Article
AKIFUMI SHIBA 芝 章文
人間空海と芸術
幼名「真魚」 「空海」という呼び名が僕の脳裏に住み着いたのは一体いつごろからか定かではないのだが、物心がついたころには祖母がよく「お大師さん」と呼び親しんでいたことを思いだす。素朴な庶民信仰のなかに今も生きている人間空海、「弘法大師」という諡号は高野山のある和歌山県で生まれ育った僕にも、なじみ深い名前であった。 1200年も昔に生きた空海は今日においてもなお多くの人々の篤い信仰の対象として、ただ真言宗の宗派に属する人たちだけにとどまらず、広く日本人から愛され、崇拝されている。「大師は空海にとられ」ということわざがあるように、同時代の最澄や後の法然、道元などと比べてみても、真の大師としてこのように日本人に慕われ尊敬されてきた例は、ほかに類をみないのではないだろうか。この崇拝の最もはっきりしたあらわれが、四国八十八ヶ所霊場巡りにある。空海が42歳のときに人々の災難を除くために開いたとされる霊場で、後に空海の高弟が彼の足跡を遍歴したのが霊場めぐりのはじまりと伝えられている。人間には88の煩悩があり、四国霊場を八十八カ所巡ることで煩悩が消え、願いがかなうという。徳島阿波(発心の道場)、高知土佐(修行の道場)、愛媛伊予(菩提の道場)、香川讃岐(涅槃の道場)に至る1450キロを巡拝する四国遍路は昔も今も人々の人生の苦しみを癒し、生きる喜びと安らぎを与えてくれる祈りの旅となっている。同行二人、どこにあっても自分ひとりではなく、空海とともに歩み、心身をみがくという身体感覚は宗教、非宗教を問わず、また国籍、信仰を超えて多くの礼拝者を魅了している。
のタイトルに人の名前を付けたいと考えていて、思案した結果、空海の幼い頃の名前にたどりついた。絵が未成熟な人間のアウラのようなものとして、空海のように大きく成長してほしいという願いをこめて名付けたのだが、空海の底知れない魅力と謎に魅せられたと言っても過言ではない。しかし、よくよく考えてみると当時は密教の知識などほとんどなく、空海についてもさほど知っていたわけではなかったのだが、なぜかいつも気になる存在として空海は僕の心の片隅に留まっていた。幼名「真魚」を拝受して以来、絵画「MAO」シリーズは遅々たる歩みを続けながら今日も日々進化している。
楕円的人間 空海が密教にたどりつく過程はものの本には様々に描かれてはいるが、なによりも空海の人間そのものに迫らねばならないだろう。それは空海が幼い頃、宗教や美術の文化的情報に対する鋭い感覚を育んだとされる、讃岐国多度郡屏風浦〔注2〕の環境を抜きにして語ることはできない。温暖な瀬戸内の風土はもとより、早くから海上交通の要路ともなり文化が開けた地にあって、地方豪族佐伯氏の三男として生まれた空海は「貴物」(とうともの)とよばれ親族の期待を一身に背負っていた。
連れられ、上京し、18歳から大学の明経科〔注4〕に入学するが、官吏への道に絶望し、20歳すぎには「我習う所は古人の糟粕なり・・・(以下省略)」〔注5〕と大学を去り、山林での修行に入ったとされる。しかし空海の場合、山林修行に入ったといっても、正式な出家僧としてではなく私度僧(官許を得ず、僧侶を自称したということ)であった。その中退の弁明の意味ともとれるあの有名な、儒教・道教・仏教の比較思想論、『聾瞽指帰』(後に序文と巻末の十韻詩を改定して『三教指帰』となる)を著すのは24歳のころになってからである。 空海には幼い頃から本質的に聖なるものに対する強い志向性がそなわっていたのだろう。真理を求めるための多彩な世俗活動〔注6〕は、仏道一筋に精進するひたむきな求道者としての他の祖師とは違い、宗教家としてのみならず、思想、文芸、土木工事、教育、薬学、医学、地質学〔注7〕、はたまた能書家として幾多の業績を残し、日本文化の様々な分野に多彩な足跡を印している。 以前空海に関する書物だったか、頼りない記憶で不甲斐ないのだが、人間の典型を円的人間と楕円的人間と捉えた場合、空海はまさに楕円的人間に相当するといった説を思い出した。空海の生涯は、俗と非俗の周期を交互に繰り返し進化するという、中心を二つもった楕円的人間の才能に満ちあふれている。讃岐国の名家に生まれ、官吏の養成を目指す大学に通い、漢文学や中国古典を学んだ少年期は俗、その後仏道を志、山林にわけ入り、自己啓発に臨む青年期(『聾瞽指帰』を著して以降、入唐するまでの7年の動向は不明とされている)は非俗、31歳で入唐し、インド密教を学んだあと師の恵果に出会い、真言密教の相承者となり、早々と帰国し、密教を日本に定着・流布させた壮年期は俗、さらに50歳を過ぎる頃から山林隠遁に憧憬を深め、62歳に高野山でその生涯を閉じる晩年期は再び非俗と、4つに大別されるといった見方がある。なるほど俗と非俗の二つの中心を行き来しながら旺盛な活動を展開する空海は焦点を二つ持っていたと考えた方がわかりやすい。ちなみに相対する円的人間とは、その人生に一つの中心をなす原則があり、この原則に従って一元的に説明できるというような人間像、まさに日本人の好む典型的な理想像だが、ちょうど最澄のような純粋な求道心を持った宗教者をイメージすることができるだろう。ともかく空海は俗世的な意志と遁世的な意志の振幅を最大限に発揮した奇跡の人と呼べるのかもしれない。 真言密教と言葉 空海が残した著作はそのほとんどが仏教に関する書物といわれているが、そのなかに一風変わった漢詩文を創作する際の実作指導をかねた文芸解説書で『文鏡秘府論』〔注8〕という著作がある。漢文を読み解く能力に欠ける僕にはなかなか近寄りがたい書物なのだが、その序の一節が現代訳で紹介されているので引用してみよう。「貧道幼にして表舅に就て頗る藻麗を学び、長じて西秦に入りて、粗々余論を聴く。然と雛も、志は禅黙に篤くして、此の事を屑しとせず。・・・(以下省略)」(空海が幼い頃、母方の伯父について文章を習い、中国に留学して再び文章を学んだが宗教的活動が忙しくて、あまり文章にうちこむ暇がなかった。しかし文章の好きな後輩がいて請われてこの本をつくった。)というのである。内容は大半が中国に伝えられていた文学理論や音韻論、創作技術が集められ編纂されているようだが、宗教活動の暇をみてこのような書物を著すとは、空海の情報収集力の高さと、とりわけ言葉に対する並々ならぬ関心、自信のほどが窺い知れる。よほど中国の語学に通じていないと、また自らも文章をつくる能力に長けていないとこのような作品成立は不可能であっただろう。空海自身はこの著作が宗教的目的のためではなく、純粋に文学的目的のためだと述べてはいるが、真言密教が言葉に実在のあらわれを見て、言葉を大切にする宗教であるということが、直に伝わってくるようだ。なんとも信じがたいほどの語学能力である。 しかしこの語学の天才にして完璧とも思える空海にも大きな挫折があった。空海の弟子真済が編集した『性霊集』に収められた空海の体験談で、「精誠感あって秘門を得、文に臨んで心昏し。」(青年時代の厳しい試練をのりこえ、幸いにして秘門と出会うことができて密教の教典を手にしたが、それは通常の仏教経典と違って、文字だけではその真意を把握することができない。)また「わが生の愚なる、誰に憑てか源に帰せん。ただ法の在ることあり。」(釈迦〈過去〉と弥勒〈未来〉の二仏の間に生まれた私の生来の不肖のために、求むべき師、根源にかえる道を指示してくれる指導者がいない。現にその根源の教えはここにあるというのに、その秘門に入るための手段、方法がまるでわからない。)と痛恨の極みに達した心情を吐露している。この秘密の鍵を解くために空海は海を渡る決心をしたというのだ。 入唐以前の状況を回想するかたちで記されたこれらの文章から、当時の空海が如何に絶望の淵に立たされていたかが読みとれる。 大学を中退し、山林修行に入り一旦は文字・学問から離れ実践修道に至った空海が、秘門の教えは文字・ことばだけでは門内に入れないとする「文字」という名の障壁にぶつかり愕然とするのだ。 両界曼荼羅の図像 真言密教の奥義はその後入唐し、師の恵果から伝授される両界曼陀羅〔注9〕や祖師図〔注10〕という図像(シンボル的体系)によって相伝されることになる。 密教の深淵なる宗教美術、両界曼陀羅や祖師図は教典や注釈書だけでは理解できない複雑な秘門のしくみを、具体的な姿・形として表現された図画・図像の観想と視覚世界を融合させることで、はじめて感覚的、直感的に把握することが可能になるという。 これまで宗教は洋の東西を問わず、無数の芸術作品を生み出してきたが、絵画であっても彫像であってもそれらの多くは礼拝や供養の対象としてあるのが一般的だが、「密教の教えは奥深く文筆であらわすことが困難なために図像を用いて悟らないものに示す。」と空海は述べている。 詰まるところ密教における図像・図画は単なる絵画ではなく、見ることによって悟りを開くことができるという大きな特質をもっているのだ。それは経典や論書という文献や言葉によって理性的に了解し、納得するというよりも、全身体的に把握することを要求される。そのため、他の仏教に比べて、視覚、聴覚などに訴える傾向が強くなり、極彩色の密教美術のような絢爛たる世界が生みだされたのだろう。
密教は身・口・意の「三密加持」〔注12〕を総合的に実践することを強調しているという。それは人間の感覚を越えた聖なる仏たちとのつながりを意味する、いわゆる神秘主義的色彩の濃い宗教といえるだろう。『即身成仏義』〔注13〕に書かれた「三密加持すれば、即疾に顕わる」という空海の言葉は、この身このままで世界の在り方と相即不離であることを教えてくれている。 我々のような凡夫が如何にしてその秘密を解き明かし、衆生の三業(凡夫としての在り方、またその働き)を法身〔注14〕の働き(大日如来の在り方)へと昇華させ得るのか、真理そのものの根源作用(三密)は仏と同格とされる菩薩にも見えないのだという。さとりの当体(法身)は未だかくれたままの身体なのである。 空海についていろいろと書いてはきたが、知れば知るほど深みにはまっていくように、着地点を見失ってしまう。自分が何者であるかを知るための心の遍路旅はまだまだ始まったばかりなのである。人間空海に対する興味と謎はさらに拡がってしまった。空海、恐るべしである。 (しば・あきふみ/画家) 〔注1〕(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣、密教の一行法。)空海は大学在学中に一人の沙門に出会い、その人物から虚空蔵求聞耳持法を教えられた。後の真言密教の大成者としての空海がはじめてであった密教開眼の第1歩といえるだろう。その意味で,この1人の僧との邂逅は、意味深い。 彼が教えた教典には「もし人が作法どおりに虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えれば、全ての教典を暗記することができる。」と記されている。この言葉に触発され空海は、阿波の太龍岳や室戸岬、石鎚山などで厳しい修行を重ねるが、そのうちに立身出世や財産がうとましく思え、22歳で受戒し空海と改めたとされている。 〔注2〕空海は宝亀5年(774年)6月15日に讃岐の国、屏風浦にて父佐伯直田公善通(さえきのあたいたぎみよしみち)と母玉依御前(たまよりごぜん)の間に生まれたとされる。屏風浦は今の香川県善通寺市にあり、父はこの地を治めた豪族で、母は阿刀(あと)氏の出であった。叔父の阿刀大足(あとのおおたり)は桓武天皇の皇子伊予親王の持講(家庭教師)をしている大学者であった。 〔注3〕讃岐の国学、あるいは国分寺に学んだ可能性もある。国府のあるところには国学があり、郡司クラスの家柄の子弟が入学できたという。国学は地方官吏養成機関。また当時都には大学が一つあり、基本的に五位以上か史部(ふみひとべ)の子弟など貴族のみ入学が許された。六位以下八位以上の子弟は試験に合格すれば入学を許可される。基本的に大学も国学も入学は、13才以上16才以下であった。 〔注4〕当時大学には六学科があり、書道科、音韻道科などもあった。明経科は、論語、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)などが教科の中心であったという。 〔注5〕『空海僧都伝』によれば当時の心境を「我習う所は古人の糟粕なり。目前に尚も益なし。況や身斃るるの後をや。この陰已に朽ちなん。真を仰がんには如かず」と伝えている。大学で学ぶことは古人の言葉の糟粕(酒の絞りかす)のようなもので何の役にもたたない、ということ。 〔注6〕香川県満濃池の修復工事や、綜芸種智院の設立など多岐にわたった社会事業に従事している。満濃池は高台にある溜め池であったため、大雨が降っては洪水になり、地元の人たちは手を焼いていた。国司や郡司たちは幾度と無く改修工事にあたったが、うまくいかない。弘仁12年(821年)、京都にいた大師は朝廷に満濃池修復の別当に任命され帰郷し、工事を指揮し、わずか3ヶ月で完成させたと言われている。築堤の技術はおそらく、在唐時代に学んだものであろうと言われている。この満濃池はいまも、日本一のため池として丸亀平野を潤している。また55歳の時に日本で最初の私立学校、綜芸種智院を開設する。当時は貴族中心の社会で、一般の人々はなかなか学問を学べなかった。そんななか空海はどのような身分の人でも平等に学問が学べるようにと全国で初めての私立大学を設立した。 〔注7〕空海と地質学というと奇妙な取り合わせのように思えるが、鉱物資源との関係は以外と深いとされる。空海は修験者や山師のネットワ-クを背景に財力を得て、入唐の費用や伽藍建立の費用に充てたとする説がある。後に下賜を願い出る高野山の麓を拠点とする、水銀を扱う一族、丹生氏(丹生神社)との関係、また八十八箇所の霊場は中央構造線と西南日本外帯のほぼ上に乗った分布を示し、それらの霊場に添うような形で、鉱山の採掘口、廃坑、発掘跡が併存している。端的な表現をするならば、水銀鉱山の採掘口の傍に殆どの霊場が建てられているといっても良い。これら金属鉱床の富鉱地帯が、若き日の空海の足跡と重なるということからそのような説が生まれたのだろうが、推測の域をでない。空海の最期は水銀中毒によるという説まである。 〔注8〕『文鏡秘府論』一巻から六巻まであり、第一巻(天)は音声論、第二巻(地)は詩文の構成や文体について、第三巻(東)は修辞論、第四巻(南)は詩文作成の作法及び文学の本質論、第五巻(西)は批評論、第六巻(北)は文法論ということである。また六巻の要諦を選びそれをほぼ三分の一にまとめた要約版『文筆眼心抄』を著している。その序文に空海は文の眼、筆の心であるという意味でこの名を付けたと述べている。 〔注9〕曼荼羅とは、仏の世界を表した組織図のようなもので、大きく二つの種類があり、ひとつを、胎蔵界曼荼羅、もうひとつを金剛界曼荼羅とよぶ。両方を合わせて、両界曼荼羅という。 〔注10〕祖師図とはインド・中国から日本へ、密教を正しく伝えた8人の祖師(龍猛菩薩・龍智菩薩・金剛智三蔵・不空三蔵・善無畏三蔵・一行阿闍梨・恵果阿闍梨・弘法大師)たちのそれぞれ顕著な業績を、広い景観の中に描いた説話図のことをいう。ここでは恵果が空海に伝えた五幅の祖師図を指す。 〔注11〕我が国において本格的な目録が編纂されるようになったのは、平安時代に入ってからである。延暦23年(804年)に入唐した最澄(伝教大師)、空海(弘法大師)は、それぞれ多数の経典・仏具・図像等を持ち帰り、嵯峨天皇に献上した。それらの目録を請来目録という。空海の請来目録は、日本で最初に出版された目録とされている。 〔注12〕「三密」とは「身密」「口密」「意密」の三つを言い、印を結び、真言を唱え,瞑想することを指す。それは、如来の在り方を意味し、それに対して我々凡夫の在り方は、「三業」という。「業」〈サンスクリットkarman〉とは行為・働きを意味し、「密」は秘密の密であり、仏の働きは凡夫にとっては、測りしれないから、秘密ということになるのだという。「加持」という言葉はインドの言語のアディシュターナの漢訳で、アディとは「加える」という意味。シュターナは「位置づけられた」あるいは「場所」という意味で、仏と行者の行為が一体となることをいう。空海は、この「加持」の意味を「加」を仏からの働きかけ。「持」を我々凡夫が仏の働きを受けとめ、持つことであるという。 〔注13〕空海が『即身成仏義』で理論的に体系付けた原理論を指す。身に印契を結び、口に真言を唱え、心が三昧に住すれば自我と仏の合一、事実体験としての即身成仏が完成するという考え。即身成仏とはこの身のままで悟りをひらくということで密教、また修験道の修行はこれを目的とする。 〔注14〕〈仏教用語〉永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏の在り方。三身の一で、色身、応身、報身などに対応する。 【参考文献】 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
return | |||