田中真紀子外務大臣と外務官僚の度重なるいがみ合いが伝えられている。
どちらに正当性があるかというと、どう考えても田中大臣にある。
なぜなら国家行政組織法で、所管大臣には事務を統括し、職員の服務を監督する権限を与えられているからだ。
行政権も外交権も内閣に属するが、それを統括するのは内閣の過半数を占める国会議員であるというのが「議院内閣制」の考え方。日本は憲法上こちらを採用している。行政権の長を直接選挙で選ばず、国政選挙を通して行政もチェックしようというシステムである(行政府の議会に対する対等性確保が議院内閣制の本質だとする説もあるが、だったらもっと自浄作用が働かないとおかしい。現在の外務省は他の行政機関と同様に、独立した機関として立法府に対等性を主張できる立場にはないと考えられる)。
にもかかわらず、外務省幹部たちが国務大臣の権限を実質的に縮小しようと試みるのであれば、これは違憲的行動に他ならない。
造反有理で情状酌量の余地を探そうとしても、彼らは組織ぐるみの不正蓄財の咎で幹部100人が処分を受けた、今はまさにその瞬間なのである。いったい世間の誰が外務官僚の味方をするというのだろうか。そもそもまともな外交能力もない、タダ飯食らいの国際的巨大利権ネットワークになど、何の発言権も認めることはできない。「盗人猛々しい」というのはあいつらのためにある言葉だ。
しかし彼らは、たとえ憲法の理念を犯し自分たちの存立の法的根拠を無視しても、よそ者である大臣に反抗を試みる。彼らにとっては正統的行為であるという認識があるからだ。
彼らの認識の根底にあるのは、まさにこのサイトで指摘し続けてきた「カイシャ天皇制」にある。
詳細は カイシャ天皇制「玉座を以って胸壁となし」 参照。
結局みんな、
内心はカイシャ天皇制に親しんでいること
和を以て貴しとなす親和的感性
実のところは自分たちの統治機構の仕組みを理解していない
田中大臣がややエキセントリックであること
という諸々の理由で半身になっているが、私はこの局面では田中大臣を後押しする分別が必要だと考える。田中大臣の更迭は議院制内閣に正式に引導を渡すことにつながるだろう。超然内閣どころか、超然政府の誕生である。それでほんとうにいいのか?