科学的とはどういうことか?   オーディオの科学へ戻る       2003.6.3

このHPはオーディオについて科学的に考えることをモットーにしています。では、科学的とはどういうことか?私には、これをまともに論ずるほどの力量はありません。そこで、ここでは、まず自然科学、特にオーディオを論じるのに必要な物理学を念頭において、いくつかのトピック(科学で説明できること、出来ないこと定性的説明と定量的説明個人的体験と実験データ)に分けて考えて見ます。ちなみに、私は材料科学、特に磁性物理学が専門の物理屋のはしくれです。

科学で説明出来ること、出来ないこと

とりあえず、ここでは科学(物理学)の方法として、『諸々(自然界や人工物の)の現象を既に確立した基礎理論(古典力学、熱力学、電磁気学、量子力学、相対性理論など)に基づき、合理的に説明し(理論科学)さらに、その理論の正しさを確かめるため、問題を出来るだけ単純化して実験を行なう。このようなプロセスで理解が深まるると、その理論から色々なことが予測出来、うまく行けば人間の生活に役立つ技術が生まれる。』といった風に理解しておきます。

ところが、自然界には簡単に理解できる現象もあれば、一筋縄では行かない現象もあります。例えば、天体の運行は古典力学でほぼ正確に理解でき、日蝕の時間など極めて正確に予測できますが、地震の予知が簡単でないのは周知の通りです。それは、地殻内の諸々の現象はあくまでこれまでにわかっている物理法則に従っているわけですが、現象があまりに複雑で、さらにインプットする情報が少なすぎるため、現在のところ問題を正確に解くことが不可能なわけです。これは地震学者が無能なわけではなく、一旦起こった地震の震源地や規模は瞬時に計算出来るのは問題がより単純なためです。この時注意してほしいのは、地震学者は問題が難しいからといって、決して上に挙げたような物理の基礎方程式そのものを疑うことはしないことです。

もちろん、既に確立した理論を疑わねばならに場合もあります、原子や電子の性質を説明しようとして、古典力学がゆきづまり量子力学が誕生しました。また、星蝕などの超精密な天体観測を説明するには相対性理論が必要になってきました。しかし、いまや、これらの理論も確立し、我々が日常的に体験する現象を説明するにはこれらの枠組みを疑う必要はありません。 新しい枠組みが必要になるとしたら、宇宙の起源など非日常的な超高エネルギーの現象を扱う分野くらいでしょう。

以上は、物理現象についての話しですが、生命現象になるとそう単純でないかもしれません。それでも、生物学者は、生物の営みを、遺伝現象を含め、化学現象として説明しようとしています。そして、化学もいまや物理学(主に量子力学)によって基礎付けられています。で、結局、生命現象も究極的には物理現象として捕らえようとするのがオーソドックスな考え方だと思います。このような考えを還元主義といいますが、本当に還元主義で十分かどうか疑問の声もあるようですが私にはよく分かりません。ただ、自分自身を含めた人間(あるいは他の生物の)の意識の発生については物理学の枠を超えた現象であると考えています。何故こんなことをいうかと言うと、意識の所産である価値判断は当然自然科学では扱えない問題となります。ここでは、哲学や社会科学の登場を待たねばなりません。宗教が現代でも強い力を持ち続ける原因もここにあるのではないでしょうか?

ということで、問題が大きくなりすぎましたが、現実に戻りましょう。要するに、我々のオーディオの世界も、音楽が耳に達するまでの諸々の現象は既に確立された物理学の枠内で理解できるはずです。ただ、スピーカーの特性や部屋との相性と言った問題は複雑な現象でなかなか理論通りにはいかないようです。試行錯誤の余地が大いにあります。それに対し、ディジタル回路の働き、ケーブルの伝送特性などはまず理論通り動いているはずです。これに反するような体験をした場合は、理論を疑う前に、思い込みなどの心理効果を疑うのが先決です。

余談
1) 最近話題のベストセラー、養老孟司著『バカの壁』(新潮新書)は意識の問題について解剖学者の目から分かりやすく解説しています。それによると、人間の脳の状態は生理学的には日々刻々変化しているが、意識そのものは『自分は何も変化していない』と主張する性向を持つもので、その結果、インプットされる情報が実際には何も変化していないにもかかわらず、その持つ意味が、あたかも日々刻々変化するように感じるのだそうです。かなり『ふざけた』題名の本ですが示唆に富んだ好著です。

2) 最近の朝日新聞にこんな記事を見かけました。これは、今流行の『さらさら血液、どろどろ血液』についての記事の一部です。(ただし、これを否定しているわけでなく,誇大な誤ったイメージを持たないようにという趣旨の記事でした)

 健康や衛生に関する細かい情報は生活全般に広がっていて、いまやそれを意識しながら暮らすのが当たり前になった。筑波大学の若林幹夫助教授(社会学)はこう分析する。 「私たちは子供のころから、教科書や教育映画で『科学的にこうなる』と説明されれば納得するように、刷り込まれている。、そんなツボにはまるのでは?」 「サラサラ血液」「マイナスイオン」などの言葉は、意味は知らなくても『気分としての科学性』を保証するには十分、という。

 視覚に訴える映像が伴えば、なおさらだ。「車やオーディオの性能はカタログの数字で比較できますが、薬や食べ物の機能は、いくら数字が並んでもあまり実感がわかない。ところが百聞は一見にしかず、映像だと感覚的に納得した気になってしまうのです」 たとえ自分の目には見えなくても、テレビのイメージが頭にあれば、これを食べたから血液サラサラ、と満足できる。「その気分も商品。マイナスイオンが出る製品なども、『出ているという情報』が商品と言えます」

この先生、オーディオファンではないらしく、この世界にも一見科学的な似非科学が蔓延していることを御存じないようです

性的な説明、定量的な説明

科学的な説明には、定性的説明と定量的説明があります。先の例で考えてみましょう。日蝕は月の影が地球表面を通るときに起こることは誰でも知っています。これは定性的説明です。そして、それが何時何処で起こるかも専門家なら正確に計算し予測できます。これが定量的説明です。一方、大きな地震の原因は、太平洋プレートなどの海洋底が日本列島の地下深くもぐりこみ、地盤との摩擦で時々不連続的なずれが生じるためとされており、多くの人はこのことは知っていると思います。これは、定性的な説明です。問題は、何時、何処で、どの程度のずれが生じるかが分かれば地震の予知が出来るわけですが、残念ながら現状では正確な計算は出来ません。それでは、定量的説明が全く出来ないかというとそうではありません。海洋底の動く速度、過去の地震の記録などで、何年以内に、どの地方に、どれほどの規模の地震が起こるかの確率は計算出来、現にそのような予測は行なわれています。このように、複雑な現象についての定量的説明は正確ではありませんが、その確率、上限値、下限値などは必ず推定可能です。もし、定量的な見積もりが全く出来ないならそれは科学とはいえません。単なる『お話』です。

オーディオ機器の世界では一見科学的な説明がされていることが多いのですが、ほとんど定性的な説明で終わっています。しかし、これを定量的に解析すると普通の人にはとても区別が付けられないようなわずかな差しか生じないことや、専門家が見れば全く間違った説明がなされていることがよく見受けられます。それにも拘らず、雑誌の記事や、ネット上の掲示板をみると、そのような誤った説明で先入観を刷り込まれた結果としか思えないような印象記がしばしば見受けられます。ということで、このページではひつっこく定量的見積もりに拘っています。

余 談
しかし、まあ『オーディオは趣味の世界、そんなにむきになることはないのでは?』といわれそうです。そう云われればそれまでですが、定量的思考の欠如は科学技術に支えられている現代社会では深刻な問題を引き起こしかねません。それが、顕著なのはエネルギー問題を含めた環境問題です。私は現役時代放射線を使う実験をやっていましたが、この世界では、放射線が人体に与える影響を見積もるのは重要な問題で多くの研究がなされています。それに基づき、国際機関が安全基準をつくり各国政府が放射線や原子力規制に関する法律を作っています。ところが、特に日本人は原爆の経験もあり、放射線についてひどく敏感です。そのため、ちょっとした事故でもあると大問題になりマスコミに叩かれ、必要以上の規制をしようとします。それが、実際に仕事に携わっている専門家にとっては非現実的な規制と思われる場合もあります。もちろん規則ができた以上それを守らねばなりませんが、そこは人間のやること、つい規則を無視してしまうことが起こります。それが、専門家の内でとどまる話なら実害は伴いませんが、専門知識の無い作業員までその風に染まってしまうと恐ろしいことが起こります。ここで、何をいいたいかというと、このような危険を伴う物質を扱う場合、ただ、規則が厳しければ厳しいほどいい訳でなく、その基準値について、専門家にも納得のいく値でないと、結果的にかえって危険な事態を引き起こしかねないということです。つまり、非現実的な厳しい規制を設けるより、定量的な見地から専門家にも納得のいく基準値を作りそれを厳しく守るようにする方がより安全であるということです。

個人的体験と実験データ

私のHPをみて、あるいは掲示板などで、ケーブル交換による音質の激変などは理論的に考えられないという意見が出ると、必ず肯定派から、自分で試しもしないでそんなことを云うのは科学的でないという批判が出てきます。(自分の場合は、スピーカーケーブルについては以前、少し長い引き回しをしていたとき少々気になり2.3試してみました。あまり差は感じなかったのですが、念のため、抵抗値の小さい、その当時では比較的高価なスターカッドタイプの(といっても数百円/m位)ケーブルを使うことで落ち着きました。しかし、最近の超高価なケーブルはその理論的根拠の無意味さからしても買う気になりません)

はたしでそうでしょうか? 確かに、物理学を始めとして、どの自然科学も、実験や観測などのデータを対象に定量的解析を行なうのが基本となります。そのとき、重要なのはデーターの再現性です。これは同一人が繰り返し行なっただけでは信用されません。(ただし、日常的な科学実験はその実験者を信用することで成り立っており、他の研究者があえて追試するのはかなり画期的な発見の場合のみです)再現性の無い、あるいは信用出来ないデータを基に議論すのは最も避けなければならないことです。

ところで、例えばケーブルの試聴記などは再現性のある信用がおけるデータといえるでしょうか? 同じ人が何度も聴いた場合はほぼ同じような印象を受けるでしょう。異なった人が同じものを試した場合どうでしょうか?その場合でも、もしそれらの人が同じ雑誌の記事を見ていた場合などは同じ印象を受けるかもしれません。しかし、これで再現性のあるデータといえるでしょうか? 2つの理由でいえません。一つは、それらの印象は全く定量化できないことです。二つ目は、単なる印象記では先入観を免れ得ないからです。科学的な議論の対象とするには、測定器などで確かめることが出来るか、それが難しい場合は、いわゆるブラインドテストによる先入観を排除したデータでないと取り上げることは出来ません。要するに、多数決で決めるわけにはいかないということです。特に、物理理論からあり得ないような印象記の場合、多くの人が一致して同じ印象を語った場合でも、それを否定する理論を批判する前に心理効果を疑うのが先決です。実際、数は少ないですがブラインドテストの結果はケーブル交換による音質変化は無いというのが結論のようです。(くわしくは心理効果とブラインドテストの項を見てください。)

もう一つ、科学実験を行なう際、注意すべき点があります。それは、ある条件を変えた効果を測定しようとする場合、他の条件を厳密に一定にしておかないと何を測定いるかわからなくなることです。簡単な実験として、金属の抵抗値を測ることを考えて見ましょう。金属の抵抗値は温度によりかなり変化します。また、両端に温度差がある場合は熱起電力により見かけの抵抗値が変化します。小さな試料の場合、抵抗値そのものはかなり小さいので、このような温度の影響を強く受け抵抗変化を測っているのか、温度変化を測っているのか分からなくなります。ただこの場合、温度の影響を受けやすいことを知っておれば対策も可能で、また補正も出来ます。一方、今あなたが、ケーブルを換えたときの変化を耳で聴いて変化したと感じたとします。しかし、その変化が、本当にケーブルを換えたことによるものかどうか簡単には結論できません。交換の前後で、音が変わる理由は色々考えられます。思い込み、温度変化、聴く位置の変化、接点の変化 等々。しかもこれらの効果の方がケーブルの物理特性の変化よりずっと大きいかもしれません。従って、真の原因が何かを知ることはかなり困難な問題です。物理的原因がすぐわかる場合は容易に対処できますが、心理効果が原因の場合はいわゆるブラインドテストで確かめる他ありません。

以上は『科学的とはどういうことか?』という問いに対する私の考えですが、このことをもっと厳密に論じた人がいます。科学哲学者のカール・ポパー(1902-94)です。彼の定義によれば、『科学理論は実験(客観的データ)によって反証出来なければならない』というものです。ちょっとこれだけではわかりませんね。そこで、このことを分かりやすく解説した啓蒙書を紹介しておきます。竹内 薫著『世界が変る現代物理学』という本のp.94−97 にある 反証可能性によって科学と非科学は『区別』されるという項です。ここにその部分を引用しておきますので興味のある人は読んで下さい。

例を上げると、オーディオマニアの中にはブラインドテストをかたくなに否定し、その『理由』をいろいろ挙げる人がいますが、この定義に照らし合わせ検討してみて下さい。科学的といえるでしょうか?

もっとも、個人的経験が無意味であるというわけではありません。有名なニュートンのリンゴの話しのように、それが、科学的探究のきっかけになり得るからです。もし、私が本文で述べていることを否定するような経験をされた場合、私の解析を超えるような理論を考えて教えて下さい。私の解析にもまだ見落としている因子があるかもしれません。

最後に、『科学を知らずに実践に囚われてしまう人はちょうど舵も羅針盤もなしに船に乗り込む水先案内のようなもので、どこへ行くやら絶対に確かでない』 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)