翌朝、6時起床。それまで完全に夜型の生活をしていた僕らにはそれだけで充分きつかった。食堂に行くとトーストとゆで卵があった。それとコーヒーで簡単な朝食。朝は時間の都合か和食ではない。作業着に着替えるとちゃんと弁当は僕らの分まで出来ていた。作業リーダーの勝ちゃん、橋本のおじさん、旅行者3人がトラクタ−に乗ってトコトコと畑に向かう。畑ではカマラーダと呼ばれるブラジル人の日雇い人夫達が待っていた。一通り説明を受けて作業開始。僕はそれまでサンパウロでもグアバジュ−スを飲んだ事はあったが、じっくりと見るのは初めてだった。ましてや、どんな状態で育っているのかは想像したことすらなかった。以前、パイナップルは木になるものだと思っていたら、実は地面から生えていたのを見て心底驚いた事がある。僕はグアバの実を見ながらその事を思い出し、自分が本当に知るべき事はむしろこんな事じゃないかと思った。グアバの木はそれほど大きくなく、ほとんどの実は手の届く範囲内にあった。取る時に注意する事は実を傷つけない事と小さすぎる実や青すぎる実を取らない事だけど、収穫してから消費者の手に届くまでの時間を考えたら熟れすぎる前に取らなくてはいけない。
そんなに難しいとは思わなかったが僕は遊びながらやってるように見えるカマラーダ達のスピードに全くついていけない。意地になってやってると、昼すぎにはもうフラフラになった。サンパウロとここでは陽射しの強さも空の青さも東京と沖縄ぐらい違う。喉が乾いたのでグアバをひとつ齧ってみる。ちょっと青臭かったが中身の赤い果実は甘く、したたる汁ですぐ手がベタつく。ここに居たらこれがいつでも食べられると思うとちょっといい気分だ。昼、畑の中の小屋で化学肥料の袋に腰掛けて弁当を開けた。
白いゴハンに梅干し、サラダ菜と昨日の晩御飯の残りのいため物。でも、ちょっと食べてみて違和感がある。昨日も思ったけどお米がサンパウロの日系人街で食べていた物とは違う。かといってブラジル人の定食屋で出されるお米とも違う気がする。勝ちゃんに聞くと、このお米は陸稲「おかぼ」と呼ばれる畑で取れる種類だという。「おかぼ」なんか名前だけは聞いた事がある。そう言われればブラジルで水田をまだ見ていない。ん、まてよ。じゃブラジル人が食べてるのもおかぼかな?考えてると眠くなってきた。横ではカマラーダ達がコーヒーを飲みながら御飯を食べている。妙な感じだが、僕も海外ではコカコーラを飲みながら定食を食べてるから同じようなものか。
気が付いたらみんな寝ていた。中南米ではシェスタといって昼寝の習慣がある。旅行者には迷惑極まりない習慣だが、一緒に働いてるとここまで暑いと仕事なんて出来るかという気分になってくる。夕方、収穫を終えた僕らはまたトラクターでトコトコと帰ってきた。嬉しい事に弓場にはフロがある。海外を貧乏旅行してるとバスタブのあるホテルに泊まるなんて事はまずない。湯をはったフロに入るのなんて半年ぶりぐらいだ。労働の後のフロ、これですよ、これ。風景が違ってもやっぱりここは日本です。
昨日のように大食堂で晩御飯を食べてから部屋に帰ってくつろいでいると遠くでトランペットの音が聞こえた。須佐さんに聞くと農場の人達は自作の創作バレエを手掛ける芸術集団でもあり、個人的に楽器が出来る人も多いそうだ。今、トランペットを吹いている人は東京農大のOBで農場の女性と結婚してここに住み着いた人であり、シイタケ栽培を手掛ける人も元自転車で世界旅行していた旅行者だったという。つくづくここは不思議な場所だ。
何日か同じような日が過ぎ、次に僕が畑で教えてもらったのは枝打ちと間引きだった。それまでグアバの実は取りやすい高さにあると思い込んでいたのだが、実際は盆栽のように木に手を加え実が取りやすい高さに来るように枝を切っていたのだった。グアバの木には二つの種類があった。ひとつは高く伸びていく木。もうひとつは地面に枝がどんどん垂れてくる木。高くなる木は高くなりすぎないように枝を切り、低くなる木は実が地面に付かないように枝を切る。それから一つ、一つの実が大きくなるように、実が固まってなっている所をみつけると2、3個残して他の実は捨てる。最初は勿体ない気もしたが成長の早いグアバは次の週には、その答を見せてくれた。
実際、グアバは信じられない成長をしていた。農場には5つの畑があり、それを一日ずつ順番に回り最後の日に枝を打つ。翌週、最初の畑に戻るともう実がしっかりなっているのだ。ブラジルの気候がそうさせるのか?それともグアバがすごいのか?農業初体験の僕にはその辺は分からないが、とにかく収穫がとぎれる事はなかった。そのグアバ畑の隣には他の農場のマンゴーの森があり、野生のアボガドも生えていた。マンゴーの木は体当たりすると実が落ちるので僕らは勝手にオヤツに食べていたが、その事をとがめる人は誰もいなかった。
ある特に暑い日、リーダーの勝ちゃんが『今日は暑すぎて仕事やる気しません、もう止めて釣りに行きましょう』と言った。それにはカマラーダ達も大喜びだった。トラックで畔道を一時間ほど走った川でピラニヤがガンガン釣れた。その日は晩御飯の後、ピラニヤを塩焼きにしてみんなでビールを飲んだ。網で焼いたピラニヤは牙が飛び出し、生きてる頃よりさらに凄まじい形相になるのだが、味はいける。足元にすり寄って来た農場の犬にピラニヤの頭を投げてやるとパクっと一口で食べた。ブラジルの大地は作物だけでなく、魚も豊富だった。身の回りの自然の恵みで生きていけるという安心感。ここに住み着いてしまう旅行者達はそんなものに引かれているのじゃないのだろうか?須佐さんはこのままここに住むのだろうか?但木さんは?僕は?時間と共にサンパウロで聞いた『俺、あそこで生きていけるかマジに考えている』という言葉が染みてくる。ゆるやかな原始共産制。但木さんが昔、学生運動していた頃に夢見た世界はこんな社会だったのかもしれない。
また、ある日チャックさんに近くの村で日系人同志の結婚式があるから行こうと誘われた。しかし僕は本人たちを全く知らないし、招待されているわけでもない。断ったら『こんな事は大勢で祝ったほうがいいんだ』と強引に車に押し込まれた。行ってびっくり、集まった人間は近隣の人達800人。村の公民館には収まり切れず、外ではもう勝手に宴会が始まっていた。さすがにこの人数では日本の結婚式みたいな特別な料理があるわけじゃなく、いつもの晩御飯とそれほど大差はない。
しかし凄かったのは、どさくさに紛れて来ている人間が全員かかっても食べ切れない料理、牛3頭分の焼き肉がジュージュー焼けて際限なく出てくる。そして、それらは僕らも含め集まっていたすべての人に遠慮なく振る舞われた。そのけたはずれな千客万来の結婚式には、人工的な変な演出がない分。食べるという事、祝うという事の原点が凝縮されていた気がした。
気がついたらもう字数が埋まっていた。ブラジルの食と日系人の食卓のレシピみたいな物を書くつもりでいたのに、あまりに懐かしくて旅行記と弓場農場礼讃になってしまった。でも、あそこには食の原点につながる答があった気がする。弓場は今でも旅行者を受け入れているはずだ。迷える人達は行ってみれば、きっと何かが見つかると思う。さてと懐かしいついでに本日はちょっぴり濃い目のブラジル料理でもするか!