復活した「背番号3」。しかし今シーズンは負け越しスタート。長島さんの渋い顔が印象的でした。
私にとって、巨人と長島さんの存在意義は、まったく別物です。長島監督は巨人を勝たせるために存在しているわけではありません。彼は「長島」という偉大なパフォーマンスを演じ続けるために巨人の監督をやっているわけで、その辺がそこらの無能経営者とは全く違うところです(なお、巨人は常に勝つために存在します)。
今を去ること9年前、私はちっぽけな存在でした(体積的にも)。で、入社3年目だったのですが、上司が権威主義的な人で、仕事を任せてくれませんでした。だから経験が少なかったのですが、その上司がいなくなって山一証券のPR誌を一冊任されたわけで、私は大リニューアルをして山一から金を搾り取ようとたくらんだのです。
その時考えたのは、
1. 国民の90%以上に認知度がある有名人のインタビューを載せる
2. 若い女性を登場させる
ま、それ以外のことは考えていませんでした。
じゃ、まず誰を出すか? 知識がないので、とりあえず「長島だろう」と。
私の頭の中には、彼の引退試合を目頭を熱くしながら見ていたオヤジの姿と、その後で読んだ『燃えた、打った、走った』(長島茂雄著)の知識しかなかったのですが。
当時はミスターは浪人中で、報知新聞運動部の人がマネージャー替わりをやっていました。報知新聞は、今の日経BP別館の所にあったので日参しましたが、報知新聞運動部の人からは「長島さんは気まぐれだから前日になってから"明日やろう"と言って来ることもあるし、なしのつぶてのこともあるし、まあ期待しないでね」との頼りないお返事。 でも会議で企画が通って、華々しくスタートすることに決まってしまったのでした。もう後には引けません。しかし取材日限はどんどん迫ってきます。
「もういよいよ他の人に頼むしかない」との決断を迫られていた切羽詰まった、あれは忘れもしません89年10月10日の午後4時頃、ウチでテレビを見ていると、報知新聞運動部の人から「長島さんが明日やろうと言ってるよ」との電話を受けました。急いで長田渚左さん(「スーパータイムのスポーツキャスターをやっていた女性です)と、カメラマンに電話して場所をセットしました。
翌日、全日空ホテルの雲海。ミスターが入ってくると、部屋の空気がパッと明るくなりました。そのくらいオーラのある人なんです。あれほどのオーラのある人は、チャスラフスカさん(東京オリンピックの女子体操選手)くらいしか、他には知りません。で、長田さんがインタビューしているのを見ながら、「はー、どうしてミスターがここにいるんだろうなー」と、ひと事のように考えていたことを憶えています。とにかくこれが私の、最初の仕事らしい仕事だったわけです。
その後、楽しく長島さんとご飯を食べました。嬉しかったですねえ、本当に。クライアントにもバカ受けで、この冊子はその後どんどん値上げして、かなりの利益をもたらしてくれたし、私も一人で編集していたので気が楽だったし、日本中出張ついでに旅行できたし、長田渚左さんの「有名人に会いに行こうインタビュー」は長く続いて本になったし、まったく申し分のない仕事になりました。
そん時の写真 しかしもし、あのときミスターがインタビューに応じてくれなかったらどうなっていただろうかと考えると、今でも寒気がします。その後のクライアント操縦は難しくなっていたでしょう。出足の良し悪しがすべてを決めるというのはあることです。
だからして、ミスターは私の恩人なわけです。ミスターの恩は海よりも深く山よりも高し。
そのインタビュー記事を編集していた時、ミスターの肩書きを考えていて、困ったわけです。「この人の職業は何なんだろう?」。で、考えあぐねまして、結論は「長島茂雄の職業は長島茂雄である」。だって長島以外の人に長島はできないのですから。
長島を構成している要素はいろいろあって、
1. 不世出のヒーローであるということ。35年前の長島をいまだに人々は見ているのです。「巨人、大鵬、卵焼き」の時代ですからね。
2. あの天真爛漫さ。天然ボケ。しかし華がある。これもマネできる人はいないでしよう。
3. 常に観客のことを考える姿勢。長島はCSの元祖です。
こうした条件から考えて、長島の前に長島なく、彼の後に長島はないのです。だから私は、長島に国民栄誉賞を与える前に、彼を人間国宝に指定するべきであると強く主張する次第であります。世界遺産でもいいかもしれない。当然ながら、巨人の終身監督の地位は保証するべきです。代表取締役名誉相談役顧問終身監督でもいいです、ユニフォームさえ着ていれば。