たとえば、ひとつの漢字をさらりと眺めることにする。
そのとき、それはまごうことなき意味を持った形象として視覚化され、そして認識されるという脈絡を踏む。
ところが、その漢字をさらにじっと眺めていると、やがて扁と旁が違和感のある形象として分離し、さらに画の次元にまで降りたって解体し、浮遊しだす。
人間が風景などに感じるおもむきにも、これと似たようなことがある。
注視さえしなければ、温和なヴェ−ルを被った“自然さ”に支配されていたろうに、注視したがゆえに、ある時、ある瞬間、それは“異形なるもの”に変貌し、やがて作品はみずからその“異形なるもの”を紡ごうとする欲望を顕在化させる。
よくもわるくも、芝章文の絵画は、その路程をみずからに課してしまったかのようである。
絵画上の<視覚>の問題がからまるあるフェンス(あるいはバリアー)を「絵画体」にすることで、かたちなきものを有形の、しかし抽象的なモードに引きあげようとしてきた『起源説』までの芝の絵画の流れ。それはさまざまなバリエーションをもって展開されつつも、見ようによっては、“最終的に風景たらんとする意識”を投影していた。
たぷん、その整合的集約から離反しようとして、風景はヴェ−ルを剥がれ、フェンスを構えることでより構築的な抽象の意識がそこで顕在化するはずであったが、しかし、さまざまなあらがいの果てに、抽象イメージとはいえ、ふたたび風景 一 二次表象としての表象機能 ― がそこに降下したのであった。
風景 一 外視(外的視点)― さりげなく知覚化されるもの……
それら、不用意につながってしまう脈絡に対して、芝はどのような転換点を構えようとしたのか。
たぷん、今年の新作はその意味を担っていよう。
外視に対しては<内視>、やわらかなモードに対してはより強固なマテリアル・イメージを、そしてなによりも広がる雲のイメージを微視的なるものの拡大のイメージである「結晶」に変換しようとした。それはあたかも鉱物の内部世界を直進する顕微鏡がとらえた世界のようでもある。
それはアモルファス(非晶質)のフォルムへの還元か? あるいは視点を変えただけのもうひとつの風景の顕在化の行跡か?
いずれでもあろうし、またそうでもありえないのだろう。
ただし、芝が絵画の呪縛にとりつかれていることだけは確かだ。それももっとも困難な内視覚の方向性をとることによって……
この呪縛の軌跡を踏むことだけでも、やがて来たるべきものがあるとすれば、たぷん、より以上に豊穣な姿になっていよう。