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  歴 史 散 歩 (8)    

  山辺の道サイクリング紀行  2007.5.28実施 2007.8.11作成

邪馬台国はここ?

奈良盆地の東辺に沿ってほぼ南北に走る山辺(やまのべ)の道は飛鳥地方と平城京を結ぶ古代の幹線道路である。いやもっと古く、古代大和国家の発祥地で邪馬台国の最有力候補地である櫻井市の纒向(巻向 まきむく)地区を南端に、物部氏の氏神であり古代の武器庫跡と考えられている天理市の石上(いそのかみ)神宮を結ぶ軍用道路でもあったようである。といっても、現在では山裾に沿ってほとんど道幅1〜2mの未舗装の細い道で、車では通行できない。そこで、近鉄天理駅から、なるべく旧道を通って桜井駅まで、レンタサイクルで踏破した。

ルート

左の地図の青線が行程。ピンク色の道がハイキングコースだが自転車で通りにくい荒れた細い道もあるので一部車の通る舗装道路を利用した。

9:24 京都発近鉄天理行き急行に乗る(10:25天理着)

近鉄天理駅裏(西側)にレンタサイクル店が2軒ほどあり吉本レンタサイクルという店で自転車を借りる。¥1500/1日で指定場所(今回は桜井駅)で乗り捨て可。

駅前から東へ天理本通りという商店街を行く。天理教の文字入りのハッピを着た人が行き交い、まさに天理教会の門前町といった雰囲気。 商店街を抜けると、左に天理教本部、右手に天理大学などの施設が偉容を誇る。

道標に従って七支刀で有名な石上神宮(いそのかみじんぐう)にいたる。少し小高い所にある。

石上神社の参道の途中に山辺古道への入り口があり、この道を利用し内山永久寺跡へ向かう。昔は巨大な寺院があったそうだが、現在は池とそのほとりにいくつかの記念碑があるのみである。

ここから本来の山辺古道は山道になるが借りた自転車では少々走行困難なのでいったん自動車道へ引き返し夜都伎神社から南に向かう古道へ入る。この辺りは田園地帯をほぼ直線に進み、右(西)遠方には、南から金剛山、葛城山、二上山など奈良盆地の西側の山並みが美しい。また、道端に柿本人麻呂の歌碑が立っている。山側には、竹ノ内環濠集落跡のなど古代の集落跡や衾田稜(継体天皇妃手白香皇女(たしらがひめみこ)の稜とされているが時代が合わず埋葬者は不明)などの古墳が点在する。

古道のほぼ中間点に弘法大師の創建になるという長岳寺がある。大小無数の由緒ある神社が幅をきかしているこの辺りではまれな存在。この寺の堂内にあるひなびた食堂で三輪そうめんの昼食を取る。

長岳寺のすぐ南には崇神天皇陵、景行天皇陵と比定されている巨大な前方後円墳がある。初期大和政権の大王たちの墓と考えられている。

ここから、山辺に道を離れ自動車道を通って、最古の巨大前方後円墳で邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかという説もある箸墓古墳へ向かう。

また山裾の道に戻り最後の目的地大神神社(おおみわじんじゃ)に向かう。背後の三輪山がご神体で立派な建物は本殿でなく拝殿である。

最後に近鉄桜井駅近くで自転車を置き近鉄電車に乗車。午後4時半頃京都着。

天理市 

石上神社のある高台から天理市内方面の風景

破風状の屋根を持つ建物は天理大学の校舎のようだ。

石上(いそのかみ)神宮楼門

大神(おおみわ)神社と並んで日本最古の神社といわれている。神宝として4世紀に百済王が倭王へ送ったといわれている七支刀(国宝)を始め古代の武器が多く納められており、古代大和王朝の武器庫として使われていたのではないかと考えられている。そのため、古代の軍事部族であった物部氏が氏神として祭ってきた。


石上神宮拝殿


この奥に本殿があるが、本来は背後の布留山がご神体であり拝殿のみがあったという。

石上神宮から永久寺へ

石上神宮の参道の途中から道標に従い山辺の道に入る。しばらく行くとこんな(←)道標が立っている。この辺りは舗装されており比較的道幅は広いがやがて細い山道になる。道の両側は木立になっており見通しはきかない。



永久寺跡

しばらく行くと内山永久寺跡に至る。

鳥羽天皇の勅願によって建立された寺でかっては広大な寺域に50を超える堂塔伽藍が立ち並ぶ大寺であった。 また南北朝の頃後醍醐天皇が仮御所を置いたこともある。

明治の廃仏毀釈で廃寺となり、今では小さな池とその周辺に案内板や記念碑が残っているのみである。



永久寺周辺の遺跡 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


最盛期の永久寺の寺域

後醍醐天皇
仮御所跡

芭蕉句碑

芭蕉句碑
説明版

永久寺から長岳寺へ

永久寺から先は細い峠道になっており自転車での走行はあきらめ、いったん自動車道へ出て夜都伎神社へ至る。ここからは、田園地帯をほぼ真南に走る細い農道になっており、見晴らしもよい。上のパノラマ写真はこの辺りから西を望んだ景色で奈良盆地の向こうに左から金剛山、葛城山の山並みが雄大な姿を見せている。中央から少し右の2つの隣り合った峰は二上山。沿道には弥生時代の環濠集落跡や大小の古墳が点在する。また道辺に2個所ほど柿本人麻呂の歌碑がある。

人麻呂歌碑 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります

小径の右側民家の庭近くに
立っている歌碑。

   万葉学者犬養孝氏の筆になる万葉仮名の歌碑
「衾路
(ふすまじ)を引手の山に妹を置きて
山路を行けば生けりともなし」

人麻呂が妻の亡骸を葬った帰途に詠んだ歌。
引き「手の山」とは背後の竜王山

長岳寺

弘法大師によって開基された真言宗の寺

かっては堂塔20を数える大寺であったが、やはり廃仏毀釈により取り壊された。しかし完全な廃寺とはならず、重要文化財に指定されている本堂や鐘楼門、いくつかの仏像が残っており、この辺りでは最大の寺院である。


堂内に食堂があり、三輪そうめんの昼食を食べさせてくれる。



長岳寺点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


案内板

鐘楼門

本堂と池

箸墓(卑弥呼の墓?)と柳本古墳群

長岳寺のすぐ南に巨大な前方後円墳である崇神天皇陵が、さらにその南に景行天皇陵がある。これらはいずれも柳本古墳群に属し、古墳時代前期の大王稜である。山辺の道からは外れるが、これら2つの古墳の前を走る自動車道を行くと、桜井市に入った所に最古の大型前方後円墳と考えられている箸墓(上のパノラマ写真)に至る。

この付近は現在では巻向地区と呼ばれているが以前は纒向と表記され、最近弥生時代後期から古墳時代前期(3〜4世紀)にわたって、すなわち邪馬台国の時代に、大きな都市があったと見られる遺跡群が見つかっており、邪馬台国の最有力候補地と考えられており(理由はここ)、上の写真の箸墓は女王卑弥呼その人の墓ではないかとする説が有力である。伝承では、倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめ)という巫女的な性格を持つ王族の墓とされており、この点も符合する。ただし、宮内庁により陵墓参考地とされているため学術調査は出来ず永遠の謎として残るかもしれない。



崇神天皇(はつくにしらすすめらみこと) 
  
古墳時代初期に建造された全長242mの巨大前方後円墳
第十代崇神天皇は伝説的な大王であるが、その和風名から実質的な初代
天皇と考えられており、さらには魏志倭人伝に書かれている女王卑弥呼の
もとで邪馬台国の実際の政治を行った男王こそが崇神天応ではないかとの
説もある。
景行天皇陵
崇神天皇陵とほぼ同時代に作られたと見られる全長300mの
巨大前方後円墳 前期古墳としては最大の規模である。

宮内庁により第j十二代景行天皇陵と比定されている。
景行天皇は日本武尊
(やまとたけるのみこと)の父で神話時代の大王


大神神社(おおみわじんじゃ)拝殿

山辺の道の南端三輪山の麓にある大社。石上神宮とともに有史前から有る最古の神社

大物主の尊を祭るが、ご神体は背後の三輪山で写真は拝殿である。

拝殿では巫女が神楽を奉納していた。

付近にはいくつもの陪社がある。

大神神社点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


参道の大鳥居

拝殿入り口

ささゆり
入り口付近の神苑に自生する

邪馬台国はここ?

古代中国の史書「魏志倭人伝(通称)」に書かれている邪馬台国はどこにあったのか? は歴史好きの人なら皆関心を持っている事柄で古くより論争が絶えない。しかし、最近になって、主に考古学の進歩により邪馬台国畿内説がきわめて有力になってきた。しかも、その場所は他でもないここで紹介した桜井市の纒向遺跡ではないかという説が有力である。私も同じ意見でその理由を私なりにまとめてみる。 その前に、出来ればWikipedia の解説を見ておいてほしい。

まず、魏志倭人伝の邪馬台国の位置についての記述は(茶色文字は主として上記Wikipedia よりの引用)

「・・・伊都国に到着する。東南へ100里進むと奴国に至る。東へ100里行くと不弥国に至る。南へ水行20日で投馬国に至る。南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある。」

漢書で一般的な1里=約400メートルを用い、方角も正確だとの前提に立つと、邪馬台国は日本列島を飛び越えて太平洋上になってしまうため、位置や道程の比定をめぐり論争が起きている。

つまり、このまま素直に読むと邪馬台国は日本列島内には存在しないことになり、何処かを読み替えなくてはならない。九州説では距離の解釈をかなり無理をして読み替える必要がある。一方、畿内説は距離は概ね正しいが方向が合わない。しかし、この点は、中国の古い地図では日本列島を九州を起点に南方へ延びているように描いていることが多くこの時代の中国人が邪馬台国が九州の南かなり遠くの所にあると見なしたのは十分根拠のある話である。

時期については、

「景初2年(238年)6月、女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。悦んだ皇帝(明帝)は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。」

とあり、卑弥呼が三世紀中頃に生きた人であることは間違いない。実は、この点がかって畿内説の弱点であった。というのは、この時代に栄えた遺跡は九州に多く畿内にはほとんど見つかっていなかった。ところが、最近続々と畿内からこの時代の大集落跡が見つかり、特に纒向遺跡はその規模から「邪馬台国の人口は7万余戸。」との記述と合致する規模である。さらに、「卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、」とあるがこれをこの地域の前期古墳と考えると、以前は四世紀以降と考えられていた建造年が三世紀後半にまで遡ることが最近の考古学で明らかにされてきているので、日本国内の伝承で巫女的性格の高貴な女性の墓と伝わる箸墓古墳を卑弥呼の塚と見なすのは十分根拠のある話である。

さらに、卑弥呼の使者が魏国王から下暢されたという銅鏡について、

「卑弥呼の遣使にちなんだと見られる景初三年、正始元年銘のものを含む三角縁神獣鏡が、畿内を中心に分布し、かつこれらがかつては4世紀以降の古墳にのみ見られ時代が合わないとされていたのが、年輪年代学等の結果により、3世紀に繰り上げられ、時代が合致すること)。
弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年〜244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。 」

特にこの付近の古墳、特に黒塚古墳から最近33枚という大量の三角縁神獣鏡が発掘された。

、さらに、纒向遺跡から

「北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。」

とあるように、弥生時代終末期の倭国の大乱を収拾するため各地の王により共立されたという女王卑弥呼の都市としてもっとも相応しい場所であるといえる。またこの時代より後に全国各地に前方後円墳が広まり、初期大和政権は邪馬台国の直接の後継者と見なすことも出来る。さらに具体的に言うと、

「卑弥呼は鬼道によって人心を掌握し、年老いても夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。」

とある弟こそが、はつくにしろしめすすめらみこととの和名が与えられている崇神天皇ではないかとの説もある。

以上いずれも状況証拠にすぎないという反論もあるだろうが、最近ますますその状況証拠がかたまりつつあるようだ。理系人間の私から見ても大変合理的で納得できる説明である。

決定的証拠として、例えば箸墓古墳から親魏倭王の金印でも出てくれば論争は終結するが、残念ながら箸墓の学術調査は許可されていないのでまだしばらくは論争を楽しむことは出来そうである。