AKIFUMI SHIBA  芝 章文


CHIASME

CHIASME展 ギャラリーK(東京)1987年 text/たにあらた 「起源説」187×380cm 和紙にアクリル・顔料.墨 1987年制作


バリアー体のマチエール ―芝章文の作品について―

                                たにあらた

 芝章文の絵画には、“バリアー”(障壁)が潜んでいる。
バリアー。あるいはフェンスといいかえてもよいが、端的にいうとそれは短い直線的な線分を指している。`80〜`82年ころの「磁力線」シリーズでは、バリアーは顕在化して絵画を形成する主力のモチーフになっている。別な見方をするなら、それは磁場の指標(記号)の役割を果たしている。この顕在化するモチーフとしてのバリアーを解体―たとえば色面の分割などの方法によって―したあと、`84年以降の「起源説」シリーズにみられるように、バリアーは沈潜化して、いわば“バリア一体のマチエール”といった方向性をとるようになる。
 かつての指標的造形に比較すれば、「起源説」シリーズのバリアーは、色面を強化し、その質を高めるマチエールの役割に変わるのである。かつて、岡倉天心が大観や春草に“空気を描く技法の開発”を示唆した結果、線を排除した朦朧体が誕生したとすれば、線分を視覚的にも残存させながら、それを記号的・無機質的に処理して画面に遍在させることで、たとえ朦朧を志向するイメージであっても、絵画としての面の強度に向かわしめようとしているのが芝の作品なのである。
 それはいいかえれば次のようにもなろう。色面分割のような作品を除けば、芝の作品のモチーフやイメージは、特に「起源説」以降の作品にみられるように、空気、雲、流体などを彷彿とさせるうつろいやすいものだが、そうした画像がもつイメージの広がりとはうらはらにそれらがつねに絵画的現実とLての画面に反復的に呼び戻される“視覚的滞留”をかたちづくるのが、ここでいうバリアーの存在なのである。
 たしかに「起源説」シリーズのなかには、雪舟の「天橋立図」を想像させるものもある。それは具体的な風景をもつことによってそうなるのではなく、雲間からのぞく群島のような形象の描き方によって俯瞰性を滞びるといった程度のことだが、たとえばその傾向を一番よくとどめている「起源説1・2」においても、俯瞰的な遠近感を形成する条件とは別種の、無数のランダムにばらまかれた短い直線的な線分が、マチエール的に処理されることで面を引き蹄める(バリアーに画像をからませる)効果を得ている。
 近作では、絵画全体が伝えるイメージはより有機化し、エル・グレコの雲のように凝縮した空間をつくりあげているが、この入りくんだ有機的フォルムを規制するために、バリアーはよりジオメトリックな描き方で顕在化してくる。
 芝の作品の`80年代の傾向は、つづめていえば有機的フォルム―無機的バリアー、彩一非彩、単位一集合、存在一非在(場)といった対極的条件を駆使して生まれているが、もっとも大切なポイントはバリアーの多義的な活用なのである。

(たに・あらた/美術評論家)

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