絵画というものをイメージしようとするとどうも所在なげに揺れ動いているといった姿になる。それはおそらく、物質性と平面性、あるいは行為と思考といった極のなかで、それらからの距離でしか、いまいる位置を特定できないことによるのだろう。そしていまでは、その広大な範囲のどこにでも位置を定めることができるし、そのことからまず始めなければならないのだ。芝草文は、あえてそのなかで中間的な地点にみずからの絵画の場所をみいだそうとしているように思われる。
たとえば「起源説」などの画面の構造を見てみよう。まずもっとも奥深くには、地と図の関係もわからなくなるような、距離感も明暗でない茫漠とLた空間が横たわっている。そしてもっとも前面、つまり仮想の平面上にはグリッドが配置されている。これはちょうど障屏画に貼られた金箔の方形や、キュビスムのパピエ・コレが、見る人の意識を平面上につれもどすのと同じ作用をおよぼす。そしてそれらのあいだには(きわめて判然としない位置に)、放射状に交差する線がちりばめられている。
芝はこのようにして、画面に深度の差を設定しようとする。だが、けしてふたつの極を対比的に示そうとするためではなく、両極と緊密な関係をもった中間の領域を生みだし、そこに絵画を位置づけようとするためなのだ。また同時に、この重層的な構造は後方から表面にむかって、カオスからコスモスへ段階的に秩序づけられてゆくものとしてみることもできる。だがここでも、不可逆的な進化の方向性が重要なのではなく、完全なカオスでもない、完全なコスモスでもない生成しつつある中間的な状態が示されているのだ。このような中間的領域への志向は、作家自身によって語られている。
「絵画はそんな消えゆくものと、とどまるものの間にある、不確な世界を平面という網膜に焼き付ける作業なのだ。」(今日の作家「位相」展カタログ)
ここで忘れてならないのが、芝の描くこのような領域に凝集している力のことである。たとえば「磁力線」「阿吽の呼吸」という連作の題名からも、問題とされているのが、知覚しえないような力がふたつの極の間でスパークするような緊張した場であることがわかるだろう。この時、うつろいゆくような、あやふやな中間領域が、実は力が集結し、もっとも緊張感にあふれたダイナミックな場として現れてくるだろう。
だとすれば、太古の地球が凝固して雨が降りだすようにコスモスにむかう気配を漂わせる最近作は、これからどの方向へ動いてゆくのだろうか。