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AKIFUMI SHIBA  芝 章文


芝章文の変化について

谷川 渥 
                        

  芝章文の絵画は、90年代に入って劇的に変化した。錯綜する線の際立つ屏風絵のような装飾的画面から、キャンヴァスの内側に大きな楕円形が浮かび上がる抽象表現主義風ともいうペき画面に転換したのである。日本画の岩彩はアクリルへと席を譲った。
 画家自身によってMAOと名づけられたこの新しい作品群は、はじめ雲か霞か、あるいは綿の塊りが浮遊しているように見えたものだった。そうした印象は、作品がおおむね青と白を主体としていたことにも関係していよう。なにか定かならぬものの浮遊と見えた楕円形は、しかしまたどこか異界へ連絡する穴の出現のようにも思われた。いずれにしても、このもやもやしたものは、垂直線と水平線とからなる矩形のキャンヴァスの外側からの圧力に内側から抗するかのように、まさにその位置にその大きさで存在したのだった。
 もやもやを構成しているのは、アクリルとメディウムによる独特のぼかし効果である。こうした絵具の用い方は、アメリカの抽象表現主義あるいはカラー・フィールド・ペインティングと呼ばれるところのものに属するある種の絵画に端的に見られる。マーク・ロスコやモーリス・ルイスといった名前を直ちに思い浮かべることもできるだろう。しかし、このもやもやはまた、伝統的な日本画のうちに認められるあの不思議な霞状のものの全面的登場と見られなくもない。俯瞰構図の風景画において、不必要なものを隠し、あらわにすペきものをあらわにし、かつ独特の奥行き感を与える、日本画の遠近構図に不可欠のあの意匠である。この不定形(アモルフ)な意匠が楕円形を成しながら画面に充満したのだとすれば、画家の劇的な変化と見えたものの背後には、やはりそれなりの筋道のようなものがあったのかもしれない。ともあれ画家は、日本画特有の朦朧体をモダニズムの最も真正な部分と強引ともいえるやり方で接合することによって、新たな地帯へ踏み出そうとしたのである。
 しかし、もやもやがひとつの穴の表象と受けとられることを恐れるかのように、一方で画家はその上に線分や色斑を描き加える。線分の場合には、たとえばフォンタナがキャンヴァスを切り裂いて、かえってその即物的な平面性を際立たせたように、一種の亀裂の効果をもってもやもやを画面のレヴェルに引きとどめる。色斑の場合は、もやもやからまた新たな小さなもやもやが浮かび上がってくるように見えることで、画面の平面のレヴェル、あるいは手前方向へともやもやを引きつけるのだ。要するに、もやもやは穴のように見えて、しかも深みをもったひとつの穴であることをやめることになる。
 イリュージョンとその否定とを同居きせることによる、いわくいいがたい空間表現がもくろまれたわけだ。地と図、窪みと浮きといった二元性を肯定も否定もしないその曖昧なありようこそ、この画家のめざすところだったといっていいだろう。
 画家の作風は、しかし最近また微妙に変化した。青や黄といった比較的明度の高い色彩の使用が抑えられ、茶とも紫とも赤とも黄土色とも見える、明度も彩度も低い鈍い色彩で画面が覆われるようになった。もやもやであることには変わりはない。だが画家は、それが雲や霞や綿に見まがわれることを意識的に拒否し始めている。筆触も若干変化したように思う。物質感がやや希薄になった。筆の塗りを感じさせる平面感が強くなった。もやもやは、明らかに穴を思わせることをやめたのだ。
 イリュージョンの側面が後退した。いや、むしろ別のイリュージョンが登場したといっていいかもしれない。皮膚の、イリュージョンである。それも決して健康な皮膚ではない。病的な皮膚である。たとえば古賀春江の絵画を思わせないではいないその色彩も、そうした印象をいっそう強める。もやもやに傷のような線分を入れることがなくなり、もっぱら湿疹あるいは身体内部の病変を指し示す炎症のような暗い色斑を置いていることも関係しよう。
 この変化は、いったいどうしたことだろう。意識的な画家が、知らず知らずのうちに変化を蒙っているということはありえない。画家は、意図的に「美しい」絵を描くことをやめたにちがいない。明度も彩度も抑え、光をとどこおらせ、病的な皮膚を思わせないではいない画面をつくりながら、画家は己れの進むべき方向を見定めようとしているのかもしれない。
 MAOとは、画家の説明によれば、空海の幼ない頃の名、真魚から来ているという。未成熟な人間のアウラのようなものとして、絵が成熟してほしいという願いがこめられているらしい。たしかにMAOは生長しつつある。画家自身の計算とは若干のずれがあるかもしれない。それが芸術というものであり生長というものであろう。しかし成熟であるかどうかはわからない。
 芝草文の変化は、つねにプロブレマティツク(問題的)である。それがこの画家の魅力であり、われわれが気にかけずにはいられない所以である。MAOの生長を見守ることにしよう。

                  (たにがわ・あつし/美学)
          

1996年 11月6日〜11月27日 文房堂ギャラリー個展カタログに掲載


MAO-1020896 綿キャンバスに油彩 1500×1100mm 1996年

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