子どものころに押し殺し、潜在下へ封じ込めてていったこうした無意識の
 感情は思春期を迎えるころからだんだん表へあらわれてきます。
 自分の家庭と人の家庭のちがいを識別できるようになってくるからです・
  酒乱で暴力ばかりふるわれた子どもは外部の人や自分より弱い立場の
 者に対して、はどめのきかない暴力をふるうようになっていきます。
 暴力で虐待されてきた子どもは自分が親になったとき、同じように我が子に
 手をあげるようになってしまう場合が多々あります。
 ACの人たちは、いやというほど自分の育った環境のつらさを知っています。
 そしてみんな、「親のようには絶対なりたくない」という強い願望があります。
 その想いが強ければ強いほど、とてつもなく重荷になって自分にはね返っ
 てきてしまうのです。
 我が子を虐待しながら、幼少期につらかった自分と重ね合わせ、無意識に
 慰めているのです。いけないことだとわかっていてもやめられないのです。
 そうした自慰行為を繰り返しながら、心のバランスを保っているのです。

  また、精神的に虐待され続けてきた子どもも同じです。
 「人には優しくしなくてはならない。子どもには絶対自分と同じ思いはさせた
 くない。私は情愛深い母親になる。子どもは絶対に愛する。」
 こうした決意が、人一倍強いのがACの人たちの特徴になります。
 しかし気負えば気負った分、自然の摂理として負の力が働いてしまうもので
 す。子や人の注ぐ情愛は、優しさは頭で考えるものではなく幼少期から育ま
 れ自然にこみあげてくるものだからです。考えれば考えるほど負の力が働く
 のです。
  精神的にいたぶられ、見放され、充分な愛情を注がれず育った子どもたち
 の大半はまた同じことを自分が親になったときに繰り返してしまうのです。
  それがどんなにいけないことかが、頭で理解できるぶん、ACの人たちはまた
 深く傷ついていきます。自虐行為におちいる瞬間もたくさんあります。
  長い歳月をかけて形成されてきた自我、つらかった幼少期に芽生え培われ
 てきた自我はどんなにもがいても生涯消え去ることはありません。
   つらかった自分にまず気づくこと。認知して共存していくことです。
   
  ACも解離性同一性障害も心的外傷(PTSD)もそのはっきりとした区別はほんとう
 はないのかもしれません。 ただ共通の事実は本人が精神的にものすごく傷つい
 て育ってきたということ。 この事実をまず自分自身が、親が、そして配偶者が周囲
 の人たちが認めてあげることです。            次のページへ