々何が食べたいという具体的で猛烈な食欲に襲われる。暑いはずなのに妙に寒い。

 十四日目、歩くとふくらはぎが吊るので部屋から外に出れない。自分でも驚くほど勉強する。それ以外はずっと思い出の世界に浸っている。人は死ぬ時に今までの記憶が走馬灯のように走るというが、今は思い出そうとしているのではなく思い出の方が勝手に出てくるのだからそれに近いのかもしれない。そろそろ宿便がでるのか腹がゴロゴロする。動けないので退屈だ。

 十五日目、ついに体重が50を切った。49キロ!まだ宿便はでない。歯ブラシを持つと重いのが、なかなか笑える。海辺まで辛うじて歩けたが散歩するだけの筋肉がない。今日は記憶の始まる頃から10歳ぐらいまでの出来事が飛来した。和歌山の家や裏の空き地や線路が見えてきて、ブロック塀にボールを投げる亀さんとかしげちゃんや仮面ライダーカードを自慢する得津などが現れ、それに連なる記憶へと拡散していく。ほとんど写真も残ってないから、それはもう頭の中だけの世界だ。もう食欲はなくなった。水も一日コップに半分もあればいける。。

 十六日目、高校までの記憶が蘇る。28年というのは結構重たいもんだ。僕のような凡人にもこれだけのドラマがある。体重が48に、一体どこの肉がおちているんだろう。

 十八日目、今日は朝起きてから日が沈むまで起き上がれなかった。もうぼちぼち限界か不思議な事に腹のやせ方がマシになってきた。

 十九日目、一体何が起こったのか妙に元気になった。体重は47キロ、でも歩ける。何か不思議な自信が、これは何だ?

 二十日目、宿便がでないので最終兵器の下剤を飲む。たった二つの薬が胃に入っただけで急に頭が冴えた。

 二一日目、今日で水だけで10日目。でもまだ継続は可能だ。一体人間って水だけで何日平気なんだ?でも心肺機能が低下してきたのか息が苦しい。特に寝ると苦しい。宿便はでなかったけど、これ以上は危険だろう。もうこの辺で終わろう。

 二十二日目、体重四六キロ。なんか世界が変わってしまった。久し振りにパンを口にすると味が濃すぎて少ししか食べられない。部屋にあった健康飲料を飲む。うまい!パン以外の味は22日ぶりだ。しかしこれもこんな強烈な味だったかな?味を忘れたのか、味覚が変わったのか?体力がないのは昨日と同じはずなのに、なぜかスーパーまで歩ける気がして、そして実際に歩けた。なぜ歩けると思ったのか?この自信は一体どこから来たのか?それが一切れのパンからきたとしたら、それって凄い事じゃないのか。スーパーで牛乳、バナナ、ヨーグルトをかってそれも全部食べてしまった。たった、それだけで今日は立ちくらみすらない。昨日は遠足に行く前の小学生のように早く物が食べたくてウキウキしてたのに、一度食べてしまうと妙に落ち着いた。少し塩気が欲しいな。

 二三日目、驚くべき回復力だ。断食中はベットから起きるのもキツかったのに今日は1キロも歩けた。しかも異常に気分壮快で寝苦しさなんて微塵もない。久々にウンコが出る。ほとんど食ってないのにこんなに出るということはこれが宿便か?とりあえずバンザイだ。 二四日目、体重が48キロになっている。今日は甘い物と塩付きの物を食べてみる。まだ熱い物や固い物、辛い物は胃にかける負担がキツそうだから徐々に増やしていこう。いい機会だから甘い、塩辛いの味の再確認だ。甘さはずっと体が欲していたし、同時に塩分のある物も食べたかった。やっぱりなんか味が変わった気がするがどちらも本当うまい。時計を付けると今まで時間の無駄遣いをしていた気がする。何もしないでいられない。それなのに勉強する気はしないし、もう空想や記憶の世界に入れなくなった。

 二五日目、熱い物、辛い物、刺激物、全部解放。それぞれの味の再確認。食べ物の制限を無くしたら、これがどうしても食べたいという物がなくなってしまった。自分で日本食作って食べたいなぐらいの軽い気持ちしか起こらない。あの気が狂いそうな食欲はどこにいったんだろう?でも甘い、塩辛い、辛い、熱い、酸っぱい、苦い、ゼロからのスタートはひとつひとつの味が何であったのか?考える本当のいい機会だったし、一切れのパンが与えた自信。これは絶対忘れちゃいけない事だと思った。これ以降、体重は毎日1キロづつ増え、10日もするとほぼもとに戻った。僕は物を知るのに理屈だけじゃ納得できず、体験と両方揃って初めて理解する。バカバカしくてもやってしまうのだ。でも、それでいいと思うし、今後、食に対してもその姿勢でいきたい。今回で主夫日記は終りです。長い間付き合っていただき、ありがとうございました。

『正しい食卓』1999年

This Homepage is maintained by Keiko Tsuboikeiko@a.email.ne.jp
©坪井伸吾 このサイトに置かれているすべてのテキスト、画像の無断転載を禁じます