ジャンク闘病日記2001

 

登場する病院名、個人名は全て仮名ではありますが、一部そのまんま過ぎる表現もあります。ごめんなさい。

3月にムチウチのような症状が出て以来、ずっと右肩が痛んでいた。単なる肩こりなんじゃないかと言う人も居たが、左肩は時々しか痛くならないし、説明し難いのだが肩こりとは全く感覚が違う。
整形外科に通って低周波治療と牽引を続けたものの、なかなか完治しない。消炎剤を飲んだりもしていたのだが、胃を傷めて何度か吐いてしまった。
8月に台風が来た時は低気圧と湿気のせいで肩から神経が飛び出したような痛みにも襲われた。

ちょうどその頃、右耳の外耳炎と右目の結膜炎も患った。その頃はなにか大きな病気との関連性を疑う事はなく、単に消炎剤を飲んでいたから抵抗力が落ちていたのかな、という考えに落ち着いていた。その時は、症状が出ているのは全て体の右側、という事実から何らかの関連性を見出すことは出来なかった。

9月11日
4年ぶりの優勝が手の届くところまで来ているというのに、とうとうスワローズ8連敗。連敗の最終日を飾るに相応しい負けっぷりを見せてもらった。そしてそのショックを吹き飛ばすような大惨事。同時多発テロ事件。何度もビルに飛行機が突っ込むあの映像を見せられたが、何度見ても現実感が沸いて来ない。結局深夜までTVに噛り付いていた。
様々な不安が浮かんできた。この先世界はどうなるのか。戦争になるのか、世界恐慌が来るのか、それより万一ペナントレースが中止になったら現時点での勝利数一位チーム、ジャイアンツが優勝、という事態に陥るのではないだろうか、
そ、それだけは・・・などなど。

9月14日
夕方から近くの寺田記念病院へMRI検査に行く。この近くでは最も大きく、新しい設備の整った総合病院。肩がなかなか完治しないので、頚椎を詳しく調べる事にししようと整形外科の大田先生が紹介状を書いてくれたのだ。
MRIは初体験。身体に負担のかからない画像診断法なのだが、大きい音のする機械の中に頭から突っ込まれるのはあまり気分が良いものではない。結構時間もかかる。

出来上がった写真を持って大田先生の病院へ。
「頚椎は特に問題ないですね」
想像してた範囲内の答え。今まで二度レントゲンを撮って問題が見つからなかった場所なのだから。しかし言っている内容の割には顔つきが深刻過ぎるよ様にも、妙に言葉を選んでしゃべっている様にも見えた。
「ちょっとありえない物が写ってて・・・」
どれの事を言ってるんだろうと思って写真を見た。
「脳のこの辺り・・・(横から見て耳の辺り)下垂体腺腫じゃないかと」
カスイタイセンシュ?しばらく、その初めて聞いた言葉の意味を推理していた。
ええっ、もしかしてセンシュの「シュ」の字は腫瘍の「腫」?つまり脳腫瘍ってこと?
その通りだった。膝が僅かに震えているのが解る。
「多分、手術以外の方法で大丈夫だと思いますよ。この写真を見る限りは悪性じゃないでしょうから・・・取り敢えず寺田病院の脳外科と連絡を取ってみます」
MRIのフィルムには、特に問題の無かった頚椎と肩関節の鮮明な写真が何コマも連なっていた。そしてほんのついでに、隅の方に写っていた頭の片隅に異常が見つかった。問題の箇所はかなりぼやけていた。

脳腫瘍。耳に届いた言葉を理解しようとしない自分が居た。

自転車を引き摺る様にして帰宅。今まではなんとか自転車に乗ったまま登れていた坂道。距離にして200メートル程だろうか。今日はその道が何キロもの長さに感じられた。

相変わらず同時多発テロのニュースが溢れていた。今なら誰にも気付かれずに自殺できるかも。そんな考えが何度も頭に浮かんでは消えた。しかしヤクルトスワローズの優勝を見届けるまでは何があっても死ぬわけにはいかない。

9月15日
インターネットがあってよかった。心からそう思う。
国立がんセンターのHP、健康関連の掲示板で情報を集めまくった。同じ病気の人、手術した人、家族が脳腫瘍の手術をした人。色々な人から経験談を聞く事が出来た。
それまで胸の奥で不完全燃焼を起こしていた恐怖、不安、「何故私だけがこんな目に・・・」という孤独感がずいぶん和らいだ。

下垂体腺腫についてはこちらを参照して欲しい。自分なりに調べてみて、プロラクチン産性腺腫ではないかと思った。9月の生理がまだ来ていないからである。自分としては来ない方が楽でいいなあ、ぐらいにしか思ってなかったのだが。

9月17日
大阪ドームでBu−L戦を観戦。贔屓チームじゃないのでのんびりした気分。盛田投手のことをぼんやりと考えてみた。盛田投手の場合は腫瘍が子供の握りこぶし大になるまで発見されなかったとか。プロ野球選手である以上、日頃から健康は厳しくチェックしているだろうに。

地下鉄大阪ドーム前駅からドームの席に着くまでの階段が非常に辛い。下垂体腺腫にはスタミナ不足、疲れやすくなるという症状もあるらしい。

9月18日
大田先生に、寺田病院脳外科への紹介状を書いていただく。先日MRIを取った病院であり、実は脳外科に長けた病院なのだそうだ。
「それと、最近握力が落ちたような気がするんですけど」
と言って握力を測ってもらった。27.5キロ。
「女の人なら普通じゃないですか」と見逃される。前は40キロあったのに。

9月20日
朝から寺田病院へ。30分程の待ち時間の後診察。待合室で隣り合ったバーサンと話をした。「アナタは若いから大丈夫よ」バーサンは私の病状も聞かずにそう言い切った。若い私に対する社交辞令のようなものである事は解っていた。しかし私は内心、「いいかげんな事言うなや。若いのに脳外科なんて来てるってことこそ大変やのに」などと思っていた。不安のために、自分でも嫌になるほどイライラしていた。
「あー、ウチは下垂体の手術はやってないから、大阪老妻病院に紹介したげるわ」
ソレだけ。結局診察らしい診察は殆どせず、ダイレクトでタライ回し。脳外科のスペシャリストっつー話はドコ行った??
診察室を出る時、振り返って「やっぱり手術ですか?」と未練がましく尋ねてみた。先生は「大丈夫、下垂体の手術なんて、開頭せんでええから簡単やて」とこともなげに言う。
そう、下垂体腫瘍がある程度以下の大きさの場合、手術は側頭部や後頭部から頭蓋骨に窓を開ける方法、つまり開頭手術ではなく、鼻の穴からメスを入れて耳掻きのようなもので腫瘍を取り除くHardy法と呼ばれる方法が採用されているのだ。

9月25日
大阪老妻病院。大病院である。しかも連休明けである。
問診表を提出して30分、保険証を提示して20分、診察室の前で30分、診察10分、採血室の前で60分、会計で30分・・・
診察室の前で待っている間、非常に切実な問題が発覚した。それは
「ここの先生、声デカ過ぎ」
という事。薄いカーテンを隔てて、前の患者さんの病状を説明する声が逐一聞こえてくるのだ。私が診て貰っている間も他の患者さんにバレまくりなのでは・・・と不安になったが、実際に私が診て貰うと、さほど大きな声ではなかった。お年寄りの患者さんが相手の時は、あんな声になってしまうのかと納得。

診て貰ったのは脳外科の部長を務める山崎先生。
脳外科というところは呼吸音を聞いたり心拍数を計ったりという、内科でやるような普通の診察行為は殆どしない。代わりに目を閉じて自分の鼻を触る、立ったままその場で1回転する、など運転免許の適性検査みたいな事をやった。握力も測った。やっぱり少し力が入り難い気もするが34.5キロあった。

病状については何も断言はされなかったが、Hardy法なら簡単だから心配しなくていい、入院も短ければ2週間で済むから、と言われた。
腫瘍の種類(ホルモン産性か非産性か、など)によっては化学療法の効果が期待できないものもあるし、種類を特定するためには手術で除去した腫瘍を調べた方がいいのだそうだ。そうは言われてもなあ・・・
やっぱり手術はイヤだなあ・・・
手術の安全性と必要性を強調されると、怖がっている自分を責めたくなった。

9月28日
整形外科の大田先生に報告。思えば大田先生は、腫瘍の第一発見者である。普段はお爺さんお婆さんのリハビリばっかりやっている病院でこんなモノ発見する事になるとは思っていなかっただろう。因みにこの下垂体腺腫と言う病気は婦人科や眼科で発見される事が多いらしい。
大田先生だけが最後まで、手術しないで済む方法はないかと考えてくれた。私にはその気遣いがとても強い励ましになった。手術せずに治せればいいと願っているのが素人である自分だけでない、と言う事実が。

10月2日
二度目のMRI。前回の写真に腫瘍が写っていたのはほんの偶然なので、下垂体周辺部に焦点を絞った写真が必要なのだ。今回は造影剤を注射して撮影すると言われた。一瞬、バリウムのような白くてドロドロしていてイチゴ味の物を注射するのかと思ったが、普通の注射だった。早く終われば甲子園まで試合を見に行こうかとも思っていたのだが、終わったのが6時近かったためキャンセル。
帰宅途中、電車の中で激しい頭痛と吐き気に襲われる。乗り物酔いに近い感覚。そう言えば駅と病院の間のバスでも少し気分が悪くなった。ホルモン異常のせいか。それにしてもいい年して乗り物酔いか。

10月6日
ヤクルトスワローズ、リーグ優勝。昼間っから母と二人でTV観戦。
派手な胴上げとカズヒサのフライングのせいで印象が薄くなってしまった感もあるが、
この試合、決勝点が相手のタイムリーエラーだった
というのはスワローズらしくてとてもイイと思った。そう言えばパリーグで優勝したバファローズも代打逆転満塁サヨナラホームランで優勝を決め、らしさを充分に発揮していた。
素晴らしいシーズンだった。このチームを好きでいられて幸せだった。これからもずっと、勝てる年も勝てない年も応援しようと思う。

手術への覚悟はまだ固まっていなかった。Hardyで済むからと言ってくれてるのだから・・・と何度も自分に言い聞かせていた。(続く)