AKIFUMI SHIBA  芝 章文


絵画の制作学


■(その1)動機(モチベーション)・こだわり・霊感(インスピレーション)について

 発光する絵画(アウラの絵画)を描きたいという強い欲求がある。それは「光の本能」への志向とでも呼べばよいのだろうか、どこかつかみどころのない、常に揺れ動いていて視点が定まらない、ぼんやりとした印象を指している。あるいは皮膚のような薄い皮膜を通して浮かび上がってくる、血管細胞が流動する度に発するかのような、生命的内光をイメージしてもいる。
 かつてギュスターブ・モローは「眼に見えるものも手に触れるものも信じない、見えないもの、ただ感じるものだけを信じる。」と言ったが、僕も「内なる視覚」「内なる光」といった不在の対象を視覚化したいと考えている。つまるところ未見の絵画を描きたいのだ。
 描かれた絵がはたして未見のものになっているかどうかは定かではないが、ともかく絵画とは真理を問い続けながら日々描いていく以外にないのだと思う。それを支えているものは絵画という現前性への強固な意志と、不可視のものを可視へと変換していこうとする、飽くなき試行の積み重ねから生じる持続性にあると考えている。

■(その2)本画に入る前に何をするか?エスキース・ドローイングなど

 そのへんの紙の切れ端に鉛筆で走り書きのようにとりとめもなく描くことからはじめる。それらは思考の覚え書きというような雑多なイメージの集積である。
 その後、水彩紙に鉛筆と淡彩で周密なドローイングを描いてゆく。基本的には本画とか下絵とかという区別はなく、また本画に対する計画図を描くこともない。ドローイングも油彩画も平行して制作され、一枚一枚が独立した作品として産み出されてゆく。それは制作時の心境や感覚をライブなかたちで画面に留めておきたいと考えるからなのだが、作品の性格上、段階的に制作行程をこなしていけば完成に向かうというスタイルではなく、消したり加えたりする試行錯誤の末に訪れる情動的確信が絵画をかたちづくっていくと考えている。
 この試行錯誤の過程は実際の制作時においても、また走り書き程度の段階においても、さほど変わりはない。この局面をのりこえてゆくプロセスが絵画制作の醍醐味でもあり、逆に苦悩の根源ともなり得る。

MAO - DRAW 4300200 255 ×180mm 、藁半紙に鉛筆、2000年 制作風景

■(その3) 本画に入った時の試行錯誤について

 制作環境を整えるために、まず制作時の心境に合った音楽を画室に流す。「あらゆる芸術は音楽の状態を憧れる」というウォルター・ペイターの言葉を借りれば、まさにその旋律に従うかのように、無時間的な充足感のなかで作品のイメージがかたちづくられてゆく。
 作品と対話するように制作をすすめること、その交感のなかから見ることと描くこととが交錯し、色彩や形態が抽出されるのだ。音楽の役割は直感的な閃きをもたらし、作品のイメージを増幅するためのメディウムへと変化する。作品は時に偶然うまくいくようなこともあるのだが、極力偶然性を排除し、刷毛や筆を駆使しながら描くことの原点を模索する。
 絵を描くという画家にとってはごくあたりまえの所作を常に反復すること。そして平面化にはじまり平面化に終わる絵画の独自性を常に意識すること。最後にその平面上に無理なく自然に描かれた仮想空間を見い出すことが画家の仕事となる。

■(その4) 完成に向かう意識、完成の判断について

 制作過程のなかでひとつの高揚感が過ぎた後、筆を置く時機がやってくる。しだいに作業に費やす時間が少なくなり、作品との対話が長くなる。この自照する段階が完成の起点となる。
 他者の気持ちになって観照してみたり、眼に力をいれずにゆったりと眺めながら、これ以上描けないギリギリのところを見極める。行為の集積、無数の瞬間を幾度となくなぞりながら冥捜するかのごとく自問する。このあたりから作品の前で佇む時間が延々と続くことになる。画布と描き手の距離が拡がったり縮まったりするうちに、あるいは、少し手を入れてみたり消してみたりするうちに、ようやく絵画そのものの実体が浮かび上がって見えてくる。だが絶対的確信に至ることなど、ほとんどないといってよい。つぎの筆を入れてみたくなる衝動を押えながら、とにかくひたすら眼差しを傾けるほかないのだ。
 腹八分という言葉があるが、もうひと筆の手前でいつも制作を終えるようにしている。あとひと筆の足りなさが、実はもっとも魅力的で好い加減なのだと考えている。

■(その5) プレゼン(どう見せるか、題名の問題、作品と社会との関わりについて)

 作品が意図するもの、作品から伝わってくるものが、他者に見られることによって始めて成立するのだとすれば、作品が作り手から離れていくのは当然のことである。多かれ少なかれ、また意識するしないに関わらず、作品は最初から社会を反映する役割を担うものとして、あるいは社会が求めている何かに対応するように仕組まれているのかもしれない。それが作品が自律的であることと同時に対他的であるという二重特性をもって語られる所以である。
 発表形式においても、また展示される空間においても様々な制約はあるのだが、 自律した作品はあらゆる条件をクリアーし、その存在をアピールする。それは能動的な癒しをもって見る側に働きかけてくるのだ。
 作り手は常に社会に対して真摯な眼差しを注げばよい。さして社会を意識することもなく淡々と制作をすすめることだ。たとえば作品タイトルは唯一社会との関係をきり結ぶものであるが、ここにも作る側と見る側とをつなぐ手がかりが十分にある。   
 作家は制作し発表することで多くのことを社会から学び、自らの感性をたよりに幾許かの豊かな成果物を社会に還元することが重要な使命なのである。


MAO - DRAW 443011 46.5×38.5cm 水彩紙に水彩、鉛筆、2000年 MAO - DRAW 449012 46.5×38.5cm 水彩紙に水彩、鉛筆、2000年


■自作について

絵画『MAO』について

 1989年より始まったシリーズ、タイトル『MAO』は「真の魚」と書いて空海の幼い頃の名前である。空海は幼少の頃より「一を聞けば十を悟る」のことわざのように目から鼻にぬけるような閃きを示す才能をもち、周辺の人々に「貴物」(とうともの)と呼ばれていたという。絵画『MAO』は、絵が未成熟な人間のアウラのようなものとして、大きく成長してほしいという願いをこめて名付けられた。
 MAOシリーズはそれまで描いていた(自然の異形シリーズ)など、装飾性をおびた絵画を一旦解体し、描き手自身の内面へと向かいはじめた。ガンツフェルト(等質視野)と呼ばれる輪郭を持たない茫漠とした視野は、画面のあちら側ともこちら側ともつかない位置に不安定な浮遊感を表出し、つかみどころのない内視的空間を幻視させる。揺蕩う楕円形のイメ−ジは、雲や霞みを彷佛とさせ、ゆっくりと「気」が増殖していくように収縮・膨張を繰返す。
 中国山水画の最高理想に 「気韻生動」という 概念があるが、まさに絵画の品格を説いたそれらの教えはいまも深く心に訴えかけてくる。
 絵画『MAO』は見る人自身が包み込まれるような感覚におそわれたり、また見る人自身の心情が逆に写し返されるような鏡の絵画として立ち現れてくれればと考えている。つねに揺れ動いているような渾沌とした絵画を描きたいと思っている。 

     
MAO ― 4510902 2200×3000mm 2002年 キャンバスに油彩、
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