冬ごもりの山はとにかく淋しい。
冬は淋しいといったのは、土も眠るからである。
正直、畑をみても、生きているのは、大根、ほうれん草、ねぎぐらいで、
夏のあの祭典はない。
朝夕、畑のうねには霜柱だ。
ここらあたり、霜柱は太く高く、
寒い朝は、畑ぜんたいが、金剛山のパノラマのように、
白い柱状の氷をみせてうきあがり、大根ももちろん凍てている。
ねぎも凍てている。みんな眠っている。
私は、とにかく、十二ヶ月間、土を喰う日々を山荘の台所で実践し、
その思いを、ずいぶん身勝手にのべてきたが、
「精進料理」の「精進」ということばのもつ意味について、
十二ヶ月間考えつめてきたともいえる。
「なまぐさ」といえばわかるが、「精進」ではわからない。
そのわからなかったところを、具体の材料と向きあって、物に語りかけてみて、
一年経って、それが「精進」であったことに気づいて、いま、慄然とする。
やってみてわかるということは、あるものだ。
精進しないで、「精進」がわかるはずもない、
こんなことがわかったというのである。
大根や菜っぱに教えられたというのである。