2 ユートピアは食の祭典 text version
旅する冒険ライダー坪井伸吾のページです

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7年前に一か月ほど農業を経験したことがある。こんな事書いたら『一か月で何が分かるんだ!』と怒られそうな気がするが、それは50種類ぐらいのバイトをやった事がある僕にとっても最も印象深い仕事の一つだった。その頃、僕はブラジル、サンパウロの日系人街に不法滞在していた。旅に疲れた日本人旅行者達にとって、日本語だけで何でもできる町は一種のオアシスだった。そこにひょっこり農場で働いていたという人がやってきた。彼の話ではここから600キロ、内陸に入った所に弓場(ゆば)農場という弓場一族の農場があり、そこではある日いきなり訪れた旅行者もその日から農場の一員として迎えてくれるという。『あそこはユートピアよ。俺、あそこで生きていけるかどうか、今ちょっとマジに考えている』と彼は言った。この人にここまで影響を与える“弓場”とは一体何なのだ?なぜ束縛を嫌う旅行者が逃げ場のない農場に入ろうとするんだ?考えれば考えるほど不思議だった。

『弓場に行ってみようか』ある朝、同室の但木(ただき)さんはいきなりそう言った。但木さんも彼の話を聞いてから弓場の事がずっと心に引っ掛かっていたらしい。僕にも異存はなかった。僕らはその場で弓場行きを決めた。但木さんはその頃すでに40代半ばで長期旅行者の中でもかなりの古株だった。旅行者の仁義として過去の詮索はしなかったが、時折ふいに出るアジ用語が学生運動の過去を物語っていた。それに但木さんはもとから農業に興味があったらしい。以前、今話題の山岸会に所属していた事もあったが、その時は農場の女性と強引に結婚させられそうになり逃げ出したとも言っていた。

夜行バスの中でそんな話をしながら僕らが農場に着いたのはもう昼だった。本当にいきなり受け入れてもらえるのだろうか?かなり不安なままバスを降り農場に足を踏み入れると、マリアンと名乗る元気のいい30代ぐらいの日系人女性がてきぱきと案内してくれた。不思議な事だが、何の苦もなくその瞬間から僕らは農場に受け入れられた。滞在者用の部屋で一服してるとバスの疲れが出て何時の間にか眠っていた。しばらくして誰かが部屋に入ってきた物音で目が覚めると、一年前にチリの安宿で一緒だった須佐さんが立っていた。彼もここが気にいって半年前から住んでいるという。

久し振りに話をしていると外で奇妙な音がした。須佐さんが『晩飯の合図だ』とい言うので外に出てみると、空地の向こうで小学生ぐらいの女の子が角笛を吹いている。少し赤くなった空をバックにして、その光景は童話の世界だった。少し様子を見ていると向かいの家にばらばらと人が集まってくる。須佐さんに連れられてその家に入ると、すでに巨大な鍋がいくつか並べられ、農場の人達がそれぞれ自分の好きな場所に座って雑談していた。全員で100人近い人達が席に着くと食事の前のお祈りがあり、続いてマリアンから僕らの紹介があった。僕らが照れながら挨拶するとみんなの目が笑っている、その余りにも健康的な笑顔を見てると旅行者である自分が後ろめたかった。それから各自好きな物を自分で皿に取り始めた。僕らが同じように列に並んでも誰も驚く事も奇異の目で見る事もない。

その日のメニューはよく覚えていないがゴハンにオクラと野菜の炒め物、焼きシイタケもあったような気がする。これはすべて農場で取れたもので、味付けは結構脂っこく、和風というよりもブラジル風の味付けだった。使った皿は各自で洗い、生ゴミは指定のゴミ箱へ、ここには長年の間に出来た農場のルールがあった。食後、食堂で旅行者同志で話していると自家製の自酒、ピンガを持ったチャックと名乗る変なアダナの40歳ぐらいの人が隣に来て酒をついでくれた。一杯飲むとかなりきつい。チャックさんも飲みながら『坪井さん、あなた何ができますか?』と言った。僕はドキリとして言葉につまり但木さんと顔を見合わせた。何の専門家でもない僕には、これができますと自信を持って言える事は何ひとつなかった。

『グアバ摘み、大工、農機具の修理、シイタケの栽培、どれも嫌だったら別に何もしなくてもいいです。ここにいる限り宿、御飯の心配はいりません。どうしますか?』。なんだか何をやっても足手まといになりそうな気がするが、そもそも僕がここに来たのは農業をやってみたかったので、グアバ摘みをやらしてもらう事にした。それにしても『やりたくないなら何もしなくていいです』というのはすごいセリフだ。

翌朝、6時起床。それまで完全に夜型の生活をしていた僕らにはそれだけで充分きつかった。食堂に行くとトーストとゆで卵があった。それとコーヒーで簡単な朝食。朝は時間の都合か和食ではない。作業着に着替えるとちゃんと弁当は僕らの分まで出来ていた。作業リーダーの勝ちゃん、橋本のおじさん、旅行者3人がトラクタ−に乗ってトコトコと畑に向かう。畑ではカマラーダと呼ばれるブラジル人の日雇い人夫達が待っていた。一通り説明を受けて作業開始。僕はそれまでサンパウロでもグアバジュ−スを飲んだ事はあったが、じっくりと見るのは初めてだった。ましてや、どんな状態で育っているのかは想像したことすらなかった。以前、パイナップルは木になるものだと思っていたら、実は地面から生えていたのを見て心底驚いた事がある。僕はグアバの実を見ながらその事を思い出し、自分が本当に知るべき事はむしろこんな事じゃないかと思った。グアバの木はそれほど大きくなく、ほとんどの実は手の届く範囲内にあった。取る時に注意する事は実を傷つけない事と小さすぎる実や青すぎる実を取らない事だけど、収穫してから消費者の手に届くまでの時間を考えたら熟れすぎる前に取らなくてはいけない。

そんなに難しいとは思わなかったが僕は遊びながらやってるように見えるカマラーダ達のスピードに全くついていけない。意地になってやってると、昼すぎにはもうフラフラになった。サンパウロとここでは陽射しの強さも空の青さも東京と沖縄ぐらい違う。喉が乾いたのでグアバをひとつ齧ってみる。ちょっと青臭かったが中身の赤い果実は甘く、したたる汁ですぐ手がベタつく。ここに居たらこれがいつでも食べられると思うとちょっといい気分だ。昼、畑の中の小屋で化学肥料の袋に腰掛けて弁当を開けた。

白いゴハンに梅干し、サラダ菜と昨日の晩御飯の残りのいため物。でも、ちょっと食べてみて違和感がある。昨日も思ったけどお米がサンパウロの日系人街で食べていた物とは違う。かといってブラジル人の定食屋で出されるお米とも違う気がする。勝ちゃんに聞くと、このお米は陸稲「おかぼ」と呼ばれる畑で取れる種類だという。「おかぼ」なんか名前だけは聞いた事がある。そう言われればブラジルで水田をまだ見ていない。ん、まてよ。じゃブラジル人が食べてるのもおかぼかな?考えてると眠くなってきた。横ではカマラーダ達がコーヒーを飲みながら御飯を食べている。妙な感じだが、僕も海外ではコカコーラを飲みながら定食を食べてるから同じようなものか。

気が付いたらみんな寝ていた。中南米ではシェスタといって昼寝の習慣がある。旅行者には迷惑極まりない習慣だが、一緒に働いてるとここまで暑いと仕事なんて出来るかという気分になってくる。夕方、収穫を終えた僕らはまたトラクターでトコトコと帰ってきた。嬉しい事に弓場にはフロがある。海外を貧乏旅行してるとバスタブのあるホテルに泊まるなんて事はまずない。湯をはったフロに入るのなんて半年ぶりぐらいだ。労働の後のフロ、これですよ、これ。風景が違ってもやっぱりここは日本です。

昨日のように大食堂で晩御飯を食べてから部屋に帰ってくつろいでいると遠くでトランペットの音が聞こえた。須佐さんに聞くと農場の人達は自作の創作バレエを手掛ける芸術集団でもあり、個人的に楽器が出来る人も多いそうだ。今、トランペットを吹いている人は東京農大のOBで農場の女性と結婚してここに住み着いた人であり、シイタケ栽培を手掛ける人も元自転車で世界旅行していた旅行者だったという。つくづくここは不思議な場所だ。

何日か同じような日が過ぎ、次に僕が畑で教えてもらったのは枝打ちと間引きだった。それまでグアバの実は取りやすい高さにあると思い込んでいたのだが、実際は盆栽のように木に手を加え実が取りやすい高さに来るように枝を切っていたのだった。グアバの木には二つの種類があった。ひとつは高く伸びていく木。もうひとつは地面に枝がどんどん垂れてくる木。高くなる木は高くなりすぎないように枝を切り、低くなる木は実が地面に付かないように枝を切る。それから一つ、一つの実が大きくなるように、実が固まってなっている所をみつけると2、3個残して他の実は捨てる。最初は勿体ない気もしたが成長の早いグアバは次の週には、その答を見せてくれた。

実際、グアバは信じられない成長をしていた。農場には5つの畑があり、それを一日ずつ順番に回り最後の日に枝を打つ。翌週、最初の畑に戻るともう実がしっかりなっているのだ。ブラジルの気候がそうさせるのか?それともグアバがすごいのか?農業初体験の僕にはその辺は分からないが、とにかく収穫がとぎれる事はなかった。そのグアバ畑の隣には他の農場のマンゴーの森があり、野生のアボガドも生えていた。マンゴーの木は体当たりすると実が落ちるので僕らは勝手にオヤツに食べていたが、その事をとがめる人は誰もいなかった。

ある特に暑い日、リーダーの勝ちゃんが『今日は暑すぎて仕事やる気しません、もう止めて釣りに行きましょう』と言った。それにはカマラーダ達も大喜びだった。トラックで畔道を一時間ほど走った川でピラニヤがガンガン釣れた。その日は晩御飯の後、ピラニヤを塩焼きにしてみんなでビールを飲んだ。網で焼いたピラニヤは牙が飛び出し、生きてる頃よりさらに凄まじい形相になるのだが、味はいける。足元にすり寄って来た農場の犬にピラニヤの頭を投げてやるとパクっと一口で食べた。ブラジルの大地は作物だけでなく、魚も豊富だった。身の回りの自然の恵みで生きていけるという安心感。ここに住み着いてしまう旅行者達はそんなものに引かれているのじゃないのだろうか?須佐さんはこのままここに住むのだろうか?但木さんは?僕は?時間と共にサンパウロで聞いた『俺、あそこで生きていけるかマジに考えている』という言葉が染みてくる。ゆるやかな原始共産制。但木さんが昔、学生運動していた頃に夢見た世界はこんな社会だったのかもしれない。

また、ある日チャックさんに近くの村で日系人同志の結婚式があるから行こうと誘われた。しかし僕は本人たちを全く知らないし、招待されているわけでもない。断ったら『こんな事は大勢で祝ったほうがいいんだ』と強引に車に押し込まれた。行ってびっくり、集まった人間は近隣の人達800人。村の公民館には収まり切れず、外ではもう勝手に宴会が始まっていた。さすがにこの人数では日本の結婚式みたいな特別な料理があるわけじゃなく、いつもの晩御飯とそれほど大差はない。

しかし凄かったのは、どさくさに紛れて来ている人間が全員かかっても食べ切れない料理、牛3頭分の焼き肉がジュージュー焼けて際限なく出てくる。そして、それらは僕らも含め集まっていたすべての人に遠慮なく振る舞われた。そのけたはずれな千客万来の結婚式には、人工的な変な演出がない分。食べるという事、祝うという事の原点が凝縮されていた気がした。

気がついたらもう字数が埋まっていた。ブラジルの食と日系人の食卓のレシピみたいな物を書くつもりでいたのに、あまりに懐かしくて旅行記と弓場農場礼讃になってしまった。でも、あそこには食の原点につながる答があった気がする。弓場は今でも旅行者を受け入れているはずだ。迷える人達は行ってみれば、きっと何かが見つかると思う。さてと懐かしいついでに本日はちょっぴり濃い目のブラジル料理でもするか!

『正しい食卓』1999年

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