4 弁当屋の思い出text version
旅する冒険ライダー坪井伸吾のページです

ホーム
上へ

最近、嫁さんが弁当を作っている。それを横目で見ながら、主夫としてはこれもすべき仕事なのかと密かに自問する。彼女はそれを細長いプラスチックの弁当箱に入れる。量が足りないのじゃないか?と思うがちょっと太り気味だからそれでいいのだそうだ。

子供の時は起きたら弁当が出来ていたから中身だけにしか関心がなかったけど、こうして目の前で作られると何品ものおかずを作る手間に圧倒されてしまう。僕も以前工場で夜勤をしていた時は、一食分浮かすために自作の弁当を持参していた。でも、それは晩ごはんの残りを詰めただけの物だったので、おかずはいつも一品だったし、弁当と呼べるだけの美しさがなかった。

そう、うまけりゃいいと実用的な料理ばかり作って来た僕では、悔しいけど嫁さんの美的センスにはかなわない。味では負けてないのに、食器の選び方や料理の並べ方の違いだけで彼女の料理の方がウマそうに見えてしまうのは、なんか納得いかないものがある。でもこと弁当に関しては、その差は大きい気がする。弁当は自分が食べる物でも他人の目にも触れるから、そこからいろんな物が見えそうだ。

僕が弁当が気になるのはいくつか訳がある。ひとつは一〇年前に兵庫県の山奥の工場で働いていた七か月間、毎日ほか弁を食べていた事だ。やたらと景気の良かったその頃、工場での残業は無制限だった。一日一六時間、土曜日は二四時間も働くと外でごはんを食べるヒマもない。しかし、それ以前の問題としてその工場には食堂がなく、あまりにも田舎にあったため周囲にも食堂など存在しなかった。そのため会社は町唯一のほか弁屋と契約し、僕らひとりひとりに名前入りの弁当注文伝票を渡していた。しかしいくら種類があるといっても弁当はせいぜい二〇種類。昼、夜と食べてるとさすがにイヤ気がさしてくる。そうなるとなんだか弁当がまずく思えてきた。

ある日、同僚の弁当に入っていたキャベツが腐っていた。ささいな事だが食べる事しか楽しみのなかった僕らには結構それは頭にきた。しかし、それより腹立たしかったのは電話で苦情を言った彼にほか弁屋が『そんなはずない』と逆に怒鳴った事だった。その翌日、彼が注文していたノリ弁当のふたを開けたらなんと!ノリが入っていなかった。ノリなしのノリ弁・・、その子供のような嫌がらせと言葉を失った彼の姿に僕らは思わず大爆笑してしまった。

しかし再び怒りの電話をかけた彼に『もう注文してくれなくてもいいよ』と言ったほか弁屋の態度は笑えない。いくら独占企業だからって、それはないだろう。ここに来て普段はコアラのようにおとなしい僕もついに立上がった。自分達で弁当を作って不買運動を展開しあのオヤジをこらしめてやろうと思ったのだ。しかし、実際やってみるとただでさえ少ない睡眠時間がさらに減り、結局はまたほか弁を食べ続ける事になってしまった。以来、僕は弁当屋が嫌いになった。

ところが何の因果かある時僕自身が弁当屋で働く時がきた。アマゾン川イカダ下りの資金稼ぎのために不法滞在していたブラジルからニューヨークへ来た僕が見つけた仕事が弁当屋の売り子だったのだ。その店は昔から常に旅行者を雇っている事で長期旅行者の間では知られた店で、地下室に住んでもいい事と弁当の売れ残りを食べてもいいという条件は、お金をためるには文句なしだった。

その店では弁当は毎日五種類あった。その中の定番の幕の内と寿司を除く三種類は日替わりで、店長が季節物のカナダ産マツタケやソフトクラブシェルなどを仕入れた場合は急遽、もうひとつ弁当が増えることもあった。僕の仕事は早起きして弁当を詰める事と配達だが、地下室に住んでるから通勤時間はわずか一〇秒だ。

トントントンと階段を上がると僕の弁当屋での一日の始まる。八時、配達開始。ここで配達組は歩いて行けるワールドトレードセンターやウォール街と地下鉄で行く四二stから五九stにかけて日本の企業の事務所が集中している地域とに別れる。歩いて行ける近場は純粋な配達でベテランのおいしい仕事。ここではアメリカ方式で普通一つの弁当ごとに一割ほどのチップがもらえる。

しかし本当に面白いのはチップなど出ないミドルタウンだ。ここで僕らはひとりだいたい四〇個の弁当を持って受け持ちの地区へと向かい、昼ごはんの時間に間に合うように各企業のオフィスや休憩室を回る。現場に着けばカバンから取り出した弁当を並べるのだが、この弁当は注文を受けた物じゃないので『今日は、こんな物を持ってきましたけど、いかがですか』と行商する事になる。

問題はここからだ。企業側の指定した時間にそこに行くと二社のライバル弁当屋達がいる場合がある。その時はひとつの机に全員が弁当を並べて競争だ。僕は時給で働くアルバイトだから、売れても売れなくても給料には関係ない。それは他の店のバイトも同じ事なのだが、こういう状況になるとやはりみんな自分の弁当を売ろうとムキになる。当時、僕らの店の弁当は主力の物が六・五ドルで他の店より高かったのだが、幸い内容的には自信を持って勧められたし、老舗ゆえの固定客もいたので僕でもなんとか商売できた。

ここで最大のライバルだったのは五・五ドルの弁当を売る男だった。僕は最初N・Yでバリバリ働いている高級取りのサラリーマンなら、一ドル程度の違いであれば絶対内容で選ぶだろうと思っていたのだが、現実はそう甘くない。それに加えてこの男の武器である明石屋さんまのような話術は凄かった。彼がしゃべり出すと回りが催眠術にかかったようになり、ひとりが買ったら周囲もつられてしまう。

彼に比べるともう一社は弁当もアルバイトもこれといった売りがなかった。それでも僕らが現場に到着するのが遅れたりすると地味な彼はしっかり弁当を売っていた。その三つ巴の争い中に、ある日いきなり強力なおばちゃんが割り込んできた。この人の武器は長年N・Yに住んできた事から出てくる人脈と情報、それと我々、若手の貧乏アルバイトには絶対出来ないゴルフの話だった。ずっと海外にいたから知らなかったけど、その頃日本では笑ってしまうような高値のゴルフ会員券が出回っていたらしく、そのせいもあってかN・Yのサラリーマンのほとんどはゴルフにはまっていた。

強力なライバルの出現に焦った僕は慌ててゴルフネタに対抗出来る手について考えたが、やはりすぐにはアイデアが出ない。とにかくお客さんには弁当屋さんじゃなくて個人として覚えてもらおうと思い、ある日真っ赤なアロハを来ていくと、これが意外と受付嬢達にうけた。不思議なもので彼女達が話しかけてくれるようになると、その会社の社員も僕に興味を持ってくれ随分、仕事がしやすくなった。

配達先の日本の企業で働くアメリカ人の中には日本で育った人も大勢いた。中には僕が今日は冷麺を持ってきましたと言うと『冷麺!あなたは関西の人ですか、関東では冷やし中華というんですよ』と訂正するほど日本語通の人までいた。でも弁当を持っていくのはそんな会社ばかりではなく、逆にアメリカの会社で働く日本人のために持っていく所もある。

そこで困るのが、弁当の具に関してのアメリカ人からの質問だった。うな丼を持っていった日の事だ。背の高い白人に『この魚は何だ?』と聞かれて勉強不足の僕は困ってしまった。当たり前だけど、うな丼には鰻がごはんの上にのってるだけで、他には何もない。『EEL』という単語を知らないと細くて黒い魚としかいいようがない。焦った僕はその会社にいた日本人に教えを請うた。するとサラサラと流暢な英語で白人に説明したその人は『大変ですね』といって、なんと弁当を買ってくれたのだ。

そうか、この手があったのか!日本人にとって英語がしゃべれるという事はかなり自慢なのだ。だったらそういう状況を作って自尊心をくすぐればいい。それからはそんなケースにぶつかると僕には逆にチャンス到来となった。こんな風にしてしゃべりが得意でない僕でも弁当はなんとか売れた。

でも個性派揃いのバイトの中では面白い話はいくらでもある。同じ店にいた某音学院オペラ科特待生のイチロー君はある日、初めて行った会社で『勉強してるなら、ここで一曲歌ってみろよ』と言われ、いきなり大声で歌ったらしい。『いやぁ、そんな人様にお聞かせ出来るような』と言う日本人的な答が帰ってくると思っていたその社員は彼の度胸と美声に驚き、それ以降、その人からはイチロー君と名指しで注文が来るようになった。

先にも書いたけど僕らは時給で働いていた。でも全員が店に帰ってきた時に今日何個売れたかはそれぞれに自慢だったし、また一個でも多く売ろうと思うと何かしら発見があった。しかし、その場で売るという方法は努力しても、かならずどこかに無理が出る。 

 僕らの店ではそれぞれのバイトが自分の受け持ち区域で翌日、売れるだろう弁当を種類別に予想して店長に数を報告していた。この数の予想が楽しくもあり、難しくもあった。弁当が売れるかどうかは結構天候に左右される。雨降りや外にでるのがイヤな天気の日などは売れる確率はぐっと上がる。それに加えてお客さんの好みを把握する事が重要だ。前日に誰がどの弁当を買うか予想し、その予想通りにその人達が動いてくれるのは競馬の予想にも似た楽しさがある。しかし全く予想がはずれて大量に売れ残る日もある。そんな日は店長に申し訳なくて帰るのが辛かった。

弁当を完売するの事は難しくない。少なめに持っていけばいいだけだ。でも、それで途中で売り切れた場合は今度は待ってくれているお客さんに『売り切れました』と電話しなければならない。これも、また辛い。僕はなるべく最後のお客さんにもいろんな種類を持っていきたくて、途中で売れ方に偏りが出てきた時には『すいません。今日はもうこの種類しかなくて』と嘘までついて弁当を残していた。

この矛盾をなんとか解決できないだろうか。模索していた僕に二つの案がうかんだ。ひとつは営業途中で別の売り子と合流して、お互いの売れ方の偏りを弁当の交換によって修正する方法。もうひとつは新しい弁当を作って種類を増やし、最後のお客さんの選択余地を少しでも増やす事だ。前案はただちに実施して、それなりの成果を上げたが問題は後案だった。

店長は『そんな簡単な物じゃない』と言ったが、こんな事は悩むよりお客さんに聞いた方がいいのでは。そう思った僕らはアンケートを作って売り子全員で得意先の市場調査をやってみた。そしたら実にいろんな答が帰ってきた。店長はその中で希望の多かった『冷やっこ』を使った弁当を作ったが、夏場に豆腐を冷たい状態で保存するのが難しく、この弁当は失敗だった。新弁当を作るというのはやはり店長のいうように簡単な事ではないようだ。いつのまにか僕は嫌いだった弁当屋の仕事にのめり込んでいた。

そんな、ある日思いがけない失敗があった。自分で新規開拓した会社でお客さんから『キャベツが腐っていた』という苦情を受けたのだ。その頃、ネタの仕込みもやり、弁当にも自信を持っていた僕はその苦情を確認する事もなく即座に否定してしまった。それ以降、その人は配達に行くと隣の部屋に行ってしまう。

このお客さんはまさに昔の自分自身ではないか僕のすべき事はまずこの人の話を聞くことだったはずだ。その事に反省した僕はそれから注意してお客さんを観察するようになった。するとその中に信じられない人がいた。その人は20年来うちの弁当を食べ続けてくれているすごい常連さんで、寿司を食べたけでそれが店の誰が握ったものかまで分かってしまうのだ。この人には言い訳など通用しない。そう思うと恐ろしくなった。

また、ある時某商社に行くと弁当を買いにきた社員が『お!そのオカズ使ってんの。それうちで作ってんだ。クセになるだろ。なんせクセになるもの入れてるからなぁ』と言った。言われてみれば確かに僕らアルバイトのほとんどはその明らかに体に悪そうな着色料だらけのオカズにはまり、つまみ食いばかりしていた。でも、それって犯罪じゃないのか?習慣性のある物を食材に混ぜる。こんな商売がありなら、それこそ究極の商品が出来る。

ん、ちょっと待てよ、これを応用すれば売れる弁当が出来るんじゃないか?一瞬そんな考えが浮かんだ。でも、まさか食品業界もそこまでやってないよね・・。こんな試行錯誤を繰り返しているうちにN・Yでの弁当屋生活は過ぎていった。

『正しい食卓』1999年

This Homepage is maintained by Keiko Tsuboikeiko@a.email.ne.jp
©坪井伸吾 このサイトに置かれているすべてのテキスト、画像の無断転載を禁じます